富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第41回

6.「魔術師のおい」(6)

 牧師 藤掛順一


 アスランは、もの言うけものたちにさらにこう言いました。「そしてみなのものにこのナルニアの国土を永遠に与える。また森とくだものと川を与える。星々を与える。さらにまたわたしはここの諸君にわたし自身を与える。わたしが選びださずにおいた、ものいわぬけものたちも、諸君のものだ。あれらにやさしくし、いつくしんでやれ。しかし、あのものたちの生きかたにもどってはならない。そうなると諸君は、ものいうけものであることをやめるだろう。諸君は、あのものたちの中から取りだされたのだから、あのものたちの中にもどることもできる。あともどりをしないようにせよ。」
ここには、創世記1章26節以下に語られている、神様が人間を祝福し、地を従わせ、生き物たちを支配する者とされたというみ言葉が反映しています。人間が地を従わせ、被造物を支配する者とされているというのは、しばしば誤解されているように、人間がこの世界や自然を好き勝手に破壊してもよいということではなくて、神様のみ心に従ってそれらに「やさしくし、いつくしむ」ことを求められているということです。神様が恵みによって自分たちを被造物の中で特別な立場に置いて下さったのだということを忘れ、神様のみ心と与えられた使命を覚えなくなった時に、人間は被造物に対する暴君になってしまうのです。
 またここには、「神の民の選び」というテーマも語られています。もの言うけものたちは、他のけものたちの中から選ばれて、言葉を、つまり人格を与えられたのです。それは、アスランとの、つまり神様との交わりに生きるためです。このことは、イスラエルの民が、そして今では新しいイスラエルである教会が、神様の民とされ、「選ばれた者の群れ」とされていることと重なります。そしてその神の選びは、選ばれた者が他の者よりも偉いということではなくて、神を信じて生きるという特別な恵みを与えられたということです。その恵みを与えられている者は、それを与えられていない者を見下げるのではなくて、「やさしくし、いつくしむ」ことを求められているのです。信仰者には、そのような責任、使命が与えられているのです。そしてさらにここには、「あのものたちの生きかたにもどってはならない」という警告が語られています。神の選びによって信仰を与えられたことは、救いの特権を得たことではありません。神との交わりのために言葉を与えられた者が、その言葉を正しく用いて神との交わりに生きるのでなく、自分の思いや欲望のためにそれを用いていくならば、選ばれた意味は失われ、元の、もの言えぬ状態に戻ってしまうのです。最終巻「さいごの戦い」の中にそういう事例が出てきます。
 さらにもう一つ、アスランがここで「わたし自身を与える」と言っていることに注目したいと思います。ここの原文は"I give you myself."です。これは前回紹介した「いきとしいけるものたちよ。わたしは、それぞれにそのもちまえを与える」 (Creatures, I give you yourselves.)と対になっています。「あなたがた自身を与える」とは、あなたがたに人格を与えるという意味でした。そのように私たちに「私たち自身」を与え、神との交わりの内に生かして下さる神は、さらに「わたし自身」つまり神ご自身をも与えて下さるのです。アスランが「わたし自身を与える」という約束は、第1巻「ライオンと魔女」において、ナルニアを魔女の支配から救うために身代わりになって死ぬことにおいて果たされています。それは神の独り子イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架にかかって死んで下さったことを表わしていることは言うまでもありません。神がご自身を私たちに与えて下さっているという、聖書が語る恵みの中心を、ルイスはまことにさりげなくここに語っているのです。
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