富山鹿島町教会

礼拝説教

「収穫の主」
申命記 11章13〜21節
マタイによる福音書 9章35〜38節

小堀 康彦牧師

1.イエス様の約束「収穫は多い」
 今朝、私共に与えられたイエス様の御言葉は「収穫は多い」という約束です。私共はこの御言葉をしっかり心に刻みたいと思います。それはこの御言葉が、このイエス様の約束が、私共の素朴な思いと一致していない、私共は単純にこれに頷けない、そのような現実があると思うからです。ここでイエス様が「収穫は多い」と言われた「収穫」というのは、イエス様の福音に出会って悔い改め、新しく神の子・神の僕として生きるようになる者たちのことです。「収穫は多い」、それは伝道が進展するということでしょう。しかし、私共の教会もそうですけれど、現在の日本のキリストの教会の伝道は、どう見ても進展しているようには見えない。
 先週、私は日本基督教団の常議員会に陪席してきました。その中心的な議題は、このままでは予算が組めなくなるから日本基督教団の機構をサイズ・ダウンしたものに変更しましょう、というものでした。まだ、どういう形に変更するのか具体的な案が出ているわけではありません。しかし、そのような案が出て来た背景ははっきりしています。約1,700ある日本基督教団の各個教会の教勢が落ちてきているということです。これに対応しなければならないということです。
 私が責任を負っている日本基督教団の宣教研究所は、宣教のため、伝道のための、調査・研究をする部署です。それに携わりながら、日本基督教団として伝道のためにやらなければならないことは山ほどあるということを思わされております。その中でも特に急務だと思わされているのは、若者への伝道、そしてそのための若い伝道者の養成です。また、教会と関係施設との関係の問題などもあります。しかし、それ以前にもっと大切なことがある。それは、「収穫は多い」という御言葉、イエス様の約束に対しての信頼です。それを失った所で伝道など、出来るはずが無いのです。
 確かに、数字を見れば教勢はどこも落ちている。どの教会も高齢化が進み、洗礼者も少ない。まるで日本の社会の姿そのもの。いや、日本の何十年後かの姿を先取りしているような状態が、日本の教会とも言えるでしょう。しかし、そのような現実の中にある私共に向かって、イエス様は「収穫は多い」と言われる。このイエス様の言葉に対して、私共の中に、「そう言われても、にわかに『はい、分かりました。』とは言えない。」という思いがあるのではないでしょうか。「現実を見てください。どこも収穫が少なくて困っているではないですか。」そう神様に言い出しそうな私共がいる。しかし、イエス様は「収穫は多い」と言われる。ここに生じているズレは何なのでしょうか。御言葉と私共の思いの間に生じるズレ。その根っこにあるのは、いつも罪なのでしょう。もっと言えば、その罪にも気付かせないようにする悪霊の働きがある、と私は思います。そこに私共は気付かねばなりません。

2.マタイによる福音書前半の構造
 御言葉に聞いてまいりましょう。35節「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。この言葉は4章23節にもあります。4章23節は「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。少し違いますが、ほとんど同じ言葉です。これは、この二つの言葉によって、間にはさまれた5〜9章に記されていることを要約しているのです。「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」という言葉で5〜7章の山上の説教を指し、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」との言葉で8〜9章に記されているイエス様の為された奇跡を指しているわけです。そして、イエス様の「収穫は多い」という約束が告げられ、「だから、働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とのイエス様の言葉が告げられ、10章の弟子たちが派遣されていくという記事に繋がっていっています。ですから、この箇所は5章から9章までのまとめと同時に、10章への橋渡しになっているわけです。

3.飼い主のいない羊
 さて、イエス様は会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病気や患いをいやされました。大切なことは、そのように神の御子として歩まれたイエス様は、御自分の語る教えや福音を聞いた人々、病気や患いがいやされた人々をどのように見ておられたかということです。聖書はこう告げます。36節「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
 まず、イエス様は群衆を、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と見ておられたのです。確かに、イエス様の所に来る人々は、病気であったり、様々な問題、課題を抱えて弱り果て、生きる力も希望も失ってしまったような打ちひしがれた状態だったのでしょう。何とかして欲しいとイエス様に頼ってきた人たちだったのでしょう。しかし、イエス様がここで見ておられるのは、自分の許に助けを求めに来た、見るからに弱り果て、打ちひしがれている人だけではなかったと思います。会堂でイエス様の教えを聞いた人たちの中には、見た所は、特に弱り果てているようには見えない、打ちひしがれているようには見えない、そういう人もいたと思います。しかし、イエス様から見れば、そういう人もまた「飼い主のいない羊」のようであったのです。
 羊というのは、大変昔から家畜として飼われており、そういう中で、飼い主がいないと生きられない生き物になりました。野生の羊は、季節が来ると古い毛が抜けて新しい毛が生えてくるのですが、家畜となった羊は毛が生え替わらない。どこまでも伸びてしまう。ですから、人間が毛を切ってやらないと死んでしまうのです。また、遠くまで見る視力がありませんので、自分で水や草を探すということも出来ません。羊は飼い主がいないと生きていけないのです。
 人間もそうです。神様という主人を持たなければ、人間はサタンの餌食とされ、ただ自分の欲に引きずられて生きるだけです。もちろん、そのような人は、それが人間だ、それが正しいと思っているわけです。ですから、見た所は、少しも弱り果てているようには見えない、打ちひしがれているようには見えない。しかし、イエス様から見ればそれは、滅びるしかない道を何の疑いも持たずに突き進んでいるということです。本人が気付いていないだけで、イエス様から見れば、弱り果て、打ちひしがれている羊、飼い主のいない羊のような有様だったのです。それは、いつの時代、どの国でも同じことです。神様を失った人間の悲惨。イエス様はそこを見ておられたのです。

4.イエス様の深い憐れみと愛無き私
 そして、そのような人間をイエス様は「深く憐れまれた」のです。この「深く憐れまれた」という言葉は、内臓、はらわたを語源とする言葉で、「はらわたが痛む」というニュアンスの言葉です。日本語だと「断腸の思い」という言葉がありますが、まさに自分の腸が引きちぎられるような痛みを覚えるように憐れまれたということです。自分は安全なところに居て、上から目線で「かわいそうに。」と言うのとは全く違います。上から目線で「かわいそうに」と思われて、良い気持ちになる人なんていません。そんな風に思われているのが分かったら、「馬鹿にするな。」と腹を立てるでしょう。イエス様は、主人である神様を見失い、どんなに自分が神様に愛されているかも分からず、目の前の現実しか見えず、挙げ句の果てに、自分の欲に引きずられて生きるしかない人々に対して、はらわたが痛むほどに、悔しく、悲しく、何とかしたいと思われた。そして、その人々に教え、福音を宣べ伝え、病気や患いをいやされたのです。
 私共はどうでしょうか。私共の周りには、イエス様を知らず、それ故、苦しみ、嘆き、不安の中で生きる力さえ失いかけている人が大勢いるのではないでしょうか。神様が私を愛してくださっている。私の明日は神様の御手の中にある。そのことが分からずに、これからどうなるのだろう、どうすればいいのだろう、そんな思いに支配されている人が大勢いる。そのような人々に対して、上から目線で「かわいそうに。」と思っているだけならば、私共はそのような人々にとって、うっとうしいだけの存在になってしまうでしょう。私共がイエス様と出会って教えられた愛、イエス様によって新しくされて与えられた愛は、そんなものではないはずです。
 イエス様の深く憐れむ思いは、はらわたを痛めるほどにその人の苦しみ、嘆きを受け止める愛です。このイエス様の愛は、十字架の愛です。神様を知らず、飼い主のいない羊のようだった私共を、はらわたが痛むほどに愛してくださり、神様の許に私共を連れて行くために、まことの飼い主である神様との交わりを回復させるために、十字架にお架かりになってくださったイエス様です。私共は、このイエス様の心を少しでも自分の心とすることが無い限り、イエス様が「収穫は多い」と言われた約束が本当のことだとは分からないのではないでしょうか。
 私は正直な所、イエス様を知らず、それ故にこの世の栄達を求め、それを手にした人たちがそれを大したもんだろうと誇る姿を見ると、「馬鹿みたい。」と思ってしまいます。少しもはらわたが痛まないのです。私はこの説教の備えをしながら、自らの姿が何とイエス様の御心から遠いかを思わされました。そして同時に、「私に愛を与えてください。」と祈り願いました。
 神様を知らず、神様の愛の御手の中にあることも知らない、そのような人々を単なる伝道対象としか見ないならば、このイエス様の「収穫は多い」という言葉は正しく受け止めることは出来ないだろうと思います。それはちょうど、靴屋の営業マンが、靴を履く習慣の無い国へ行って、ここには靴を必要とする人が大勢いると思うのと同じです。それは、営業マンとしては大したものなのでしょう。確かに、ここには靴を履く習慣が無いのでとても靴など売れないと思う営業マンに比べれば、本当に大したものなのだと思います。しかし、それは靴屋の営業マンとしてはです。イエス様がここで「収穫は多い」と言われたのは、そういうことでは全く無いのです。
 神様の愛を伝えるということは、イエス様の十字架を伝えることです。あなたは神様に愛されている。あなたのために独り子を十字架に架けるほどに、神様はあなたを愛している。この愛を伝えることでしょう。であるならば、まず、この愛を伝えるべき相手の痛み、嘆き、悲しみ、不安、それを少しも馬鹿にすること無く、一緒に心を寄り添わせることが必要なのです。イエス様の「収穫は多い」という言葉は、この飼い主のいない羊のように弱り果てた人々をはらわたを痛める思いで御覧になり、この一人一人を神様がどんなに愛されているかを御存知の故に、このままであるはずがない、神様が必ず救ってくださる、その確信の中で与えられた約束なのです。イエス様の「収穫は多い」との約束は、イエス様の愛の言葉なのです。そして、その御心に思いが至りますと、私共は自らの愛の無さに気付かざるを得ないのです。私は信仰を与えられた。あなたは神様を知らないからそんなことで悩んだりする。かわいそうに。この「かわいそうに」は全く上から目線です。これではダメなのです。
 先週、聖霊と悪霊の働きについて御言葉を受けました。そこで、聖霊の働きと悪霊の働きの明確な違いの一つは、愛があるかどうかだと申しました。そして、ローマの信徒への手紙12章15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」を引用し、ここに聖霊の働きによる愛の現れがあるとパウロは考えたと申しました。
 イエス様が私共に注いでくださる愛は、その人の心を、思いをまず受け入れるということ、心を動かすということ、それが必要なのです。そして、心が動いたところで、この人の課題、問題の根っこには主人がいないということを知り、その人のために主に祈る。「主よ、どうかあなたが働いてください。あなたの光でこの人の心を照らしてください。生きる力と希望とを与えてください。」そう祈る。心が動かなければ、祈りは生まれません。イエス様は心を動かされた。そうすると、そこには神様の愛を必要とする一人一人が立ち現れてきたということなのでしょう。私共が、「収穫は多い」と言われたイエス様の言葉を、本当にそうだと受け止めることが出来ないとすれば、それはこの日本に生きる人々に対して、本当の所で心が動いていないからなのではないかと思わされるのです。私共の信仰が、自分が救われたのだからそれでいい、それで十分という、まことに身勝手なものになっているからではないか。或いは、あなたは知らないのだから教えてやるという、傲慢なものになってしまっているのではないか。自分の心を覗きながら、そう思うのです。

5.収穫の主に願う
 ここで、イエス様が言われた言葉をもう一度聞いてみましょう。37〜38節「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」ここでイエス様は「収穫は多い」という約束の後で、「働き手が少ない」という現実を告げられます。そして、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われました。
 ここで注目しなければいけないのは、「収穫の主」という言葉です。収穫を与えるのも与えないのも、それは主なる神様の御手の中にあることなのです。私共は、自分たちが頑張って一生懸命やれば収穫出来ると思ってしまっている所があります。しかし、収穫というものは、麦や米にしても、雨の量や天候など、人間にはどうしようもない所があるわけです。収穫を与えられるのは神様です。そして、その神様に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈れとイエス様は言われました。私共は、収穫が多くなるようにと祈ることはあっても、収穫のために働き手を送ってくださるようにと祈ることはあまりないのではないかと思います。「収穫は多い」という約束に続いてイエス様が告げられたのは、「働き手を送ってくださいと祈れ」ということでした。
 収穫は多いのだから、自分たちが頑張ればその分収穫は多いはずだ。だから頑張りましょう。そんな風に考えてしまう所が私共にはあるでしょう。しかし、そうするといつの間にか、伝道も自分たちの頑張りによってということになってしまい、更には、自分たちの頑張りで収穫も多くなったり少なくなったりすると考え始めかねないのです。それは、会社の営業と同じ考え方でしょう。神様なんて要らない。しかし、イエス様が言われたのはそんなことではないのです。収穫を与えるのも、収穫を穫り入れる働き手を送るのも、みんな神様です。私の力によってではないのです。ただ私共に求められているのは、「収穫は多い」という約束を信じることと、働き手を送るように祈ることです。御言葉を、イエス様の約束を信じることと、祈ることです。この二つが欠けた所では、神様は収穫を与えようがない。そういうことなのではないかと思います。そして、「収穫は多い」との約束を本気で信じるためには、罪にあえぐ一人一人に対してはらわたを痛めるほどの、イエス様の愛が無ければならないのでありましょう。

6.確かな神様の愛を信頼して
 私共は、神様の愛が私共の心に注がれて、私共が出会っていく一人一人に対して、決して上から目線ではない心をもって、愛をもって出会い、そして主が必ずこの一人を救ってくださることを信じ、その為に働き手を送ってくださるように祈っていきたいと思います。収穫を与えるのは神様です。そのために、必ず必要な助け手を送ってくださいます。何故なら、神様は愛する独り子をお与えになるほどに、罪にあえぐ者たちを深く憐れみ、何としても救いたいと思っておられるからです。これが神様の変わらぬ御心だからです。たとえ、この富山に住む人々が、そんなものは必要ではないと思っていたとしても(それこそ罪の中にいるということなのですけれど)、神様はそれでも愛し、見捨てることなく救いへと導こうとしておられる。この神様の御心こそ、決して揺らぐことのない確かなものです。私共の見通しや分析が確かなのではありません。確かなのは、神様を信じる者が一人も滅びないようにとイエス様を遣わしてくださった神様の愛です。何としてもこの世界を救おうとされる神様の御意志です。ここに世界の明日も、教会の明日も、私共の明日もかかっています。だから、安心して愛を求め、働き手を求め、大いなる収穫の日を待ち望みつつ、歩んでまいりましょう。 

[2018年2月11日]

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