富山鹿島町教会

礼拝説教

「毒麦のたとえ」
ダニエル書 12章1〜3節
マタイによる福音書 13章24〜30節、36〜43節

小堀 康彦牧師

1.2018年最後の主の日を迎えて
 2018年最後の主の日の礼拝をささげています。クリスマスの諸行事も終わり、今度は帰省してくる家族を迎える準備に皆さん忙しくしておられることでしょう。この時期、テレビや新聞では一年間の出来事やニュースを振り返ることが多いようですが、私共の教会においても、またそれぞれの家庭にあっても、色々なことがあった一年でありました。今、一つ一つを振り返ることは致しませんけれど、改めて「それでも守られた。」との思いを持ちます。このように2018年最後の礼拝に集いながら、今年も何とか信仰の歩みを守られた、何よりもそのことを本当にありがたいことだと思うのです。
 信仰者として、キリスト者として、立派な歩みを為して来たわけではありません。たどたどしい歩みでした。それでも、主の日の度毎にここに集い、御言葉を受け、賛美をささげ、祈りを合わせてきました。そのことが本当にありがたい。神の子・神の僕とされて、神様に向かって「父よ」と呼びながら、一年間歩んで来た。新しい2019年も、どんなに弱々しくたどたどしい歩みであったとしても、キリスト者として信仰の歩みを守られたい。そう心から願うのです。

2.天の国のたとえ
 さて、今朝与えられております御言葉は、イエス様がお語りになった「毒麦のたとえ」です。このたとえ話は、マタイによる福音書にしか記されておりません。
 こういうたとえ話です。24〜30節「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」とても単純で印象的な話しですので、一度聞けばすぐに覚えてしまう話です。
 ここでまず確認しておかなければならないことは、これは「天の国」のたとえ話であるということです。マタイによる福音書では「天の国」ですが、ルカによる福音書では「神の国」です。これは全く同じものです。このたとえ話は、天の国・神の国、神様の御支配とはこういうものだとイエス様が語られたのです。イエス様が天の国・神の国についてお語りになる時、「そこには花が咲いていて、きれいな川があって、鳥の声が聞こえて、羊がのんびり草を食べていて…」などといった風景や情景を語られることは一切ありません。そんなことに興味はないのです。そもそも、天の国・神の国というのは、神様の御心が完全に行われる所という意味です。それは、イエス様が再び来られる終末において完成します。そして、私共は既に天の国・神の国に生き始めています。終末における神の国の完成を目指しながら、既に始まっている天の国・神の国に生きている。その私共が実際に信仰の歩みを為している、その歩みについて、この毒麦のたとえは語っているわけです。

3.毒麦はなくならない
このたとえで私共が第一に知らされることは、終末に至るまで毒麦はあるということです。神様の御心に逆らう人々がいなくなることはないということです。この地上にあっては、すべての人が神様の御心を第一として、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う、そのような理想的な交わりや社会が存在することはないのです。ユートピアは存在しないのです。何故なら、神様の御心に反する毒麦がなくなることはないからです。それは、終末において毒麦が集められて焼かれるまでなくならないのです。神様の御心が完全に行われる神の国の完成は、イエス様が再び来られるまで為されないのです。
 このたとえにおいて、「毒麦を抜いて集めましょうか。」という僕の言葉に対して、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言います。ここで主人は、毒麦を滅ぼすことよりも、麦を一緒に抜いてしまうことを恐れるのです。つまり、一本の麦が毒麦を抜くことに巻き込まれて滅んでしまうことを恐れるのです。麦一本一本、つまりイエス様を愛する私共一人一人を徹底的に大切にされているイエス様の御心がここに表れています。この御心の中で生かされているのが私共なのでしょう。

4.良い麦、毒麦とは何か
 ここで改めて、良い麦と毒麦とは何を指すのかを考えたいと思います。普通このたとえを読みますと、自分は良い麦の方に入れて、毒麦は自分以外の人、或いは自分のグループ以外、自分の教会以外の人、そのように考えがちだと思います。自分を毒麦として読む人はまず居ません。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 ここで、「種を蒔く人のたとえ」を読んだ時のことを思い起こしましょう。その時「道端、石地、茨の地、良い土地という四つの土地は、私共人間を指しています。しかし、これは生まれつき決まっているものではない。だから、自分は道端だ、石地だ、茨の地だと決めてはいけない。生まれつき良い地なんて無い。道端だろうと、石地だろうと、茨の地だろうと、どんな土地もやがて良い土地になることをイエス様は望んでおられる。そして、イエス様は私共がそうなるように私共の心を砕き、やわらかにして、神の言葉を受け入れる者へと変え続けてくださっている。」そう申しました。それと同じで、自然の麦と毒麦は育つ途中で変わることはありませんけれど、ここで言われている、神様に敵対していた毒麦が神様の御心に従う者という良い麦に変わるということは起きるし、イエス様はそれを待っておられるのでしょう。
 もし、良い麦はどこまでも良い麦、毒麦はどこまでも毒麦であって、決して変わることがないとしたら、私共に救われる道はありません。何故なら、私共は生まれながらの毒麦だからです。私共は決して生まれつき良い麦なんかではありません。しかし、この毒麦が神様の愛を知り、御心を知り、この方を愛し、この方に従って生きていきたいと思うようになった、それが私共です。でも、完全に良い麦になったのかと問われれば、「かなり毒麦の所もあります。」と正直に答えるしかない私共なのではないでしょうか。
 私は良い麦、あの人は毒麦。このような物の見方、人に対する見方こそ、私共がこのたとえ話によって改めることを求められていることではないかと思うのです。私共は元々良い麦ではないのです。元々は毒麦なのです。その私が変えられた。そして今も変えられ続けている。だから、あの人もこの人も変えられていく。あの人は毒麦だからダメだ、見込みがない。そんなことを言える人など一人もいないのです。

5.神様の畑としての教会
 昔から、この良い種を蒔かれた畑は、キリストの教会と理解されて来ました。教会に毒麦が生えたとしても、だからといってその畑がもうダメになったということではないし、そもそも毒麦は生えるものなのです。歴史的正統な教会は、必ず毒麦を内包していることを認めて来ました。
 前任地にいたとき、西部連合長老会の牧師会でN・Oという牧師にこう言われたことがあります。私が牧会上のことで困ってしまい、相談した時だったと思います。「教会は神様の畑だ。でも、教会という神の畑に毒麦は生えるものなのだ。ひょっとすると、良い麦よりも毒麦の方が多いように見えることだってあるかもしれない。しかし、毒麦を引き抜いてはいけない。一緒に良い麦も抜いてしまうかもしれないから。それに、どんなに毒麦が多く生えても、それは毒麦畑とは言わない。小堀君、教会はどこまでも神の畑なのだよ。」そう言われたことが忘れられません。
 教会の中で問題や混乱があると、これでも教会かと言いたくなってしまうところが私共にはあります。確かに、教会の中では色々なことが起きます。しかし、だからダメな教会だ、そんな風に考えてはいけないのです。神様の畑なのですから。そして、神様が忍耐して待ってくださっているのですから。この神様の忍耐がなければ、救われる人なんて一人もいません。この神様の忍耐の中で生かされている私共なのです。だから、互いに裁き合うことだけは避けなければなりません。自分が良い麦だと思うから、相手を裁くのでしょう。しかし、自分もまた、良い麦に変えられ続けている毒麦に過ぎないのです。
更に、こう言っても良いでしょう。良い麦と毒麦は、実を付けて刈り入れる段階にならないと見分けづらいのです。良い麦なのか、毒麦なのか、よく分からない。もちろん神様は御存知でしょう。しかし、私共にはよく分からないのです。だから、自分にとって気が合う、考え方が合う、それを良い麦とし、自分と気が合わない、考え方が合わない、そういう人を毒麦にしてしまうということが起きるわけです。「いじめ」などということもそれでしょう。しかし、自分を基準にして良い麦と毒麦の判断をするなんてことは、とんでもない話でしょう。それでは教会も、社会と少しも違わないということになってしまいます。
教会にも毒麦はある。しかし、どれが毒麦なのか、それはそんなに簡単に分かるものではないのです。何しろ、毒麦が良い麦に変えられていくのが、神の畑である教会という所だからです。もちろん、その逆だって起きるでしょう。良い麦だったのだけれども毒麦になってしまうということもある。だから、イエス様は収穫の時である終末を待つようにと言われたのです。だったら、私共は待たなければならないのでしょう。

6.神様の畑としての世界
 さて、この神の畑を教会として見てきましたが、イエス様は38節で、「畑は世界」だと言われました。この世界は神様によって良い麦の畑として造られたということです。ところが、現実には悪い力が大手を振っている。神様の御心に従おうという力よりも、自分の欲を満たそうとする力の方がずっと大きいように見えます。力ある者が弱い者を虐げている現実があります。それは、小さなグループや組織から国と国との対立・戦争に至るまで変わりません。どうしてそういうことになってしまっているのか。イエス様は、それは良い畑として造られた世界に、悪魔によって毒麦が蒔かれたからだと言うのです。確かに、現実の世界は良い畑どころか、毒麦畑の様相を呈しています。そして、そのような世界のただ中に、キリストの教会は建っています。そして、教会の中にも良い麦と毒麦がある。しかし、それでも教会は知っています。やがて時が来れば、イエス様が再び来られ、毒麦は焼き滅ぼされる。でも、世界はそれを知りません。毒麦はいつまでも自らの力を誇り、この世界の支配者は自分であると自惚れています。しかし、そうではありません。この世界は神の畑です。この世界の主は神様、イエス様なのです。そのことを知っているのが私共であり、キリストの教会です。そして、そのことを世に向かって証しする者として教会は建てられています。

7.その日、わたしたちは太陽のように輝く
 イエス様が再び来られる時、毒麦は燃え盛る炉の中に投げ込まれ、正しい人々は父の国で太陽のように輝くのです。たとえ、この世の歩みにおいて私共はどんなに弱々しくても、少しも輝いていないような者であったとしても、イエス様が再び来られる時、私共は変えられます。太陽のように輝くことになっているのです。そのことを知っている者、知らされている者として、私共はこの地上の歩みを為していくのです。
 その日が来ることを知っている、その日に向かって生きている、それがキリスト者というものなのです。毒麦畑のようなこの世界に対して、私共はそのことを告げていく。この世界は神の畑であり、この世界の主は神様であるということ。そして、この世界にはやがて終わりが来ること。そのことを言葉と存在と行動をもって証ししていくのです。毒麦は、そのような証しに対して少しも耳を貸さないかもしれません。しかし私共は、毒麦も良い麦に変えられていく事を信じています。何故なら、私共もまた毒麦だったからです。今だってどこが良い麦なのか。毒麦だった頃と少しも変わらないではないか。そう思われるかもしれません。しかし、私共は証しすることをやめません。何故なら、イエス様は、毒麦が毒麦のまま滅びることを少しも望んでおられないからです。
 イエス様は、毒麦を集める時に良い麦を一緒に抜いてしまうかもしれないからと、毒麦を放って置かれる。それは良い麦のことを心配してのことです。しかし、それだけではない。毒麦が、たとえ一つでも良い麦に変えられて、滅ぼされなくなることを待っておられます。イエス様は、そのために十字架にお架かりになられたからです。イエス様の十字架は毒麦の救いのためです。毒麦に代わって、自らが裁きをお受けになったのです。毒麦は、このイエス様の十字架に出会って、良い麦になる。私共はそのことを信じて良いのです。この世界は変えられる。もちろん、毒麦がすべてなくなることはありません。しかし、少しずつ良い麦が増えていく。それは確かなことです。その御業のために、私共は先に良い麦とされました。
 私共のたどたどしい信仰の歩みは、この最後の日に向かって、この世界の主、私の人生の主が、神様であることを証しする歩みなのです。その歩みが2018年の一年間、守られ続けたことを心から感謝したいと思います。

[2018年12月30日]

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