1.イエス様の奇跡に対しての二つの反応
今朝与えられております御言葉は、8章から続けて記されている、イエス様によって為された一連の奇跡の業の最後の所です。前回は、二人の目の見えない人がいやされ、目が見えるようになりました。そして、今朝与えられている所では、口の利けない人がものを言えるようになります。この目の見えない人の目が開かれ、口が利けない人の口が利けるようにされるとは、イザヤが預言した「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ書35章5〜6節)という、神様の救いが現れる時の預言の成就でありました。イエス様のいやしの御業は、ついに神様の救いの時が来た、救い主が来られた、そのことを示す出来事でした。
しかし、この出来事に対して二つの反応があった、と聖書は記します。一つは群衆です。彼らは、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない。」と言って、驚きます。この驚きの中には、神様の救いが来た、この方こそ救い主ではないか、という期待が込められていると見て良いでしょう。一方、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している。」と受け止めたというのです。この二つの反応の違いは、一連のいやしの業の最後である、この口の利けない人に対するいやしの業だけを見てというよりも、今まで記されてきた様々なイエス様の奇跡に対して、このような二つの対応、二つの反応があったということなのでしょう。
2.聖霊によるのか、悪霊によるのか
群衆もファリサイ派の人々も同じものを見ていました。どちらもイエス様の驚くべき御業、数々の奇跡を目の当たりにしているわけです。ところが、その反応は正反対です。どうしてこういうことになるのか、不思議な気もします。けれども、これが現実なのだと思います。同じ出来事を見ても、皆が同じように感じたり、同じように考えたり、同じように受け止めるわけではない。これはすべてのことについて言えることでしょう。しかし、ここでは特にイエス様に対しての反応です。イエス様の為した業に対して、悪霊の頭の力によって為しているのだとファリサイ派の人々は言いました。神の力によるのか、それとも悪霊の力によるのか。意味するところは正反対になってしまいます。「神の力によって」というのは「聖霊によって」と言い換えても同じでしょう。つまり、このイエス様に対しての二つの反応は、実に「聖霊によるのか」それとも「悪霊によるのか」という理解の違いによるものでした。ということは、私共はこの二つの違いというものをきちんと弁えなければならない、きちんと見分けなければならないということです。これを見分けられなければ、私共は神様の御業に対して正しい判断が出来ないということになってしまうからです。
それは神の力によるのか、それとも悪霊の力によるのか。それは聖霊によるのか、悪霊によるのか。聖書には、聖霊も悪霊もどちらも出て来ます。しかし、私共は日常の生活をしていて、この二つの霊の働きについてあまり意識することはないのではないかと思います。特に、悪霊などと言いますと、おどろおどろしいオカルト映画の中のことで、私共の日常生活とは関係ないと思っている方もいるかもしれません。
しかし、私は牧師をしている中で、人間は自分が思っているよりずっと強い影響をこの二つの霊によって受けていると感じています。悪霊は、私共の罪に働きかけ、その罪の力を引き出し、増大させて、私共が神様から離れ、神様を拒み、自分の欲に引きずられていくようにさせる。一方、聖霊は、私共を自らの罪と戦わせ、神様を愛し、神様に従って行こうとする歩みへと導く。原理的には、そのように言うことが出来ると思います。現実には、色々なことが絡み合って、そんなに単純ではないでしょうけれど、基本的にはそういうことだと思います。
しかし、聖霊と悪霊と申しましても、この二つの霊が対等の力を持って私共に働きかけるということではありません。聖霊は天地を造られた神様の霊であり、神様そのものでありますから、悪霊は聖霊に対抗出来るようなものではありません。聖霊の力の方が圧倒的に強いのです。勿論、悪霊は聖霊の前では力がないと言っても、私共に比べればとても強いのですから、少しも侮ることは出来ません。
今朝は、この聖霊の働きと悪霊の働きについて、二つの点から見たいと思います。一つは愛の有無という点、もう一つは「ねたみ」の有無という点です。
3.霊を見分ける観点@〜愛があるかどうか〜
聖霊の働きと悪霊の働きについて、とてもはっきりしている違い。その第一の点は、愛があるかどうか、愛を生んでいるかどうかということです。
イエス様は多くの困窮した人々をいやされました。それは、イエス様がそのような人々を憐れみ、愛しておられたからです。そして、その出来事を見て、それに立ち会って、それを喜んだかどうか。これがとても大切な点です。イエス様のいやしの御業に対して、自分とは関係ないと無関心でいるのか、それともそのことを「本当に良かった。」と喜ぶのか、この違いは小さくありません。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12章15節で、「喜ぶ人共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と告げました。パウロは、ここに聖霊なる神様のしるしである愛の表れを見ていたからでしょう。
ファリサイ派の人々の反応には、この愛が決定的に欠けていることは明らかです。口が利けない人の口が利けるようになった。目の見えない人の目が見えるようになった。これは、いやされた人にとって、本当に喜ばしいことでしょう。しかし、彼らはそれを悪霊の業だと言ったのです。少しも喜んでいない。口の利けない人が口を利けるようになろうとなるまいと、どうでもよかったのです。それは、彼らに愛が無かったからです。私は、イエス様のいやしの業を悪霊の頭の力によるのだと言っているファリサイ派の人々こそ、実は悪霊の影響を受けていたのではないかと思います。
一方、群衆は「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない。」と驚きの声を上げました。単純に、イエス様によって口が利けるようになった出来事を喜んでいます。これは大切な点です。そして、イエス様は大した方だという賞賛の思いが表れています。これは、まだ「イエスは主なり。」との告白には至っていませんけれど、そこに繋がっていくことを予測させます。実に聖霊は、イエス様に栄光を帰すように働かれる霊なのです。
4.霊を見分ける観点A〜ねたみがあるかどうか〜
さて、もう一つの点を見てみましょう。それは「ねたみ」です。「ねたみ」は悪霊の働きによって私共の罪が刺激され、増大された所に生まれる歪んだ感情です。私共は、この「ねたみ」というものに対して過小評価している所があるのではないかと思います。しかし聖書は、この「ねたみ」というものがどれほど恐ろしい結果を導くかを教えています。
例えば、人類最初の家族であるアダムとエバ、その間に生まれたカインとアベル。そこで何が起きたかと言いますと、兄のカインが弟アベルを殺すという、兄弟殺しです。その理由は「ねたみ」です。創世記4章に記されておりますが、兄カインと弟アベルは神様に献げ物をささげました。カインは土を耕す人でしたので土の実りを、アベルは羊を飼う人でしたので羊の初子を、それぞれささげました。すると、主は弟アベルとその献げ物には目を留められたが、兄カインとその献げ物には目を留められなかった。ここをどう理解するか、難しい所がありますけれど、弟アベルは豊かになり、兄カインは貧しくなった、そのように理解して良いと思います。そして、兄カインは弟アベルを殺してしまったのです。ここに「ねたみ」という言葉は出てきません。しかし、兄カインの心を支配していたのは弟アベルに対する「ねたみ」であったと理解して良いでしょう。聖書は、神様の言いつけに背いて、食べてはいけないと言われた木の実を食べた、つまり神様から離れて罪を犯したアダムとエバ、その二人に与えられた息子たちの兄カインは「ねたみ」によって弟アベルを殺してしまったと記しているわけです。人類最初の具体的な罪としての殺人、その原因が「ねたみ」だったのです。
そして、イエス様が十字架につけられて殺された原因、それもまた「ねたみ」であったと聖書は記します。マルコによる福音書15章10節「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」とあります。
また、先程サムエル記上16章をお読みいたしましたけれど、サウル王は悪霊にさいなまれるようになります。そしてこの後、サウル王はダビデを殺そうとします。ダビデをお尋ね者とし、しつこくダビデの命を狙うのです。その理由はやはり「ねたみ」でした。サウル王はダビデが戦果を上げる度に、主がダビデと共におられること、そして人々もダビデを愛し、その人気がうなぎ登りであることを思わされます。自分の王としての地位が脅かされる。サウル王はダビデをねたみ、そして恐れました。だから、ダビデを殺そうとした。私は、このサウル王のダビデに対する思いと、ファリサイ派の人々のイエス様への思いは重なると思います。
ファリサイ派の人々は、当時のユダヤ教の指導者です。自分たちが律法を解釈し、このように生きれば救いに与れると人々を指導していた。そこにイエス様が現れたのです。イエス様が語ることは、ファリサイ派の人々が教えていたことと違います。しかも、イエス様は次々に奇跡を為し、人々をいやしていく。人々の心は、ファリサイ派の人々からイエス様の方へとどんどん傾いていく。この流れを止めなければ、自分たちが大切にしていたもの、人々に教え、権威ある者として歩んで来た自分たちの立場が無くなる。そのようにイエス様を恐れ、ねたんだ。だから、イエス様の奇跡に対しても、「悪霊の頭の力によるのだ。」と言い放ったのでしょう。この「ねたみ」心が、ついにはイエス様を十字架につけることになったわけです。実に「ねたみ」というものは恐ろしい。悪霊の働きによるとしか言いようがないと思います。
5.ねたみの心
この「ねたみ」の根っこにあるのは、自分を守ろうとする思いです。この「自分を守ろうとする」のは本能と言っても良いでしょう。誰にでもあるものです。しかし、これが「ねたみ」に変わるのは、悪霊の仕業なのだと思います。
ある方が、「ねたみ」というものは、自分の方が上だと思っている人にとって、自分より下だと思っていた人が自分を追い抜いていきそうな時、或いは追い抜いた時に生まれるものだと言っておりました。なるほどと思いました。カインとアベルを見ても、カインはお兄さんですし、サウル王とダビデを見ても、サウルは王様で、ダビデは羊飼いからぽっと出て来た者でした。ファリサイ派の人々とイエス様の関係を見ても、ファリサイ派の人々は既に社会的に指導的地位を持っていた人々です。
これは、嫁と姑の関係でも言えることでしょう。姑は一家の主婦としてその家で確かな地位を持っていた。そこに若い嫁が現れる。嫁は私の台所を使い、自分が手塩にかけた息子はその料理を「美味い、美味い。」と言って食べる。この間までは自分の料理を「美味い、美味い。」と言っていたのに、いつの間にか自分の料理の味は「みんな醤油の味だ。」などと言い始める。そこに「ねたみ」の心が生まれてしまう。これは、スポーツの世界でも、或いは会社などでも言えることなのでしょう。人が生活していれば、そこには必ず競争が生まれますし、立場も生まれますし、そして新旧の交代もあるわけです。確かに、自分が手に入れた立場、地位を脅かされるのは、誰でも嫌でしょう。でも、それは仕方の無いことなのです。
6.ねたみの心から自由に
ここで私共は、どこを見ているのかが問われるのです。私の立場、地位、そういったものは神様が与えてくださったものではないのか。そのことを承認するかどうかです。自分が手に入れたと思えば、何としても手放せないということにもなりましょう。しかし、神様が与えてくださったものとするならば、後から来た人と切磋琢磨することはあっても、「ねたむ」ことから自由になれるのではないでしょうか。悪霊は、私共を神様から引き離す霊ですから、神様の御手の中にある自分を認めさせないように働きます。そして私共に、自分を生かし支えるのは自分の力、自分の能力、自分の努力しかないと思わせるのです。しかし、私共の力も才能も、そして努力をすることが出来る能力も、みんな神様が与えてくださったものです。私共は与えられた状況の中で、与えられた能力をもって全力を尽くします。それだけのことです。そして、その結果がどうなろうと、それは御心の中にあることでしょう。自分が精一杯出来たことを喜び、後から来た人を迎えれば良いだけのことなのです。
ここで、第一の点の愛と、第二の点の「ねたみ」から自由になるということが結び付きます。愛も「ねたみ」からの自由も、自分の力だけで自分を守ろうとしない。神様の御手の中にある自分、神様の守りの中にある自分を見出す。そしてまた、相手も神様の御手の中にある一人、神様に愛されている一人であることを認める。そこに、聖霊の御業による愛が生まれ、お互いの間に平和というものが生まれるのではないでしょうか。悪霊のもとにあるならば、私共に平和はありません。支配するか、支配されるか、戦うしかないからです。しかし、聖霊の働きのもとにあるなら、私共には平和が与えられます。聖霊は、自分が一番ではなく、一番は神様・イエス様であることをはっきり教えてくれます。一方、悪霊は、どこまで行っても一番は自分であるとそそのかします。自分が一番大切で、自分が一番正しく、自分が一番力もあり、自分が一番偉い。そう、そそのかすわけです。自分が一番だと思っている限り、神様・イエス様の前にへりくだることは出来ません。聖書を読んでも、自分の常識や経験や考え方と合わなければ、受け入れることはしませんし、出来ないのです。
7.聖霊の導きの中に生きる
私共は、聖霊の導きの中で信仰が与えられ、祈ることが出来るようになり、御心に適う歩みを為したいと願うようになりました。それは私共が善人だったり、信仰深かったからではありません。ただ、神様の憐れみの中で、聖霊なる神様の導きの中で、信仰を与えられ、救われました。しかし、この救いの恵みの中に留まり続けるためには、私共は悪霊の働きから逃れる必要があるのです。信仰者には悪霊は働かない。そんなことは決して言えません。悪霊はいつでも、どこででも、私共を神様から引き離そうと狙っています。ですから、私共はこの悪霊の働きをもきちんと弁えて、これを退けなければならないのです。今朝は、愛があるかどうか、ねたみの心はないかどうか、この二点について注意深くなければならないということを学びました。
それでは更に、この二点において確かにされるためにはどうしたら良いのでしょうか。それは、聖霊を祈り求めるということです。聖霊を注いでください。愛を与えてください。ねたみ心から守ってください。自分を一番とするのではなく、いつでも、どんな時でも、神様・イエス様を一番とする者であらせてください。そう祈り求めることです。そうするならば、主は必ず私共に聖霊を注ぎ、主と共にある平和の道を備えてくださるでしょう。何故なら、そうすることが神様の御心だからです。この御心の故に、神様は私共にイエス様を与えてくださったのです。この御心を信頼して、安んじて、聖霊を祈り求めてまいりましょう。そうすれば、必ず私共は聖霊なる神様の導きの中で、愛と平和を与えられて御国に向かっての歩みを為していくことが出来るのです。
[2018年2月4日]
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