富山鹿島町教会

礼拝説教
〜富山地区交換講壇〜(福野伝道所の朝礼拝・富山鹿島町教会の夕礼拝)

「御心ならば」
レビ記 14章1〜9節
マタイによる福音書 8章1〜4節

小堀 康彦牧師

1.イエス様の言葉と業
 イエス様はその言葉と業とをもって、自らが誰であるかということを示されます。ですから、イエス様の言葉もイエス様の為された業も、イエス様が誰であるかということと切り離すことは出来ません。イエス様の言葉は、イエス様が語られたことだから力があり、愛があり、真実なのです。イエス様の言葉でなければ、「そんなことはないでしょう。」「何を馬鹿なことを言っているか。」と言って済ませることも出来るかもしれません。しかし、イエス様の言葉であるが故に、私共はその言葉を聞き流すことは出来ないのです。私共のために十字架にお架かりになった方の言葉だからです。ですから、そこには真実があり、愛があり、力があり、これに従って生きていこうと私共は思う。イエス様が為された業にしても同じです。イエス様は様々な奇跡を行われましたが、そこには神の子としての力、神の愛があふれ出ています。神の国が既にここに来ていることを示しています。ですから私共は、この業を為された方に従っていきたいと思うのでしょう。

2.山上の説教とそれに続く奇跡
 今朝与えられている御言葉には、重い皮膚病の人がいやされたという出来事が記されています。このマタイによる福音書の8章の冒頭に記されている重い皮膚病の人がいやされたという奇跡は、5〜7章に記されている山上の説教が終り、イエス様が山から下りてこられて、最初に為された出来事でした。
 マタイは、5〜7章でイエス様の言葉を集め、8〜9章ではイエス様の奇跡の業を集めるという仕方で記しています。5〜7章ではイエス様の言葉・教え、そして8〜9章ではイエス様の為された業が集められています。言葉と業。一見すると別のことが記されているようですけれど、どちらも、イエス様は誰なのか、イエス様が私共を招き導こうとされている所はどこなのか、そのことを示しているわけです。それは、イエス様が神の独り子であるということ、そしてイエス様によって神の国がすでに始まっていることを示しています。私共は福音書を読むことによって、イエス様がまことの神の独り子であられるということを知らされると共に、イエス様によってもたらされた神の国に招かれ、そこに生き始めるということが起きるのです。
 山上の説教には神の国の秩序が記されていました。例えば、「敵を愛しなさい。」です。とても出来ないと思うでしょう。或いは、「人を裁くな。」でも私共は毎日誰かを評価し、批判し、裁いている。「思い悩むな。」と言われても、あの事この事、いろいろと心配事がある。それが私共の現実です。しかし、イエス様はその現実のすべてを知った上で、そのように告げられました。「あなたは敵をも愛する者として生きられる。もうあなたは人を裁かなくてよい。あなたはもう悩まなくてもよい。そのような新しい命、神の国に生きることが出来る。さあ、わたしと一緒にそのような命に生きよう。」そう私共を招いてくださったわけです。イエス様が山上の説教で語られたのはこの世の秩序ではなく、イエス様と共に到来した神の国の秩序です。神の国とは、神の支配ということです。イエス様は、「この神の国に、神の支配に生きなさい。あなたは生きられる。わたしが招いているのだから大丈夫。」そのように私共を招いてくださった。その招きがどれほど確かなものであるか、既にイエス様の到来と共に神の国は始まっている、そのことを示すためにイエス様は様々な奇跡を為されたということなのです。

3.重い皮膚病
 順に見てまいりましょう。1節「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。」イエス様は山を下りてこられました。イエス様の周りには、山上の説教を聞いた多くの群衆が一緒でした。
 そこに、重い皮膚病を患っている人が一人、イエス様に近づいて来たのです。「重い皮膚病」というのは、以前は「らい病」と訳されておりました。けれど、ギリシャ語でレプラ、ヘブル語でツァーラァトと言われる病は、らい病だけを指すよりもう少し広い意味の、皮膚に起きる様々な疾患を指すものであったようです。
 皮膚病については、旧約のレビ記13〜14章に細かく規定が記されています。神学校時代、13章40節「もし、頭部の毛が落ちて、後頭部がはげても、その人は清い。」などを読みまして、「はげは清いのだ」などと言って遊んだこともあります。ここには、様々な皮膚病について規定されているのですけれど、今日の御言葉との関連で知っておかなければならないのは13章45〜46節です。読んでみましょう。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です。』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」これが重い皮膚病にかかった人に対しての規定です。何とも悲しくなるほど厳しいものです。この病にかかったら、人にうつさないように、こんなことまでしなければならなかったのです。特に、「宿営の外に住まねばならない」というのは、今で言うところのいわゆる隔離ですね。この病にかかった人は、家族からも離され、一切の社会的交わりを断たれてしまったのです。社会から捨てられた人と言ってもいいでしょう。

4.イエスに近寄り、ひれ伏した
 この人は、イエス様について行って山上の説教を聞くことも出来ませんでした。そんなことをしたら、イエス様の周りの群衆から、「汚れた者。お前はなんでここにいるんだ。お前が来る所じゃない。」そう言われたことでしょう。彼は山の下にいました。そして、イエス様の方からこの人の所に来たのです。イエス様が山を下るとこの人がいたのです。待っていたのかもしれません。彼は自分からイエス様を捜し求めて行くことは出来ませんでした。しかし、イエス様の方から近づいてこられたのです。
 この人はイエス様を見つけると、イエス様に近寄り、ひれ伏しました。これは、重い皮膚病を患っていたこの人にとって、律法を破る行為でした。人に近づいてはいけないとされていたのですから。しかし、彼はそんなことに構っておられませんでした。この時を逃せば、もうイエス様に会えないかもしれない。今しかない。そして、イエス様に「近づいた」のです。イエス様に向かって一歩を踏み出したのです。そして、イエス様の御前に「ひれ伏し」ました。この「ひれ伏した」という言葉は、礼拝したという意味の言葉です。イエス様を「主よ」と呼んで、イエス様を神様として礼拝したのです。

5.御心ならば
 そして、イエス様にこう言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」これは、なかなか苦労して訳されている言葉です。直訳すると、「主よ、あなたがそうしようとされるならば、わたしを清くすることができます。」となります。この「御心ならば」と訳されている言葉は、「あなたがそうしようと思われるならば」「あなたがそうするという意志を持たれるならば」という言葉です。しかし、「御心ならば」という訳だと、どうも私共は「御心でないのなら仕方がない」というようなニュアンスで受け取ってしまうのですが、そのような意味は全くないのです。これはとても大切なことです。この人は、イエス様の力を全く疑っていません。ただ、イエス様がいやそうと思ってくれさえすればいやされる。そう言っているだけです。この人には、「イエス様がそう思われないなら仕方がない。」そんな思いは少しもなかった。イエス様の憐れみとその力に全く信頼して、こう言ったのです。
 私共は祈りの中で、しばしば「御心ならば」という言葉を用いますけれど、そうならなければ仕方がないという、半分諦めを含んだ思いでこの言葉を用いてはいないでしょうか。そんな思いならば、祈りの中で「御心ならば」なんて言わない方が良い。私はそう思っています。「主よ、あなたは全能の方ではないですか。私共を愛してくださっている方ではないですか。あなたがそうしようと思ってくださるなら、必ず事が起きるのですから。ですから、御業を現してください。」そう祈れば良いのです。
 この人は、イエス様の憐れみと力とを信頼して、イエス様にこう言いました。これはイエス様を拝んでの言葉ですから、このように祈ったということでしょう。そしてイエス様は、この祈りを喜んで受け取られたのです。

6.よろしい。清くなれ
 3節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」イエス様は手を伸ばしてその人に触れました。どこに触れたのでしょうか。私は、この人のただれた皮膚の患部だったと思います。本人も見たくない、周りの人も見たくない、汚れているとみんなが見ている、そこに触れたら感染してしまうかもしれない所。そこにイエス様は触れられた。
 そして、こう言われた。「よろしい。清くなれ。」この「よろしい」という言葉は、「あなたがそうしようと思われるならば」という言葉を受けて、イエス様が「わたしはそうしようと思う。」「わたしはそのようにする意志がある。」と応えた言葉です。イエス様がそうしようと思われ、そうしようという意志を持たれた。だから、イエス様が「清くなれ。」と言われると、その重い皮膚病はたちまち清くなったのです。
 このいやしの御業に神の国の到来が示されています。汚れた者、イスラエルの人から捨てられていた人、決して救われないと思われていた人。その人がイエス様の憐れみと力を信頼し、イエス様を頼った。そして、イエス様はこの人を受け入れ、いやしの御業を為してくださった。イエス様と共に来た神の国において捨てられる人などいない、そういうことです。だから、私共も救われた。
 教会に初めて来る人で、「私は仏教徒ですけれども礼拝に来てもいいですか。」と言う人が時々います。何の問題もありません。イエス様は、御自分を信頼し、救いを求める者を誰一人退けたりなさいません。この重い皮膚病の人は、人前に出ることも出来なかった。しかし、イエス様の前に来たのです。この一歩が大切なのです。「家は浄土真宗です。キリスト教なんて、とてもとても。」そう思っている人も、この町にはたくさんいるでしょう。でも、イエス様に向かって一歩を踏み出す。そうすれば、必ずイエス様が出来事を起こして救ってくださいます。

7.心の石を砕いていただく
 信仰というものは、私共の限界を超えたところで広がっていく世界です。自分が頑張れば何とかなるなら、それは大した問題じゃありません。頑張ればいいのです。でも、自分がどんなに頑張ってもどうにもならないことがあります。例えば、子どものことだって、代わりに勉強したり出来ないでしょう。私は、子育てというのは、信仰無しではやっていけないのではないかと思っています。病気のこともそうです。それに、老いの問題も。どんなに頑張ったって、一年一年私共は老いていくのです。そして、死です。これらの問題は、自分が頑張ってもどうにもなりません。だから、イエス様に頼むしかないのです。そして、イエス様は何とかしてくださる。私共は、今までも何とかしてもらってきたでしょう。だから、これからも何とかしてくださいます。大丈夫です。
 イエス様はこの重い皮膚病の人をいやされた。このいやしは、私共がどうにも出来ないと思っている重い病をいやされたということですけれど、私は、このいやしの問題は私共の一番深い所にある、自分でも見たくない、人にも知られたくない、硬く固まって石のようになっているものをも砕いて、いやしてくださる。そういうことではないかと思います。イエス様が与えてくださる罪の赦しとはそういうものです。私共はどこかで、「罪の赦しは受けた。神の子、神の僕としていただいた。しかし、この心の底にある石のように硬く固まった思いは、イエス様でも何とも出来ない。してもらわなくて良い。イエス様にも触れられたくない。」そう思ってはいないでしょうか。この石は、恨みや憎しみ、或いは劣等感、そんな罪の思いが固まった石。日常の生活の中では気付かない、気付かせないようにしている。しかし、いつもそれを抱いている。そういうものが私共の心の奥底にないでしょうか。イエス様は、その石も砕いて、全き自由を与えてくださるのです。そのためには、この重い皮膚病を患っていた人のように、イエス様にいやしを求めなくてはなりません。「これはいいの。これは仕方がないの。」そんな風に、その石のような硬い心を後生大事に守っていてはいけません。それを砕いていただくのです。そうすれば本当に自由になれるのです。

8.イエス様によって変えていただく
 イエス様はこの人をいやすと、「行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」と言われました。それは、この人が健やかに社会復帰するためでした。イエス様は、病がいやされたらそれで終わりではないことを知っていました。この人が健やかに社会で生きていくようになる。そうでなければ、家族とも一緒に生活することが出来ないからです。
 キリストによる救いは、個人の問題に限定されるものではありません。イエス様は、私共を健やかにして、社会生活がちゃんと出来るようにしてくれます。そのためには、社会の方が変わらなければならないということもあるでしょう。それも大切なことです。イエス様の福音は、私という個人を変えるだけではなく、この社会をも変えていく。そういう力があるのです。何故なら、イエス様の福音は神の国の到来を告げるものだからです。お金や目に見えるものが一番大切なのではなくて、神の愛こそ最も大切なものであり、神様の御心に従って生きることこそ、人生の目的であることを知らせるものだからです。イエス様による救いは、この二千年の間に世界の常識や有り様を大きく変えてきましたし、今も変え続けています。
 この重い皮膚病の人は、どこでいやされたでしょうか。イエス様を拝む、イエス様に祈る、そこでいやされました。それはいつの時代でも同じです。私共は今朝もここに集まって、イエス様を拝んでいます。毎週毎週ここに集まってイエス様を拝み、イエス様に祈りをささげています。それは、イエス様によって新しくしていただきたいからです。イエス様にいやされて、新しく神の国に生きる者としていただきたいからです。私共は神の国に生きる者とされたはずなのに、いつの間にか、自分の頑張りで何とか出来ると思う世界に逆戻りしてしまう。目に見えるものにばかり、心もまなざしも向いてしまう。それがすべてであるかのように思い違いをしてしまう。だから、毎週毎週ここに来て、心の底にある黒く硬い石を砕いていただかなければならないのです。
 よいですか、皆さん。私共は自分の見通しを超えたイエス様の御意志、御心の中に生かされているのです。神の国に生き始めているのです。神の国はもう、ここに来ているのです。

[2017年7月9日]

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