1.山上の説教からいやしの記事へ
先週は富山地区の交換講壇でしたが、○○教会の△△先生が指定された聖書の箇所は、期せずしてマタイによる福音書8章1〜4節でした。私共の教会はマタイによる福音書を読み進めているわけですが、ちょうど交換講壇の前の週で、7章の最後まで終わったところでした。何の相談もしなかったのですけれど、私共の教会としては、いつものようにマタイによる福音書を続けて読み進めることになりました。
ですから、先週から私共はマタイによる福音書の8章に入ったわけですが、マタイによる福音書は、5〜7章において、山上の説教という形でイエス様がお語りになったことを集めています。そして、8〜9章においては、イエス様が為さった様々な奇跡、イエス様が為さった業を記しています。イエス様の言葉と業。それはどちらも、イエス様とは誰であるか、そしてイエス様が与えてくださる救い、イエス様によってもたらされる神の国の到来を示しております。
山上の説教はその最後を、イエス様が「権威ある者としてお教えになった」という言葉で閉じています。それを受けるようにして、8章の初めに、二つのいやしの御業が記されています。一つは先週見ましたように、重い皮膚病を患っていた人がいやされた出来事。そして、もう一つは今朝与えられております百人隊長の僕がいやされるという出来事です。この二つの奇跡は、どちらもイエス様の権威というものが前面に出ているいやしの出来事です。イエス様は山上の説教を、神の御子として、権威ある者としてお語りになった。そして、そのイエス様の権威を正面から受け取り、イエス様を権威ある方として信頼する者がいやされたという出来事です。
重い皮膚病を患っていた人は、イエス様に対して、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言います。この「御心ならば」というのは、「あなたがそうしようと思われるならば」「あなたがそうするという意志を持たれるならば」という意味の言葉です。自分はいやしてもらいたい。それははっきりしている。しかし、「イエス様あなたがそうすると思われなければ事は起きません。ただあなたがそうすると思われるなら、お決めになるならば、そうなります。」そのようにイエス様に言いました。これは、イエス様の力、イエス様の憐れみに対して完全に信頼している、頼っている、その思いを表しています。この時、この重い皮膚病の人は、「イエス様にとりあえず頼んでみよう。もしダメなら仕方がない。」そんな思いで「御心ならば」とは言っていないのです。そして、イエス様はこの人の信仰を受け止めて、「よろしい。清くなれ。」と告げられ、この人をいやされました。この「よろしい」と訳されている言葉は、「あなたがそうするという意志を持たれるなら。」という言葉を受けて、「わたしはそうする意志を持つ。」とイエス様が応えられたのです。イエス様の意志によってすべては為される。この重い皮膚病の人はそのことを信じ、イエス様はそれに応えられた。それが、この重い皮膚病の人のいやしの出来事の大切なポイントでした。
それに続くこの百人隊長の僕がいやされた出来事の大切なポイントも、同じです。この百人隊長は、イエス様を権威ある方として信頼して、自分の僕のいやしを願い出た。御自分をそのように権威ある者として信頼するこの人の信仰を、イエス様は「これほどの信仰を見たことがない。」と驚き賞賛し、この百人隊長の願いを受け入れ、その僕をいやされたのです。
イエス様は権威ある方として山上の説教を語られた。そして、イエス様を権威ある方として受け入れた者に対して、いやしの業を為されたのです。こう言っても良いでしょう。イエス様は権威ある方、神の独り子として、神様の祝福を告げ、神の国に生きるようにと人々を招かれた。それが山上の説教です。そして、イエス様を権威ある方として受け入れた者をいやすことによって、神の国が既にここに来ている、わたしは神の国を来たらせる力のある者、憐れみ深い者である、もう神の国はここに来ている、そのことをお示しになったということです。
2.イエス様の救いに与る者の広がり
順に見てまいりましょう。
5〜6節「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った。」とあります。百人隊長、これは当時のローマ軍において百人の部下を持つ人です。ローマの軍隊は、正規軍であればローマ人しか兵隊になれません。ですから、彼はローマ人であった。つまり、ユダヤ人ではない人、異邦人であったと考えて良いでしょう。当時のユダヤ教において、異邦人は決して救われないと考えられておりました。これは大切なことです。先週見ました重い皮膚病の人も、ユダヤ社会から締め出されてしまっていた人でした。しかし、その人をイエス様はいやされた。イエス様の救いは、神の国は、異邦人であろうと、イエス様を神の御子、権威ある方として受け入れ信頼する者を締め出すようなことは決してないということです。イエス様の福音は、人種や国境や文化を超えて、すべての人にもたらされるのです。だから、私共も救われました。
キリスト教を西洋の宗教、欧米の宗教だと言う人が時々います。確かに、中世のヨーロッパはキリスト教社会でした。そして、そこから全世界へと伝えられていきました。しかし、キリスト教を欧米の宗教と言ってしまうのは、いささか事実とは異なります。現在、世界中でキリスト者は23億人ほどいると言われます。世界の人口は69億人と言われていますから、世界の人口の三分の一です。その内、欧米のキリスト者は半分もいないのです。アフリカ、南米、アジアのキリスト者が過半数です。キリスト教は元々、イスラエル、中東で始まったのですから、出発からしてヨーロッパではありません。そして何よりも、イエス様は天地を造られた神様の独り子なのですから、その方によってもたらされる福音、救い、神の国に、民族や国教などが大きな意味を持つなどということは全くあり得ないのです。
更に言えば、この百人隊長は当時ユダヤを支配していたローマの兵隊ですから、支配する側の人が支配されている側のユダヤ人であるイエス様に救いを求めて来ているわけです。つまり、社会構造と申しますか、それによってもたらされる社会的立場、地位、そんなものも全く関係ないということです。大切なことはただ一つ。イエス様を権威ある方、つまり神の独り子としてとして信頼するかどうか。その一点だけなのです。
3.信仰と愛との一致
さて、この百人隊長は自分の僕、つまり奴隷が中風になって苦しんでいる、それでイエス様に救いを求めに来たわけです。当時、奴隷というのは家具の一つという扱いです。人権なんてありません。物と同じように売り買いされていた、そういう時代だったわけです。この奴隷は中風になって寝込んでしまいました。つまり、商品価値は0となってしまったわけです。壊れた家具はどうするのか。捨てる。それが当時の普通の感覚だったと思います。しかし、この百人隊長は、わざわざイエス様の所に来て、いやしてもらおうと思ったのです。ここには、この百人隊長の、自分の僕・奴隷に対しての愛があると思います。イエス様は、この愛もちゃんと見抜き、受け取られたのだと思います。イエス様を権威ある方として、神様として信頼するということと、隣人を愛するということが、ここで一つになっています。これも大切な点でしょう。この二つは決して分裂しないものなのです。
パウロはフィレモンへの手紙の中で、奴隷であったオネシモのことをとても心にかけて、1章16〜17節「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」と告げています。たとえ奴隷という制度があったとしても、信仰においてこれを超えていく道をキリスト者は歩むように促されてきたのです。イエス様を信じる者は、神の国に生き始めことになるからです。神の国においては、この見える世界の秩序が超えられていくのです。それを証しする者として、キリスト者は立てられているのでしょう。
7節「そこでイエスは、『わたしが行って、いやしてあげよう』と言われた。」とあります。イエス様は百人隊長の言葉を聞くと、百人隊長がいやしてくださいとはまだ言っていないのに、その願いを口にする前に、イエス様の方から「わたしが行って、いやしてあげよう。」と言われました。イエス様はこの百人隊長の、自分対しての信頼と、自分の僕に対する愛を受け止め、こう言われたのだと思います。
4.ひと言で十分です
それに対して、百人隊長は驚くべき言葉で応えます。8節「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」ここに、イエス様に対しての謙遜、そして信頼が言い表されています。彼はローマ軍の百人隊長です。被征服民であるユダヤ人に対して、上から「わたしの僕をいやせ。」と命じることも出来たかもしれません。しかし、彼はそうは言いません。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と言うのです。それは彼が異邦人であったからです。ユダヤ教においては異邦人は救われないと思われていた。まことの神様を知らず、それ故に律法を守ることもなかったからです。ユダヤ人たちは、異邦人は汚れていると考えていました。汚れはうつる。だから、ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をすることも親しくすることもありませんでした。この百人隊長は、自分は神の憐れみを受けて当然だとは思っていなかったのです。自分は救われるはずがない者だと思っていた。しかし、それでも彼はイエス様を頼った。イエス様なら見捨てない。憐れんでくださる。そう信じたからでしょう。
彼は百人隊長という、ローマの軍隊に身を置く者でした。軍隊という組織ほど、上からの命令に対して絶対服従する組織はありません。皆、命懸けで命令に従うのです。上官が「進め」と命じたら進むのです。前に敵がいるから進まない。それでは軍隊という組織は成り立ちません。彼は自分の体験から、権威とは何かを知っていました。その権威をもって命じられたなら従うしかない。そういうものだ。そして、「イエス様、あなたはすべてのもの、目に見えるものも見えないものもすべてのものに命じることが出来、それを実現する力と権威とを持ったお方です。」そう信じたということです。
そして、「ひと言おっしゃってください。」ひと言でいいのです。あなたのひと言で僕はいやされます。そうイエス様に告げるのです。イエス様のひと言を、言葉をもって天地を造られた神の言葉として、出来事を起こされる言葉として信頼したということです。イエス様を権威ある方、神の独り子として受け止め、信じたということです。ここには、直前の重い皮膚病の人の言葉、「御心ならば」「あなたがそうしようと思いさえすれば」と言ったのと同じ信仰が示されています。イエス様はこの信仰を受け止めてくださり、百人隊長の僕をいやされたのです。今朝、私共に求められているのもこの信仰です。イエス様を神の独り子として、権威ある方として、すべてを為すことが出来るその力と憐れみに信頼するということです。
イエス様は、この百人隊長の言葉に大変驚き、感心して、こう言われました。10〜12節「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」これは、イエス様に従っていた群衆に向けて言われた言葉です。そのほとんどはイスラエル人であったはずです。或いは、ここに直接は出てきていませんが、イエス様を批判し、決してイエス様を認めようとしなかったファリサイ派の人々、律法学者、そしてエルサレム神殿の祭司たちを意識して言われたのだろうと思います。彼らは、自分たちこそ神の民イスラエルであり、自分たちこそ神の前に正しい者、救いに与るはずの者と考えていた。しかし、イエス様は「そうではない。」と言われたのです。救いに与るのは、神の国に入れるのは、民族も国も関係なく、ただイエス様を神の独り子として受け入れ、この方を信じ、この方を頼る者なのだと告げられたのです。
5.あなたが信じたとおりになるように
イエス様はこの百人隊長に向かって、13節「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われ、そのとき、僕の病気はいやされました。
この言葉も大切です。百人隊長の信頼とそれに応えるイエス様、この文脈を無視してこの言葉だけを取り出しますと、「この百人隊長は自分の僕が完全にいやされることを信じたから、そのようにいやされた。しかし、もし百人隊長が中途半端にしか信じていなかったら、ちょっと良くなればいい、少し歩けるくらいになればいい、くらいにしかイエス様を信じていなかったのなら、そのようにしかいやされなかった。」という理解を生みかねないのです。そして、「完全に信じましょう。」という結論になる。そこでは、イエス様の憐れみや力、イエス様の権威よりも、百人隊長がどう信じたかが問題になり、その信仰のあり方によって出来事が起きるかどうかが決まることになる。それでは信仰が呪術化してしまいます。しかし、イエス様は本当にそういう意味で言われたのでしょうか。そうではないでしょう。イエス様は、「あなたは、『ひと言ください。それだけでいい。』と言うほどに、それほどまでにわたしを権威ある者として認め、受け入れ、信頼したのですね。分かりました。そうしましょう。」そう言われただけのことであって、この百人隊長の信仰によっていやしの度合いが決まる、そんなことではないのです。
よく、いやしを宣伝する宗教が、祈ってもいやされない人に対して「あなたの信仰が足りないからです。」と言う話を聞くことがあります。「あなたが信じたとおりになるように。」というイエス様の言葉を、それと同じにしてはいけません。
イエス様はこの人の信仰に感心した。この人の信仰を受け入れた。そして、いやされた。それだけのことです。私共が祈ってもいやされないこともあります。そうでなければ、死ぬ人は誰もいなくなる。しかし、実際はそうではない。実に、それをも含めて御心なのでしょう。
ここでいやされたのは百人隊長の僕です。しかし、ここで問題となっているのは、百人隊長の信仰です。このいやしの出来事は、イエス様への信仰がある所に、既に神の国は来ている。救いは来ている。そのことをイエス様は御業をもって示されたということです。この百人隊長自身はいやされていない。しかし、百人隊長はイエス様を信じた。それ故、百人隊長は救われたのです。神の国に入れられたのです。神の国に生きる者とされたのです。
私共は今朝、イエス様を我が主、我が神として拝み、礼拝しています。既にイエス様を信頼している。イエス様のひと言によって自分が変えられることを経験したからです。イエス様の言葉を受けて、イエス様と出会って、私共はキリスト者となった。私共は既に神の国に入れられている。救いに与っている。神の国に生き始めているのです。イエス様を愛しているからです。このイエス様との交わりこそ、永遠に変わることのない、救いの出来事であり、神の国の実体なのです。神の国は、既に、ここに来ているのです。
[2017年7月16日]
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