富山鹿島町教会

花の日礼拝説教

「日毎の糧を与えてください」
詩編 145編14〜16節
ルカによる福音書 11章3節

小堀 康彦牧師

1.花の日礼拝
 今日は「花の日」礼拝です。花の日というのは、アメリカの教会で、子どもたちの健やかな成長を願い、それぞれが花のように咲き匂うようにと、たくさんの花を飾って礼拝をささげたことが始まりです。150年くらい前から行われています。教会の「こどもの日」ですね。ですから今日はたくさんの花を飾って、子どもたちが一番前の真ん中に座って礼拝をしています。今日は、2歳から92歳までの人が、みんな一緒に礼拝しています。

2.主の祈り
 教会学校では、全国連合長老会が出している『カテキズム教案』に従って毎週礼拝をしています。今は、「主の祈り」の一つ一つの祈りについて毎週順番に御言葉を受けています。教会学校のお友だちは、もう「主の祈り」は覚えましたか。幼稚科の子はまだ全部は覚えていないかもしれませんね。小学科のお友だちはもう覚えているでしょう。「主の祈り」は覚えなければなりません。理由は一つです。覚えなければ、いつでもどこでもお祈りすることが出来ないからです。つまり、「主の祈り」は覚えているだけではダメなんです。いつでもどこでも「主の祈り」を祈ることが大切なんです。ですから、主の祈りは毎日祈りましょう。
 毎日「主の祈り」を祈りますと、良いことが二つあります。本当はもっともっとたくさん良いことがあるのですけれど、特に大切な二つだけを言います。一つは、祈ることが分かるようになって、祈ることが出来る人になるということです。もう一つは、「主の祈り」を祈るのにふさわしい人に変えられていくということです。毎日「主の祈り」を祈っていく中で、この二つのことがわたしたちの中で起きます。毎日毎日祈っていくと、気がついたらそういう人になっていた。そういうことが起きるのです。
 それは、運動することと似ています。例えば、腹筋運動や腕立て伏せをする。初めは1回か2回しか出来なくても、毎日続けていると50回も100回も出来るようになるでしょう。そして、気がついたら、体に筋肉がモリモリ付いていて、体つきが変わってしまっていた。それと良く似ています。「主の祈り」を毎日毎日、朝昼晩と祈っていると、いつの間にか祈ることが当たり前になります。そして、いつでもどこでも天の父なる神様と一緒に生きている、自分の心が自然と神様に向いていく、そういう人になっていきます。これは本当にすごいことです。ですから、「主の祈り」を覚えたなら、いつでもどこでも毎日お祈りしましょう。

3.我らの日用の糧を
 さて、今日は「主の祈り」の四番目の祈り、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」です。この言葉は小さい子にはちょっと難しいでしょう。「我ら」というのは「わたしたち」ということです。これは分かりますね。次の「日用の糧」、これは難しい言葉ですね。糧というのは、食べ物という意味です。そして、「日用」というのは日曜日の「日曜」ではありません。それだと、日曜日の糧をください、日曜日に食べ物をください、という祈りになってしまいます。「日用」というのは、毎日必要なという意味です。ですから、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」という祈りは、「わたしたちに毎日必要な食べ物を今日も与えてください。」という祈りなのです。
 わたしたちは、食べ物がなければ生きていけません。ですから、「食べ物を今日も与えてください。」と祈るのです。でも食べ物さえあればわたしたちは生きられるでしょうか。食べる物の他にも、着る物も住む所も必要ですよね。つまりこの祈りは、わたしたちが生きていく上で必要なすべてのものを与えてください、そういう祈りなのです。

4.今日も与えてください
 お祈りをするというと、何か特別なこと、困ったことやどうしてもあれが欲しいというようなこと、中学生や高校生になると受験というものもあります、そういう特別な時にだけわたしたちは祈るのではないのです。わたしたちは毎日毎日食べる物が必要です。ですから、毎日毎日、今日食べる物を、必要なすべてのものを与えてください、そう祈るのです。「毎日祈るのは面倒だ。神様、これから一年分、いや十年分の必要なものを与えてください。そう祈れば、一年に一回、十年に一回祈ればいい。」そんな風に考えてはダメなんです。だって、「主の祈り」は、イエス様が「こう祈りなさい。」と言って教えてくださった祈りでしょう。ですから、自分で勝手に作り変えてはいけないのです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」「今日も」ですから、毎日毎日「今日の分を与えてください。」と祈るよう、イエス様は教えてくださったのです。
 「どうしてイエス様は、一年分、十年分の必要なものを与えてくださいと祈るように教えてくれなかったんだろう。そうすれば、一年に一回、十年に一回、お祈りすればいいのに。」そうなんです。そういう祈りならば、毎日祈らなくてもいい。でも、イエス様が教えてくださった祈りは「今日も与えてください。」です。ですから、毎日祈らなければならないのです。イエス様は、この祈りによってわたしたちが毎日お祈りする、それが大切なことだと教えてくださったのです。なぜ毎日祈るのか。その理由も単純です。わたしたちはとっても忘れやすいからです。一年に一回しか、十年に一回しか祈らなかったら、わたしたちは完全に神様のことなんて忘れてしまいます。そして、自分勝手に生きてしまう。どんどん神様から離れていってしまう。自分は神様無しで生きていく、生きていける、そんな風に勘違いしてしまうからです。だからイエス様は、わたしたちが毎日祈るように、この「主の祈り」を与えてくださったのです。

5.必要なものはすべて神様が与えてくださる
 ところで、わたしたちの必要なものは神様が与えてくれる、そう思っていない人はいませんか。大人の人でも、思っていない人は多いのです。食べ物はお母さんが或いはおばあちゃんが用意してくれる。目の前にある食べ物は、確かに誰かが用意したものです。その材料はスーパーに行って買ってくる。買うお金は、お父さんが働いて稼いでくれる。それはそうです。でも、スーパーに並ぶ前はどうでしょう?農家の人や漁師さんがとってくる。そうですね。でも、農家の人も漁師さんも、本当にお米や野菜や魚や肉を作ることは出来ません。農家の人は種を蒔き、肥料をやり、収穫します。でも、神様が太陽の光を与え、雨を降らしてくださらなければ、お米も野菜も育ちません。お米も野菜も魚も肉も、みんな神様が造られたものです。人間はそれを利用させていただいているだけです。着る物も住む所も同じです。みんな神様が造られたものです。
 わたしたちの命だって同じです。誰も、自分でこのお父さん、このお母さんの子どもとして生まれてくるぞと決めて生まれてきた人はいません。気がついたら、このお父さん、このお母さんの子どもになっていた。男の子として生まれるぞ、女の子に生まれるぞ、そう決めて生まれてきた人もいません。気がついたら男の子だった、女の子だった。すべては神様が造られたからです。  わたしたちが必要としているものはすべて、神様が造り、わたしたちに与えてくださったものなのです。ですから、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」「わたしたちに必要なものを今日も与えてください。」と神様に祈るのです。

6.神様は必ず祈りに応えてくださる
 さて、この祈りを教えてくださったのはイエス様です。イエス様が「こう祈りなさい。」と教えてくださいました。イエス様は神の独り子ですから、イエス様の言われたことは、父なる神様の御心でもあります。ということは、イエス様が教えてくださったようにわたしたちが祈るのに、神様はそれに対して知らん顔。そんなことはあり得ないということです。イエス様が「わたしたちに必要なものを今日も与えてください。」と祈るように教えてくださったということは、父なる神様はわたしたちに与えたいと思っておられるし、神様は必ずその祈りに応えてくださるということです。神様はわたしたちを造り、わたしたちを愛してくださっています。神様はわたしたちに何が必要なのかを、わたしたち以上によく御存知です。そして、そのすべてを毎日毎日、わたしたちのために備えてくださっています。
 その証拠があります。わたしたちのこの「わたしたちに必要なものを今日も与えてください。」という祈りが、神様に聞かれていて、神様がそれに応えてくださっている確かな証拠です。それは、わたしたちが毎日食べている食事です。朝昼晩と食事をする度に、神様は、「あなたの祈りは聞かれていますよ。わたしが与える食べ物を食べなさい。これを食べて今日一日元気に神の子として歩みなさい。」そう言ってくださっているのです。わたしたちが毎日、朝昼晩といただく食事は、わたしたちが神様に「わたしたちに必要なものを今日も与えてください。」と祈る祈りに応えてくださっている証拠なのです。
 「主の祈り」を祈っている人にはそのことが分かります。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」その祈りを毎日祈る人は、食事の度に自分の祈りが聞かれていることを知らされるわけです。自分の祈る祈りが聞かれていることを示される。それは素敵なことでしょう。それが毎日起きているわけです。そうしたら、いよいよ神様を愛し、信頼するようになるでしょう。
 食事は、これが好き、これは嫌い、これがおいしい、まずい、そんなことばかりに心を向ける時ではありません。食事の度に、「ああ、神様はわたしを愛してくださって、祈りを聞いてくださって、今日も生きよと言ってくださっている。ありがたいな。うれしいな。」そう思う時なのです。だから、食べる前にわたしたちは食前の祈りをするのです。

7.我らの
 最後にもう一つだけ、お話しします。この祈りは、「我らの日用の糧を」「わたしたちの食べる物、必要なものを」と祈ります。「我らの」「わたしたちの」なのです。わたしだけが食べ物、必要なものを与えられたらそれでいい。そういうことではありません。
 我ら、わたしたち。これはとても広いのです。わたしの家族、わたしの親戚、わたしの友人。そこにとどまりません。もっともっと広がっていきます。神様が造られ、神様が愛しておられる、この世界に生きているすべての人にまで広がっています。  現在も世界中で何億人もの人が食べる物がなくて困っています。慢性の栄養失調になっています。この祈りは、その人たちにもどうか食べ物を与えてくださいという祈りでもあるのです。また、戦争があって、家を失い、風呂敷に入れた物だけを持って逃げている人もたくさんいます。難民と言われる人たちです。その人たちは、自分の畑から追い出され、家にあった食べ物もなくなり、テントで暮らしています。この「主の祈り」は、その人たちにも食べ物が与えられますように、平和な世界となりますように。そういう祈りでもあるのです。
 「主の祈り」を毎日祈る中で、わたしたちはそのような人たちのことも忘れない、そういう人になっていくのです。

[2017年6月18日]

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