富山鹿島町教会

礼拝説教

「モーセの召命」
出エジプト記 3章1〜12節
ヘブライ人への手紙 3章1〜6節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今年から毎月一回旧約聖書から御言葉を受けることになりました。そして旧約では、出エジプト記から順に御言葉を受けています。今日は3章の、モーセが神様から召命を受けるところです。先週の主の日、私共はマタイによる福音書4章18節以下の、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネがイエス様に召し出され、イエス様の弟子となった記事から御言葉を受けました。ですから、全く計画したことではありませんが、新約における召命の出来事に続いて、旧約における召命の出来事を聞くことになったわけです。先週申し上げたように、この神様の召命という出来事は、極めて個別的であると共に普遍的です。今日は、先週のイエス様が最初に弟子を召し出されたところを思い起こしつつ、モーセの召命の出来事を見ていき、普遍的な神様の召命に私共もまた与っていることを受け止めてまいりたいと思います。

2.前回までを振り返って
 さて、出エジプト記から御言葉を受けるのは一ヶ月ぶりとなりますので、前回までの所を少し振り返っておきましょう。
ヤコブと十二人の息子たちと孫たち70人は、ヤコブの息子の一人ヨセフがエジプトの宰相であった時、飢饉を逃れてエジプトにやって来ました。それから時が経ち、ヨセフを知らない王の時代となり、ヤコブとその一族の子孫であるイスラエル人たちは、エジプトで虐待され、奴隷の状態に置かれるようになってしまいました。エジプト王は、イスラエル人が増えて強力になることを恐れ、男の子が生まれたなら殺してしまえと命じました。そのような時代にモーセは生まれたのです。モーセは、生まれて三ヶ月でエジプト王の命令に従ってナイル川に捨てられたのですが、まことに不思議なことにエジプトの王女に助けられ、王宮で育ちました。しかし、モーセは成人した後、同胞であるイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見るに見かね、そのエジプト人を殺してしまったのです。モーセは殺人者として追われる身となってミディアンの地に逃げ、その地でミディアンの祭司エトロの娘、ツィポラと結婚し、子も与えられました。
 ちなみに、エジプトからミディアンの地に来た時のモーセは40歳、召命を受けたのが80歳、そして40年の出エジプトの旅をして、120歳で死んだと聖書は告げています(使徒言行録7章23節〜36節)。この年齢をその通りに受け取らなくても良いとは思いますが、モーセの人生を「エジプト時代」「ミディアン時代」「出エジプト時代」に分けていることは注目して良いでしょう。つまり、2章から3章にかけては、それなりの期間があったということです。

3.日常の中で
 今朝与えられております3章はこのように書き出されています。1節「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。」モーセはミディアンの地で羊飼いとなっていたのです。ミディアンの地というのは、聖書の巻末にあります地図2「出エジプトの道」を見ると分かりますように、アラビア半島のつけ根です。モーセはこの時、ミディアンの地から神の山ホレブまで、羊の群れを追って行ったのです。100km以上ありますが、遊牧民にとって、このくらいの移動はそれほど珍しくなかったのでしょう。つまりモーセは、日常の普段の仕事をしていたということです。
 先週見ました、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが召し出された時もそうでした。シモンとアンデレは漁をしていたとき、ヤコブとヨハネは網を繕っていたときでした。日常の仕事をしているその時に、イエス様は彼らを召し出されたのです。モーセもそうでした。神様の召し出しというものは、こちらの準備、こちらの信仰心、そんなものによって決められるものではないのです。神様は、全く自由なお方なのです。
 ここで「神の山ホレブ」と言われておりますのも、この時既に「神の山」と呼ばれていたわけではなく、この山でモーセが神様の召命を受け、さらにこの山でモーセが十戒をいただいたので、後に「神の山」と呼ばれるようになったのです。この「神の山ホレブ」とはシナイ山のことです。ですから、この時にはただの山です。つまり、モーセはいつものように羊を追ってここに来た。神様に会おうと思っていたわけではありません。そして不思議な光景に出会います。

4.神様が与える不思議
 柴が燃えているのに、その炎は燃え尽きない。柴というのは山野に生える、小さな雑木のことです。木が燃えている。しかし燃え尽きない。モーセは不思議に思ってその木に近づくのです。するとその時、「モーセよ、モーセよ。」と声をかけられた。もちろん、そこには人間の姿はありません。モーセが「はい」と答えますと、その声は続けてこう告げます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」更に続けて、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」ここに至って、モーセはこの声の主が神様であることを知るのです。モーセは神を見ることを恐れて、顔を覆いました。聖なる神様を見れば、その聖さに打たれて死んでしまう。モーセはそう思ったのです。
 ここで、モーセと聖なる神様が出会ったわけですが、燃える柴、燃え尽きない木。これは、神様がモーセを自分のところに来させるために与えた不思議な光景でした。いつでもここに来れば燃える柴、燃え尽きない柴がある。そういうことではなかったでしょう。神様は御自分がお決めになった者を召し出すためには、このような不思議な出来事も起こされるということなのでしょう。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが召し出された時にも、先週見たマタイによる福音書にはありませんが、ルカによる福音書(5章)では、夜通し漁をしたけれども何もとれなかったが、イエス様が「網を降ろし、漁をしなさい。」と言われたので網を降ろすと、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったという出来事があったことが記されています。そして、イエス様は「あなたは人間をとる漁師になる。」と言って召し出されたのです。その人を召し出すためには、神様はそのような不思議な出来事をも起こし、用いられるということなのでしょう。大切なことは、この不思議な出来事ではありません。その様な出来事を起こしてまでも、神様がモーセを、ペトロを、アンデレを、ヤコブを、ヨハネを召し出されたということです。神様は私共を召し出されるためならば、どんなことだってなさいます。

5.神様に選ばれて、召される
 モーセは燃える柴が何なのか分からずにこれに近づいたのですが、この時既に神様は、モーセを召し出すことをお決めになっていたということです。モーセの信仰とか、モーセの決断とかの前に、神様の選びというものがまずあるのです。神様の召命というものは、まず神様の選びということがあるのです。
 私共もそうなのです。私共が教会に来た。イエス様を信じ、洗礼を受けた。それらの出来事には、皆それぞれ違った道筋があったのでしょう。友人に誘われてとか、両親がキリスト者だったからとか、学校がキリスト教の学校だったとか、人生の悩みに突き当たり教会の門を叩いたとか、皆それぞれ違う道筋があった。しかし、その根本においては、神様が私共を選んでくださったという、「神様の選び」というものがあったのです。どうして自分が選ばれたのか、その理由は全く分かりません。モーセも分からなかったでしょう。ペトロもアンデレもヤコブもヨハネも分からなかった。私共も分かりません。少なくとも、他の人と比べてここが優れていたからという理由でないことははっきりしていると思います。これが、神様の選びと人間の選びの違う所です。人間の選びというものは、この仕事をするにはこういう能力、性格、資質が必要だと考え、それに基づいて選ぶわけです。しかし、神様はそうではありません。理由は分からない。分からなくて良いのです。ただ神様が私を選んでくださった、このことだけはしっかり受け止めなくてはなりません。

6.アブラハム・イサク・ヤコブとの契約の故に
 神様はモーセにこう告げます。7節「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」神様はイスラエルの民を、「わたしの民」と言われます。神の民とは、神様が「わたしの民」と呼んでくださる存在なのです。私共も神様御自身が「わたしの民」と呼んでくださっているのです。特別な民なのです。
 神様がイスラエルの民を「わたしの民」と呼ばれるのは、アブラハム・イサク・ヤコブとの契約・約束の故です。このことは2章23〜25節でも言われています。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」神様は、アブラハム・イサク・ヤコブとの契約をお忘れになることはなかったのです。アブラハム・イサク・ヤコブの時代からもう400年も経ちました。イスラエルの人々はもう忘れられたと思ったかもしれない。しかし、忘れられていないのです。
 私共も困難のただ中で祈り、でも状況が変わらないとき、私共は神様に忘れられたのではないかと思ったことがなかったでしょうか。しかし、神様は決してお忘れになることはないのです。主イエス・キリストと契約との故です。洗礼を受け、イエス様と一つにされた私共が忘れられることは決してありません。ただ「時がある」ということなのでしょう。神様の時があるのです。事が起きるには時がある。そして、その時が来るまでの私共の祈りは、決して空しくなることはないのです。

7.地に降って救われる神様
 そして神様は、御自身が為そうとされていること、御計画、御心を明らかにされます。8節「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」この事を起こすと告げられたのです。 「わたしは降って行き」と神様は告げられました。神様は、天の高みから、この地の上に降って来ると言われたのです。そして、イスラエルを救う。これが出エジプトの出来事なのです。そして、この神様の御決断、この神様の行動、この神様による救いの御業は、主イエス・キリストによって与えられる救いの御業を予表し、指し示しています。天の高みにおられる神の独り子が、地の低きに降り、すべての罪人を救い出される為に十字架にお架かりになるという神様の御業。ここに至るのです。実に、この出エジプトの出来事を起こされた神様は、イエス様をお遣わしになった神様なのです。

8.神様の召しとモーセの答え@
 そして神様は遂に、何のためにモーセを召し出したのかをお告げになります。10節「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」モーセに告げられた神様の御心、神様の御計画はあまりにも度外れたものでした。モーセはただの羊飼い。人殺しのお尋ね者となってエジプトから逃げて来た男です。一方エジプトは、当時世界最強の文明国家です。王宮で育ったモーセでも、エジプト王ファラオに会うことはほとんど不可能。まして、イスラエルの民をエジプトから連れ出すなど、考えることさえ出来ないほどのことです。
 モーセはここで、神様の召命にすぐに「はい」とは答えませんでした。先週のペトロたち四人がイエス様の弟子になった時は、皆すぐに網を捨てて、イエス様に従いました。しかしモーセは、ここですぐに「はい」とは言わないのです。先週、私はこの「すぐに」というのは、時間的に「すぐに」ということだけを意味しているのではないと申し上げました。時間的には3年後でも10年後でも、神様の目から見れば、神様の召しというものをその時しっかり受け止めて「はい」と答えたなら、それが「すぐに」ということなのです。
 ここでモーセは、こう神様に言うのです。11節「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」何と正直な答えでしょう。モーセは確かに神様から召し出されました。しかし神様は、ここで有無を言わせず、その力と権威でモーセを従わせようとはされないのです。モーセは自由です。
 モーセは「わたしは何者でしょう。」と言う。この言葉には、「自分はただの羊飼いに過ぎません。どうしてそんなことが出来るでしょう。」という思いが込められています。「自分に出来るはずがありません。無理です。」そういうことでしょう。更に、「どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」という所には、「何でわたしなんですか。そんな大変なことは他の誰かがやれば良いでしょう。そんなことをするのはわたしは嫌です。」そういうことでしょう。
 これに対して、神様はこう告げます。12節「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」神様は、自分が必ず共にいるから大丈夫だ、そう説得するのです。ここで大切なことは、モーセは「わたしは何者でしょう。」と言って、自分を見て、それは無理、それは出来ない、と言っているわけです。しかし、神様はそんなモーセに、あなたはこんなことも出来るし、こんな能力もあるじゃないか、と言って励まし、説得しているのではないのです。神様はただ「わたしが必ずあなたと共にいる。」だから大丈夫だと言われるのです。つまり、神様はここで「モーセよ。自分を見て判断するのを止めよ。わたしが計画し、わたしが決断し、わたしがあなたを召し、わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが何かをするのではない。わたしがするのだ。だから、わたしを信頼すれば良いのだ。」そう言われたということなのでしょう。
 神様はこの時、12節b「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」と言われ、後にこの山で十戒を授けることも見通しておられました。神様は、これから起こすこともすべて見通された上で、モーセを召し出し、御自分の救いの御業のために用いようとされたのです。モーセはそんなことは分かりません。ですから無理だと思うし、そんな用いられ方はしたくないと思う。モーセには羊飼いという仕事もあり、妻もいれば子もいたのです。私共には、残念ながら、このモーセの言い分の方がよく分かるでしょう。しかし、神様が召されたということは、神様が何とかしてくださるということなのです。そこを信頼する。それが信仰です。この信仰をもって神様の召しに応えて一歩を踏み出すこと。それが献身なのです。

9.神様の召しとモーセの答えA
確かに、モーセはこの時、すぐに神様に「はい」とは言いませんでした。なんと五回も、色々と理由を付けては、この神様の召命から逃げようとします。それに対して神様は、一つ一つ丁寧に対応され、説得を続けるのです。
 一回目は、この「わたしは何者でしょう。」ということでした。
 二回目は、13節「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」ここでも神様はモーセに対して、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と丁寧に答えられます。
 三回目は、4章1節「それでも彼らは、『主がお前になど現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう。」神様はこれにも、杖を地面に投げると蛇になり、尻尾をつかむと杖に戻る不思議、また手をふところに入れると重い皮膚病にかかり、再びふところから出すと元に戻っている不思議を与えます。更に、それでも信じないならば、ナイル川の水をくんできて地面にまくと血に変わるという不思議も与え、これだけやれば皆信用するだろう、と説得します。
 四回目は、4章10節「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」それに対しても、11〜12節「一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と説得します。
 そして五回目、4章15節「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」遂にモーセの本音が出ます。これに対して、14節、主は遂にモーセに向かって怒りを発して、「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。」と告げるのです。アロンという助け手を与えてくださるというあり方で、神様は説得するのです。
 神様は四回までは丁寧に説得するのですが、しかし五回目にはモーセに怒りを発せられました。それは、「いつまでごちょごちょ言っているんだ。いい加減にしろ。」ということでしょうか。天地を造られた全能の神様が選び、召し出したのなら、結局の所、モーセは「はい」と言うしかないのですね。献身とはそういうものです。私共もそうなのです。献身というものは、あれもこれも自分は自由に選択することが出来たけれども、自分はこれをすることにした、そういうのではないのでしょう。神様が自分を選んで、召して、ここに遣わされた。だから、自分に能力があるとか、それに向いているとか、そんなことを考えるまでもなく、神様が召されたからこれをすることにしたし、これをやり続けている。献身とは、そういうことなのでしょう。

10.献身としての職業
 この神様の召命ということを、職業と結びつけて理解したのが、私共の教会の源流であります宗教改革における改革派教会、長老派教会の人々の特徴でした。この神様からの召命に対しての献身というものを、牧師や教会の業に仕えることだけではなくて、全く世俗の自分の職業に対してもその様に受け止めたのです。神様がこれをするようにと自分を召し、この仕事に遣わしてくださったと受け止め、その仕事に励んだのです。私は、この職業理解は現代においても本当に大切なことだと思っています。私共の仕事は、ただ食べるためだけに、お金のためだけにそれをやっているのではないのです。それは、神様が私のために用意してくださった、神様にお仕えする道としての仕事だということなのです。  私は若い方たちに、「給料や待遇、そういったことだけで仕事や職業を決めてはいけない。神様がそこに召しておられる。この神様の召命というものを願い求め、それに従いなさい。」そのように申してきました。そこには誇りが生まれるでしょう。給料というお金によってしか仕事というものを評価出来ないのは、まことに寂しいことです。
 私共は、神様の召しを受けて、キリスト者になりました。そして、神様の召しを受けて、キリスト者としてその仕事に就いているのです。主婦もまた、召されて主婦をしている。お金に換算してどうのこうのということではないのです。神様に召されて為しているのだから、その業は尊いものですし、大切なことですし、一生懸命為していかなければならないのです。

[2016年4月17日]

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