1.普遍的宗教としてのキリスト教
キリスト教は世界宗教です。日本ではキリスト者は人口の1%しかおりませんけれど、世界では統計上3人に1人がキリスト者です。私共が、あの国はイスラム教の国だと思っている国でも、日本以上にキリスト者がいるという国も少なくありません。どうしてキリスト教はこれほど広く、世界中で信じられるようになったのか。歴史的には色々な理由があるでしょう。キリスト教会がずっと伝道をし続けたということもありましょう。しかしその根本は、イエス様によってもたらされた救いが普遍的なものだということなのだろうと思います。普遍的、つまり国や民族や時代や文化を超えて、それらに左右されることなく与えられる救いであるということです。それは三つの点でそう言えると思います。
第一に、私共の神様は、天地を造られた唯独りの神であられるということです。天地を造られた唯独りの神様ですから、国家や民族というような枠を超えて拝まれるべき神様だということです。民族や部族の神ならば、それは元々世界宗教にはなり得ませんし、民族や部族を超えて伝道するということもないでしょう。また、その国家や民族が衰退すれば、それと共に衰退するということにもなります。
第二に、イエス様が与えられる救いは、国家や民族や社会階層といったものに左右されることなく、求める人には誰にでも与えられるということです。この条件を満たした人にしか救いが与えられないという、いわゆる救いの条件というものにおいて、目に見える社会的な一切のものが排除されているということです。求められるのは、ただ信仰です。信仰しか問われないのです。どこの国の人か、何語を話しているか、身分は何か、仕事は何か、収入はいくらか、男か女か、前科はあるか、学歴はどうか、そのようなものは一切問われないのです。
第三に、イエス様が与えてくださる救いは、人間の直面する普遍的な重大問題である、罪や死や生きる意味といったものに解決を与えるものであるということです。イエス様の十字架と復活による救いは、すべての人が必要としている救いであるということです。たとえ本人が自覚していないとしてもです。
2.ユダヤ人の誤解
聖書を通して語られる私共の神様は、天地を造られた神様ですから、その愛はすべての被造物に向けられているはずです。確かに、神様はアブラハムを選び、祝福の約束をなさいました。そして、その約束はアブラハム、イサク、ヤコブと引き継がれ、ヤコブの12人の息子、つまりイスラエル十二部族へと引き継がれていきます。このアブラハム契約は更にモーセ契約へと繋がっていくわけですが、神様は決してイスラエルの民だけを愛し、イスラエルの民だけを救おうとされていたのではありません。イスラエルの民を選び、神の民として訓練し、そこからすべての民へと救いの輪を広げていく。それが御心でありました。しかし、イスラエルの民は、この神様の御心を誤解してしまいます。自分たちは特別な神の民だ。選ばれた民だ。ここまでは良いのです。しかし、そこから自分たちだけが救われる。何故なら、自分たちだけが神様が与えられた戒に従って生きているから。他の民は汚れた民。神様に捨てられ、滅んでいく民だ。自分たちだけが正しく、自分たちだけが救われる。このように神様の救いを独占してしまったのです。これは神様の御心と違います。ズレています。おそらく神様の救いをユダヤ人の民族主義と一つにしてしまって、神様の憐れみが分からなくなってしまったのです。だから、神様は遂にイエス様を遣わされて、本当の神様の御心がどこにあるかをお示しになりました。そのことがはっきり示されているのが、今朝与えられている御言葉です。
3.安息日論争
今朝与えられております御言葉は、安息日論争と呼ばれている所で、12章の始めの所からの続きです。
1〜8節で、イエス様の弟子たちが安息日に麦畑を通る時に麦の穂を摘んで食べた、それが十戒の第四の戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」という戒を破っている。そうファリサイ派の人々は糾弾しました。安息日には何も仕事をしてはならないと定められているのに、弟子たちの麦の穂を摘んで食べるという行為は収穫であり脱穀である。これは明らかに安息日規定に違反しているというわけです。何をつまらないことを言っているのかと私共は思いますけれど、ファリサイ派の人々にとってはまことに重大なことだったのです。安息日は何もしない。これを徹底することによって、自分たちは神様の戒を守っている特別な民であることを証しすることが出来るからです。しかしイエス様は、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」との御言葉をもって答えられました。神様の憐れみ、それを示したのが十戒を代表とする律法なのであって、この神様の憐れみの心を受け止めることがなければ、律法を守っていると言ったところで何になるか。イエス様はそういう厳しい対応をされたのです。
そして、9〜14節では、安息日の会堂において片手の萎えた人をいやすことは律法で許されているかどうかと、実際に片手の萎えた人を前にして、ファリサイ派の人々はイエス様に問うたのです。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている。」と言って、この片手の萎えた人をいやされました。神様の憐れみを、御自身のいやしの業をもって現されたのです。その結果、ファリサイ派の人々はイエス様を殺そうと相談し始めました。
どうして、ファリサイ派の人々はイエス様を殺そうと相談し始めたのか。一つには、出エジプト記31章14節に「安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」とあるからだと思います。彼らは、この律法の言葉を文字通りに受け止めて、イエス様を殺そうとしたということなのでしょう。しかし、安息日に実際に仕事をしていた人は他にもいたわけで、例えば羊飼いなどは、安息日だからと言って、羊の世話をしないわけにはいきません。草を与え、水を飲ませなければいけない。だったら、羊飼いは皆、死刑に処されていたかと言えば、そんなことはないわけです。
彼らが、イエス様を殺そうと相談し始めたもう一つの理由は、イエス様の言動が自分たちが築いてきた正しさを崩しかねないと思ったからです。ユダヤ教の指導者として築き上げてきた、こうすることが御心に適うことなのだという正しさ、それが崩される。自分の正しさ、自分の面子、自分の立場、自分の権威が崩される。それに我慢がならなかった、許せなかったということでしょう。ここに人間の罪がはっきり表れています。彼らは神の正しさを守るかのようでいて、実は自分の正しさを守ろうとしていただけなのです。神様の正しさは、愛と憐れみと一つです。しかし、人間の正しさは、自分に反対する者に敵対し、これを排除しようとするのです。ファリサイ派の人々に排除されていた人、それは生活のためや病気のために律法を守れない人、罪人、徴税人、そして異邦人たちでした。しかし、神様の憐れみは、その人たちを排除するなどということはあり得ない。イエス様はそのことを示すために来られました。
4.イエス様が相手にする人
今朝与えられております御言葉は、その続きです。15節「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。」とあります。「それを知って」というのは、ファリサイ派の人々が自分を殺そうと相談し始めたことを知ってということでしょう。しかし、イエス様は、殺されてはたまらないので逃げたということではないだろうと思います。イエス様は、やがて十字架にお架かりになるのですけれど、今はまだその時ではない。だからそこを立ち去られたということなのだと思います。イエス様は御自分が十字架にお架かりになることを分かっておられました。しかし、その時を定められるのは神様です。イエス様は、まだその時ではないことを神様に示されていたのだと思います。
更に言えば、相手にすべき人々はここにいる人々ではない、そのことを知ってイエス様は立ち去られたということではないかと思います。イエス様が相手にすべき人と考えたのは、イエス様の後に従った群衆でした。イエス様は彼らの病気をいやされました。多分、15節に記されている、皆の病気をいやされたのも安息日ではなかったかと思います。飼う者のいない羊のように弱り果てた人々をイエス様はいやされた。そして、神様はあなたがたを愛している、見捨ててはいない、そのことを示された。イエス様が相手にするのは、自分たちは神様の憐れみの外にいると思っている人々、そう思わされている人々でした。イエス様はその人々に対して、神様の憐れみはあなたの上にも注がれている、そのことを示すために、そのことをはっきりさせるために来られたのです。
5.神様の御心に適った者
16節、イエス様は「御自分のことを言いふらさないようにと戒められ」ました。何故でしょうか。それは、いやされた人々が、イエス様が誰であるのか、イエス様がどうしていやしを為さったのか、よく分かっていなかったからでしょう。それが明らかになるのは十字架と復活の出来事まで待たねばなりません。イエス様は、まだその時が来ていないことを知っておられました。ここで人々がイエス様のことを言いふらし始めれば、イエス様は単なる「いやしを行う不思議な力を持っている人」ということになってしまう。しかし、それは違うのです。聖書はそのことを示すために、イザヤ書を引用します。18〜21節は、先程お読みしたイザヤ書42章1〜4節の引用です。
18節「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。」とあります。マタイによる福音書は、イザヤ書を引用するというあり方で、イエス様が神様に選ばれた僕、神様の御心に適った者、神様に愛された者だと宣言しているのです。イエス様の語られること、行われることは神様の御心に適ったことであり、神様の憐れみはこの方によって現されているというのです。安息日に病人をいやされるイエス様の行為に、神様の御心が現れていると言うのです。
そして、「この僕にわたしの霊を授ける。」この霊とは聖霊でしょう。父・子・聖霊なる神様が一つとなって、イエス様の歩み、言葉、行為に現れています。
更に、「彼は異邦人に正義を知らせる。」と言います。異邦人、これはユダヤ人以外のすべての人を指す言葉です。この言い方の中に既に、ユダヤ人だけが救われるというニュアンスが込められています。異邦人は救われない。異邦人は神様の憐れみの対象外。それが当時のユダヤ教の常識であり、ファリサイ派の人々も当然そのように思っていたし、そのように考えていました。しかし、そうではないと聖書は告げています。この「正義」は「裁き」とも訳せます。イエス様が異邦人に知らせる正義、神の正義、神の裁きとは、異邦人だから滅ぶというようなものではありません。21節に「異邦人は彼の名に望みをかける。」とあるように、異邦人もまた、神様の憐れみの中で救われるという裁きであり、それが神様の正義なのです。
そして19節「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。」イエス様は、ファリサイ派の人々と争い、自らの正しさを証明するというようなことはなさいませんでした。御自分を殺そうとする人々から逃げるようにして立ち去り、大通りではなく、弱り果てた人々、病気の人々と共にあって、これをいやされました。
そのあり方は20節でこう告げられます。「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」傷ついた葦、それは役に立たないものとして捨てられてしまう葦です。くすぶる灯心というのも、油がなくなって燃えてしまった、明かりを灯す時には捨てられてしまうものです。しかし、イエス様は、そのような神様の裁きの前で捨てられ、滅びるしかない者を、それでも捨てないお方だと言うのです。それは、この捨てられても仕方がない折れた葦の代わりに、くすぶる灯心の代わりに、自ら十字架にお架かりになって、御自分が代わりに捨てられる。そのことによって、折れた葦もくすぶる灯心も捨てられない、滅ぼされない。神様の憐れみを受け、救われる。そのようなお方として来られたということです。
6.自分のような者が
先日、ある求道者の方と話をしていて、「自分のような者が教会に来ていいのかと、初めは思っていた。」と言われました。自分は神様から遠い、神様の前に出られるような者ではない、神様との交わりに生きるような者ではないという感覚。それはある意味では正しいと思います。何故なら、私共は異邦人です。神様なんて関係ないと生きてきた者です。まことの神様を知らず、偶像の神の前に自分の都合の良い願い事をすることが祈ることだと思っていた者でした。神様の前に出ることなど出来るはずもない者です。滅びるしかない者です。その意味では、「自分のような者が神様の御前に集って良いのか。」という感覚は正しいのです。しかし、そのような者であるにもかかわらず、神様は私共を愛してくださった。その愛を証しするためにイエス様を遣わしてくださった。この愛は、神様がその独り子を十字架に架けてまでも、私共を救おうとされるまことに激しいものです。そして、この神様のまことに激しい愛の故に、このイエス様の十字架の故に、私共は神の子・神の僕とされ、一切の罪を赦され、永遠の命に与る者としていただいたのです。何とありがたいことかと思います。
7.神様の正しさに生きる
人は自分の正しさのために、自分の正義を守るために、自分に反対する者を傷付け、排除し、亡き者にしようとします。しかし、神様の正義は、自分に敵対する者を赦し、愛し、救おうとされます。この神様の正義に生かされた私共です。だから、私共も傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消さないように、赦し、愛し、仕える者として歩んでいきたいと思う。自分の正義を振りかざす者としてではなく、神様の正義に仕える者として生きていきたいと思う。
今週は敗戦記念日を迎えます。この世界が平和であることを祈り願います。私共は、そのために何が出来るということでもないかもしれませんけれど、自分の正義、自分の国の利益、そればかりが声高に叫ばれる時代の中にあって、それでも赦し、愛し、仕える者として神様の正義に生き、まことの平和を願い、祈る者として歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。
[2018年8月12日]
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