1.キリストの御臨在によって建つ教会
今朝与えられております御言葉に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(20節)とあります。皆さんもよく知っている御言葉です。このイエス様の言葉、イエス様の約束が、教会を教会たらしめているものです。キリストの教会は、イエス様がこの群れのただ中にいてくださるという事実によって建っています。
私共は今朝もこのようにして、主の日の朝、ここに集って礼拝をささげております。この礼拝が礼拝として成立している根拠は、ここにイエス様がいてくださるという事実です。もし、ここにイエス様がおられなかったならば、説教は牧師のお話に過ぎず、祈りは独り言であり、賛美はただ皆で歌を歌っているに過ぎません。しかし、イエス様がここにおられるが故に、この礼拝は神様の御前における礼拝となり、説教は説教となり、祈りは祈りとなり、賛美は賛美となり、教会は教会となります。教会は建物でもなければ、組織でもなく、二人または三人がイエス様の名によって集うところに建つ。これが教会の本質です。
教会とは何かとの問いにも、このイエス様の言葉によって答えることが出来ます。教会とは、イエス様の名によって二人または三人が集まるところです。イエス様がそこにおられるからです。この出来事は人間が作り出すことは出来ません。ただイエス様がそのように約束してくださった。そして、その約束のとおり、二人または三人がイエス様の名によって集まるところには必ず御臨在される。このことによって教会は建ってきましたし、建っています。教会は人数ではない。それは負け惜しみでも何でもなく、このイエス様の御言葉によって与えられている事実なのです。
勿論、だからと言って、教会は二人または三人が集まればそれでいいのだということではありません。私共には伝道への使命が与えられているのですから、一人でも多くの者がこの教会に増し加えられることを願い、求めて歩みます。先週は「礼拝とコンサート」と称して、伝道礼拝・伝道集会を行いました。その私共の営みもまた、イエス様の伝道への御命令に従い為されたわけですが、同時にイエス様がここにいてくださる、御臨在される、そのことによって成立していることです。伝道は、私共の勢力拡張などというつまらない業ではありません。
2.二人または三人がイエス様の御名によって集まる
イエス様はここで、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには」と言われました。一人ではないのです。二人または三人です。最も小さな、複数の人です。ここで一つの問いが生まれます。一人ではダメなのかということです。私共が一人でいる時はイエス様は共にいてくださらないのか。そんなことはありません。私共が一人の時も、イエス様は私共と共にいてくださっています。病床で独り、眠れぬ夜を過ごしている時、イエス様が共にいてくださらない。そんなことはあり得ません。私共がどんな時も、良い時も悪い時も、喜びの時も嘆きの時も、楽しい時も苦しい時も、イエス様は私共と共にいてくださっています。
だったら、どうしてイエス様はここで「二人または三人」と言われたのでしょうか。それは、イエス様はここで、キリストの教会についてお語りになったからです。このマタイによる福音書18章は、前回も申し上げましたけれど、教会についてイエス様が私共に教えてくださっている所です。イエス様はここで、「二人または三人がわたしの名によって集まる」なら、そこにわたしがいてキリストの教会が建つのだと教えてくださったのです。
こう言っても良いでしょう。二人または三人というイエス様の名によって集まる者たちの交わり、そこにイエス様はおられ、教会は建つ。イエス様の名によって集う交わり。イエス様を信じ、イエス様を愛し、イエス様を信頼する者の交わり。それが教会です。何故なら、そこにイエス様がおられるからです。イエス様はここで教会の定義を語られていると言っても良いでしょう。教会は建物でもなければ、制度でもないのです。1890年の日本基督教会の『信仰の告白』には、「聖なる公同の教会すなわち聖徒の交わり」とあります。「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」の間に「すなわち」が入っています。この「すなわち」は原文にはありません。解釈として加えられたものです。つまり、私共のキリストの教会に対しての基本的理解は、「聖徒の交わり」であるということなのです。ローマ・カトリック教会が「司教のいるところに教会がある」という理解に対して、私共は、二人または三人がキリストの御名によって集うならば、そこにキリストは御臨在され、教会が建つ。そう理解しているわけです。
3.神の御業として赦しが為される教会
しかし、ここで私共がもう一つ聖書からよく聞かなければならないことは、イエス様はどういう文脈の中で、何を意図して、このことをお語りになったのかということです。この「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」というのは、キリストの教会の本質を定義したものであり、とても大切な、そしてとても有名な御言葉です。教会を語ろうとすれば、この御言葉抜きに語ることは出来ない、そういう御言葉です。でも、そうであるが故に、しばしばこの御言葉だけが前後の文脈とは関係なしに引用され、語られてきました。しかし、イエス様がこの御言葉を語られた時、そこには明確な文脈がありました。それは、「赦しの権能」との関わりです。そもそも何のためにキリストの教会は建っているのか。神様の、イエス様の救いの御業に仕えるためです。そして、その救いの御業とは「主イエス・キリストによる救いの御業」であり、それは「罪人に対しての罪の赦し」なのです。罪が赦され、神様との親しい交わりが与えられるためです。
キリストの教会が生まれる。人々がそこに集う。イエス様を信じる者の群れが出来る。そうすると、そこには必ず問題が生じるのです。教会は天国ではありません。地上の群れです。罪人たちの群れです。ですから、教会はいつでも何の問題も起きない平和な所というのは幻想です。残念なことですが、この地上で起きる様々な問題は、この教会の中にも起きるのです。お金の問題、性の問題、人間関係の問題、何でも起きるのです。教会の中から、明らかな罪を犯す人も出て来る。そういう時、教会はどうするのか。そういう文脈でイエス様はこのことを語られたのです。
4.戒規の四段階
今朝与えられた御言葉には、「兄弟の忠告」という小見出しが付いています。その前の所は、群れから迷い出た1匹の羊を、羊飼いが99匹を残して捜しに行くというたとえ話が語られました。そして、14節「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と告げられた。この小さな者が一人でも滅びないようにする、それが教会のあり方なのだと教えられました。そして今日の所です。ここには、具体的に罪を犯した者に対しての対処の仕方が語られています。この「具体的に罪を犯した者」が「群れから出て行った一匹の羊」です。その人に対して教会が為すことの目的は、小さな者が滅びることのないようにすることです。この目的を見失ってはなりません。そして、イエス様は具体的に次の四段階の対処の仕方をお語りなられました。
第一の段階は、「二人だけのところで忠告しなさい」です。その人が罪を犯していることを知ったならば、直接その人に二人だけのところで忠告しなさいというのです。ここで忠告を受け入れ、悔い改めるのならば、それに越したことはありません。それで終わりです。それどころか、互いに和解を与えられ、神様の御前に感謝の祈りを合わせるでしょう。そこで、今までよりももっと深い、神様の御前に共に歩む者としての友情が生まれます。しかし、その人が忠告を受け入れない、自らの非を認めない。その場合は第二段階へと進みます。「ほかに一人か二人、一緒に連れて行って忠告する」のです。そこで忠告を受け入れ、悔い改めるのならば、それで終わりです。しかし、それでも本人が非を認めない場合、第三段階に進みます。それが「教会に申し出る」です。ここで初めて教会において公になります。教会として対処するということになります。私共の教会で言えば、長老会の議題となり、その人から事情を聞き、これを忠告、訓戒するということになります。そこで悔い改めるなら、それで終わりです。しかし、それでも悔い改めなければ、第四の段階へと進みます。それが、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」ということです。これは、私共の福音主義教会の伝統で言えば、陪餐停止、更には除名ということになります。
これらはいわゆる戒規ですけれど、これはどこまでもその小さな者が滅びないようにするために、その人が具体的な罪を悔い改めて、再びキリスト者として健やかに歩むために為されるものであるということです。ですから、その人が自らの非を認めて悔い改めたのであれば、それで終わりです。戒規は懲罰ではありません。勿論、戒規など為されない方がいいに決まっています。しかし、しなければならないことがある。明らかな罪をそのままに放置することは、教会がその罪を認めることになってしまうからです。しかし、戒規はどこまでもその人の救いのために為されるということを忘れてはなりません。ですから、その人が自らの非を認めて悔い改めたならば、そこで終わるのです。戒規は、罪を犯した者に罰を加えるということではありません。どこまでも、その人の救いのために為されるものです。だから、本人が悔い改めたならば終わりなのです。
だったら、第四段階の「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とはどういう意味なのか。それは、その人をイエス様の御手に委ねるということです。私共は悔い改めを求めて訓戒します、何とか信仰者として立ち帰って欲しいと願って忠告もします。それでも、その人が悔い改めなかったならばどうするのか。残念ながら、人間には悔い改めさせる力などないのです。悔い改めさせる、それは神が為さることです。私共に出来ることは、その人が悔い改めることを願い祈ることだけです。教会には限界があるのです。
5.鍵の権能
このようなことを地上の教会は為さねばならない時があるわけですけれど、それは教会にそれを行う権能が与えられているからです。それが、18節「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言われていることです。これは罪の赦しの権能です。イエス様はこの権能を教会に与えました。「つなぐ」とは罪を確定することであり、「解く」とは罪の赦しを宣言することです。私共の罪を赦すことが出来るのは、神様・イエス様だけです。人間には出来ません。イエス様は、それを教会にお与えになった。これが「鍵の権能」と呼ばれるものです。だから、教会は洗礼を行うことが出来るし、しなければならないのです。「洗礼」は神様によって与えられる「罪の赦し」「神様と父・子の関係」「永遠の命」という「見えない恵みの見えるしるし」です。勿論、洗礼は聖霊の御業です。人間がこれを定め、人間が執り行う単なる「儀式」ではありません。人間はどのような儀式によっても救いに与ることなど出来ません。儀式によってではなく、聖霊なる神様によって赦しが宣言され、現実となります。ですから、洗礼が成立するかどうか、それは聖霊なる神様の御臨在によります。イエス様の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」との御言葉は、この赦しの出来事が起きる根拠を示されたのです。
6.二人が心を一つにして求めるなら
ですから、19節の「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」というイエス様の御言葉も、その関連で理解されなければなりません。これは、二人で心を合わせて祈れば何でもかなえられる、ということではないのです。二人で心を合わせて宝くじが当たりますようにと願い求めたら、そうなる。そんな約束をイエス様はここでされているのではありません。ここも、きちんと前後の文脈の中で理解されなければなりません。イエス様がここで約束されたのは、罪を犯した小さな者が悔い改め、再び神の子・神の僕として健やかに歩むことが出来るように、神様にその人の罪の赦しを二人で心を合わせて祈り願うならば、その祈りはかなえられるということなのです。ここで二人と言われていることは、本人が求めるというだけではなくて、他の人が必要だということでもあります。そしてまた、これは私共の伝道における基本姿勢を示しているとも言えます。この人がイエス様の救いに与るようにと、二人の人が心を合わせるならば、神様はその祈りを聞いてくださるというのです。私共の伝道は、この心を合わせた祈りによって始まるということなのでしょう。
7.罪赦された罪人の群れとしての教会
キリストの教会は、神様による罪の赦しを宣言し、その赦しに生きる群れとして建てられています。教会は確かに罪人の群れです。しかし、罪赦された罪人の群れなのです。ただの罪人の群れではありません。ただの罪人の群れなら、この世の他の団体と何も変わらないでしょう。しかし、キリストの教会はキリストの体です。キリストがそこに御臨在される交わりなのです。この群れに集う罪人は、自らの罪がイエス様によって赦されたことを知っている、罪赦された罪人なのです。
罪赦された罪人。それは、自らの罪を神様の御前に隠すことなく差し出し、その罪をイエス様の十字架の血によってぬぐわれた者です。イエス様の十字架の前に立ち、自らの罪を悔い改めることを知っている者です。イエス様の名によって集まるとは、自らの罪を悔い改めて、赦しを求めて集まるということです。このイエス様の赦しに与る者の群れが教会であり、その赦しを与えるためにイエス様はその群れのただ中におられるのです。私共が主の日の度毎にここに集って礼拝を捧げているのは、何よりも神様から罪の赦しの宣言を受けるためです。赦しに与るためです。
私共は、今から聖餐に与ります。私のために、私に代わって、イエス様は十字架にお架かりになり、一切の罪を赦してくださった。その恵みの事実を共に受け取り、共にその赦しに生きる者として、互いに赦し合い、仕え合って、御国への歩みを為してまいりましょう。イエス様は今日も私共のこの群れのただ中にいてくださって、罪の赦しを私共に与えてくださっています。
[2019年10月6日]
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