富山鹿島町教会

礼拝説教

「心を頑なにしてはならない」
出エジプト記 17章1〜7節
ヘブライ人への手紙 3章7〜19節

小堀 康彦牧師

1.シンの荒野からレフィディムへ
 今朝は4月の最後の主の日ですので、旧約の出エジプト記から御言葉を受けます。今朝与えられております御言葉は、出エジプト記17章の前半の所です。
 イスラエルの民がエジプトを脱出し、荒れ野の旅を続けました。1節に「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。」とあります。シンの荒れ野を出発して、レフィディムに宿営した時のことです。レフィディムに宿営する前のシンの荒れ野では何があったかと言いますと、16章に記されておりますように、「食べる物がない」と不平を言うイスラエルの民に対して神様は天からのマナを与え、うずらの大群で肉を与えました。このマナは四十年にわたってイスラエルの民に与えられ続けたと聖書は告げます(16章35節)。ということは、シンの荒れ野を出発してレフィディムに着くまでの間も、レフィディムに宿営した時も、マナによる神様の養いはあったということです。しかし、このレフィディムには飲み水がなかったのです。水がなければ人間は死んでしまいます。この時、イスラエルの民はモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ。」と言って詰め寄りました。4節を見ますと、モーセは「彼らは今にも、わたしを石で撃ち殺そうとしています。」と神様に叫んでいますので、この時のイスラエルの民のモーセに対しての態度は、ただ不平を言っているだけではなくて、「水を与えなければ殺すぞ!」という大変厳しいものだったことが分かります。

2.イスラエルの民の不信仰とモーセの信仰
 水がない。水がなければ数日の間に死んでしまう。その状況の中で、イスラエルの民は神様の守り、神様の養い、神様の導きというものを信じることが出来なかったのです。「我々に飲み水を与えよ。」と言って詰め寄ってくるイスラエルの民に対して、モーセは2節「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」と言っています。モーセはこの時のイスラエルの民の態度、行動の元に、神様を信頼しない、神様への不信仰があることを見ていました。イスラエルの民の言い分はこうです。3節b「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」これは、シンの荒れ野で食べ物がないといって不平を言った時の言葉と同じです。目の前の危機的状況によって、神様の守りも導きもすべて頭から飛んでしまう。そして、神様に立てられたモーセに向かって不平を言って、「何とかしろ!」と迫る。
 モーセはどうだったのでしょうか。この時モーセがどう思ったのか、具体的には何も記されていません。モーセは神様に状況を報告し、神様に訴えています。モーセがどう思ったかは記されていませんが、この行動の中にモーセの立ち方と言いますか、信仰の有り様が示されています。それは、「神様しかいない」ということです。モーセもイスラエルの民と同じで、飲み水がないという状況は分かっています。水がなければ死んでしまうということも分かっています。しかし、モーセにはこの時もなお「神様しかいない」のです。モーセにしてみれば、エジプトから脱出するまでの十の災い、過越の出来事、海の水が左右に分かれて道が出来て助けられた出来事、シンの荒れ野でのマナの出来事、今まで数々の危機を神様の御手の中で救われてきた。そして、今もマナが与えられている。そもそも、このレフィディムに宿営したのも、モーセが道を選んでここに宿営することを決めたのではありません。昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれる神様によって、導かれてこの地に宿営することになったのです。すべては神様の導きの中でのことなのですから、神様が何とかしてくださるに違いない。神様はこのイスラエルの民と共にいてくださる。そのことを信じるしかない。それがモーセの思いでありました。このような時でも、否、このような時こそ、神様しかいない。神様に頼るしかない。それがモーセでした。だから祈った。神様に叫んだ。それしかないからです。

3.神様の御手にある備え
 神様はそのモーセの叫びに対してどうされたでしょうか。5〜6節「主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』」出エジプトの際の最初の災い、ナイル川の水を血に変えるという出来事の時に、ファラオとのやり取りの後でナイル川を打ったあの杖です。それで岩を打てと神様はモーセに告げるのです。そうすれば岩から水が出て、民はそれを飲むことが出来るというのです。岩から水が出る。モーセは考えてもいなかったでしょう。この考えることさえ出来ないような出来事によって、イスラエルの民は水がないという状況を抜け出すことが出来たのです。
 しかし、私はこう思うのです。確かにこのレフィディムという場所には水がなかったのですが、神様はイスラエルの民を見捨てることなく守られる方であり、この地に導いたのは神様なのですから、神様は民をこの地に導いた時から、岩から水が出るという出来事を用意されていたのではないか。イスラエルの民もモーセも、岩から水が出るなどということは考えることも出来なかったし、水はどこにも見えなかった。しかし、神様の御手の中には既に備えられていた。そういうことでしょう。私共は自分の目では見えない、確認出来ない、神様の御手の中にある明日、神様の備え、神様の導きをそれでも信じる。それが今朝、私共に求められていることなのです。

4.何故、聖書はイスラエルの不信仰を何度も繰り返し記しているのか
 それにしても、皆さん不思議に思いませんか。どうして、イスラエルの民はこのように何度も何度も神様に不平を言い、神様の導きを、神様が共におられるということを信じることが出来なかったのか。そして何故、聖書はイスラエルの不信仰をこのように何度も何度も記しているのか。理由はいくつか考えられます。
 第一に、事実、イスラエルの民はこのように不信仰であったからです。それはイスラエルの民だけが特に不信仰であったということではありません。人間というものは、何度も何度も神様の救いの恵みに与っても、このようになかなか神様を本当に信頼するに至らないものだ。目の前の困難に心を奪われ、それがすべてであるかのように思ってしまうものだ。そのことを示しているのでしょう。
 第二に、どのような困難、危機的状況であっても、神様の守りと導きの中に私共は生かされている。神様の私共と共におられる。そのことを示すためです。
 第三に、このように不信仰なイスラエルの民が、神の民とされているし、神の民となっていくことを示すためです。神の民は、信仰深い者たちだから神の民なのではなくて、不信仰極まりない者たちが、そうであるにもかかわらず、神様が愛し、選び、導き続けて、訓練し続けて、神の民になっていく。そして私共もまた、自らの不信仰にも拘わらず神様に愛され、選ばれて、この神様の訓練の中にいるということです。キリスト者になれば万事がうまくいく。病気にもならないし、家庭も平和。勿論、そういう人もいるでしょう。しかし、そうではない人もいる。だからといって、神様が私共と共におられなくなったとか、神様の愛がなくなった、そんなことは全くありません。どんな時でも神様は変わることなく私共と共におられ、私共を愛し、道を拓き、導いてくださっている。そのことに気付くのには少し時間が必要な時もあります。しかし、この恵みの事実は変わらないのです。

5.神様に捕らえられた者として
 私共は、水がなくて不平を言うイスラエルの民の思いが良く分かります。これからどうなるのか不安で仕方がない。神様が共におられるということが分からない。手応えがない。そんな不安の中、眠れぬ夜を過ごしたことが、長い人生の中では何度かあるでしょう。そんな時を経験したことのない人は幸いです。しかし、人生なかなかそうはいきません。しかも、神様の備えがどこにあるのか、何なのか、少しも分からない。神様が見えない。神様が共にいると言われても不安になる。頼りない気がする。それが本当に苦しい状況に置かれた時の、私共の正直な思いではないかと思います。
 私は神学校の大学院一年生の冬、そんな思いにとらわれました。神様を信じるといっても、神様は目に見えないし、手応えがない。これで牧師になれるのかと思いました。そして、クリスマスの夜、教会のキャンドルサービスが終わって夜の10時頃だったでしょうか、神学校の寮に戻り、チャペルに行って祈りました。その時の私の思いは、ルカによる福音書の8章にあります、長血の女がイエス様の衣の房に触れたように、私もこの手でイエス様を触りたいというものでした。イエス様に直接触れなくても、イエス様の衣の房でも良いから触れたいというものでした。その夜、ずっと祈り、願い、一人神学校のチャペルで十字架を見上げていました。12時頃、チャペルドアが開きました。あっと思って振り返ると、当時学長だった松永先生がおられました。目と目が合いましたが、松永先生は何も言わずに戸を閉めて行かれました。研究室から自宅に帰る途中、チャペルに小さな灯りがついていたから覗いていかれたのでしょう。その夜、イエス様が私の前に御姿を見せてくださったということはありませんでした。何も起きませんでした。全く何も起きませんでした。
 しかし、朝方に、ガラテヤの信徒への手紙4章9節「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」という御言葉が与えられました。イエス様をこの手でつかみたい、イエス様を実感したいと思っていた私でしたが、この御言葉がストンと胸に落ちました。納得しました。そして、この御言葉と共に、イエス様に触れるということは、もうどうでも良くなりました。私が捕らえるのではなく、私が捕らえられている。私が触れるのではなく、私が触れられている。それでもう十分だと思ったのです。
 私共は神様に触れたいと思う。知りたいと思う。神様と共にいることを実感したいと思う。しかし、それはどこまでも自分を中心に信仰をとらえているからでしょう。私共の信仰は、私共が神様を捕らえるところに生まれるのではなくて、神様に捕らえられるところに生まれるものなのです。自分を中心にしていれば、自分の実感や自分の思いを中心にしていれば、私共はこの時のイスラエルの民と同じように、不平を言うしかなくなってしまうのではないでしょうか。

6.マサやメリバでしたように
 さて、モーセは長老たちの前で岩を杖で打ち、水が出ました。イスラエルの民は助かりました。7節には「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである。」とあります。モーセはこの地をマサ、メリバと名付けたのです。マサとは試すという意味の言葉、メリバとは争うという意味の言葉です。イスラエルの民の不信仰を覚えるために、このように名付けたのです。このマサ、メリバという地名と共に、この出来事は不信仰の代表のようにイスラエルの民に覚えられ続けました。代表的なのが、詩編の95編です。読んでみます。1〜7節a「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王。 深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。」この詩編の詩人はこのように神様への信頼を歌い、そして7節bからこう続けます。「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑なにしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り、彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。』」と続きます。マサとメリバの地名は、神様を試みる、神様を信頼しない、その不信仰の代名詞として覚えられたのです。そして、そうなってはいけない、そのように心を頑なにしてはならない、その戒めを心に刻む出来事となったのです。
 何故イスラエルの民は出エジプトの旅を四十年もしなければならなかったのか。何故出エジプトをした第一世代は約束の地に入ることなく、荒れ野で死ななければならなかったのか。それは、神様を信頼せず、神様を試みたからだと告げているのです。そして、この詩編95編が、先程お読みしましたヘブライ人への手紙3章7節以下で引用され、あの時のように心を頑なにしてはならないという戒めとして告げられているのです。

7.心を頑なにしてはいけない
 この「心を頑なにしてはならない」というのは、人の話を聞かないような頑固な心であってはならないというような意味ではありません。そうではなくて、神様に対して心を頑なにしてはいけないということです。イスラエルの民は雲の柱・火の柱で導かれ、マナの養いを受けていたにもかかわらず、神様が自分たちと共におられるということを信じることが出来ませんでした。神様の御手にある備えも信じられませんでした。ただ目の前の水がないという危機がすべてになってしまっていました。そして、神様に不平を言い、神様を試したのです。それがここで言われている、頑なな心の内容です。神様に反抗する心です。
 この「心を頑なにしてはならない」という言葉は、確かに形としては禁止の命令形です。しかし、内容を考えるならば、神様を信じる者になりなさいという招きです。神様は今朝、「心を頑なにしてはならない」と告げることによって、「信じる者になりなさい」と私共を招いておられるのです。
 では、この信じる者となるのはどのようにしてでしょうか。聖書ははっきりと、それは神様の言葉を聞くことによってだと告げています。ヘブライ人への手紙15節b「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われている通りです。逆に言いますと、神様は私共に御言葉を与えることによって、「わたしを信じる者になりなさい。」と私共を招いておられるということです。
 私共の信仰の旅は、決して短くはありません。イエス様を信じ、救いに与ったならば、天に召されるまで信仰を保持し、御国に向かってキリスト者としての歩みを全うしなければならないのです。その歩みの中では様々なことが起きます。イスラエルの民もエジプト軍に追われたり、食べ物がなかったり、水がなかったりと、危機や困難に次々と見舞われたのです。しかし神様は、イスラエルの民を守り通してくださいました。私共の信仰の歩みもそうなのです。いつも順風満帆というわけにはいきません。どうしてこんなことが、ということもあるでしょう。しかし、神様は私共と共にいてくださっています。そして、私共の思いを超えた道を備えてくださっています。そのことを信じて良い、そのことを信じるようにと、神様は今朝も私共に御言葉を与えてくださっています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。」この御言葉をしっかり心に刻んで、この一週もまた、御国に向かって歩んでまいりましょう。

[2017年4月30日]

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