1.レント(受難節)を迎えて
週報にありますように、今週の水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、この日からレント(受難節)に入ります。どうして「灰の水曜日」と呼ぶかと申しますと、灰、これは物を燃やして出来る灰ですが、旧約以来、悔い改めの祈りをする際には灰をかぶるという習慣があり、悔い改めをもって受難節を迎える、そういう意味で「灰の水曜日」と言って来たわけです。カトリックなどでは、実際に前の年の「棕櫚の主日」に用いた棕櫚の枝を燃やして灰を作り、それを額に付けるという儀式があります。私共はそのようなことは行いません。しかし、悔い改めをもって受難節を迎えるということに変わりはありません。
受難節、レントというのは、イースターの前の主の日を除く40日間と定められております。主の日を除く40日間ですから、主の日を入れると47日間となって、必ず水曜日から始まることになるわけです。この期間は何よりも悔い改めの期間ということになっていますので、昔はこの期間には結婚式を挙げないとか、宴会やお酒や音曲を控えるとかありました。今はそれほどのことはありません。それでも、今でもさすがに最後の受難週には結婚式は控えることになっているかと思います。受難節に入りますと宴会も出来ないということで、その前に馬鹿騒ぎをしてしまおうとして行われるのがカーニバル、謝肉祭なのです。ですから、カーニバル、謝肉祭は灰の水曜日の前日の火曜日には終わることになっています。
2.洗礼者ヨハネの運動
さて、今朝私共に与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネがファリサイ派、サドカイ派の人々に向かって告げた言葉です。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で悔い改めのしるしとしての洗礼を授けるという活動をしていました。この洗礼者ヨハネの活動は、ユダヤ全土に広がる信仰覚醒運動であったと理解して良いと思います。この運動は当時大変大きな影響力を持っており、ユダヤで洗礼者ヨハネを知らない人はいない。それほど人々に受け入れられていました。先週見ましたように、洗礼者ヨハネの告げたメッセージは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」でありました。これはイエス様が告げられたことと同じです。彼は、自分の後に来るまことの救い主のために道備えをする者として神様に遣わされた者でした。そして、そのことを自覚しておりました。それは今朝与えられております11節の洗礼者ヨハネの言葉、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」にはっきり表れております。「履物をお脱がせする値打ちもない」というのは、当時履物を脱がせるのは奴隷の仕事でしたので、ヨハネは自分の後から来る方、つまりまことの救い主の前に出れば奴隷の値打ちも無い、それ程に小さな者に過ぎないと言ったわけです。ヨハネは自分の後から来られるまことの救い主のために道備えをする役割を与えられていた者ですが、このヨハネの活動は大変な評判となり、ヨハネのもとに人々が続々とやって来たのです。そして、悔い改める者に洗礼を授けていたわけです。そういう中で、ファリサイ派やサドカイ派の人々も洗礼を受けにやって来ました。その時、彼らに向けて告げられた言葉が、今朝与えられている言葉です。
3.「蝮の子らよ」
ヨハネは自分の所に来たファリサイ派やサドカイ派の人々に対して、まず「蝮の子らよ。」と告げます。ファリサイ派やサドカイ派の人々というのは、当時のユダヤ教の指導者たちです。サドカイ派というのはエルサレム神殿の祭司などを中心とした宗教指導者たちであり、神殿貴族と言って良いでしょう。一方、ファリサイ派というのは律法学者に代表されるような人たちで、律法を解釈したり、実践して町々村々の会堂・シナゴーグで人々を指導していた人たちです。そういう人々に向かって、いきなり「蝮の子らよ。」とヨハネは告げたのです。蝮というのは、あの毒蛇ですね。蝮が好きだという人はまずいないでしょう。そもそも蛇は、創世記第3章で、アダムとエバに罪を犯すようそそのかした存在です。つまり「蝮の子」というのは、罪にまみれた者、人を罪に陥れる者、神の敵対者、そういうニュアンスの言葉です。彼らはユダヤ教の指導者であり、当然、「自分たちはアブラハムの子である」と思っていたはずです。その「アブラハムの子」だと思っている者に向かって、ヨハネは「蝮の子」と告げたわけです。ほとんどケンカを売っているような言い方です。どうして彼はこんな言い方をしたのでしょうか。
それは、ヨハネは彼らの心の中を見抜いたからです。ヨハネはこう言います。7節b〜9節「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々が、「自分たちは神の怒りを免れる」と思っていることを見抜いていたのです。どうして彼らはそう思っていたのか。それは、「自分たちはアブラハムの子」だからです。神様がアブラハムを選び、御自分の民を造られた。自分たちはそのアブラハムの子孫、神の民、神様から特別な扱いを受けている者だ。自分たちが神の怒りから救われないで、誰が救われるのか。アブラハムの子ではない異邦人は皆滅びるだろうが、自分たちは、自分たちだけは大丈夫だ。そう考えていた。その心をヨハネは見抜いたのです。ですから敢えてアブラハムの子に向かって、「蝮の子」と呼んだのです。
4.神様の御前に立つ
先程申しましたように、ファリサイ派やサドカイ派の人々というのは、当時のユダヤ教の指導者たちです。ユダヤ社会の権力者、宗教的指導者だったわけです。洗礼者ヨハネは、そのような目に見える権威というものを全く意に介さない、問題にしないのです。何故なら、彼は神様から遣わされた者だったからです。これは、彼が旧約以来の預言者の系譜に繋がる者であったということです。彼が恐れたのはただ神様だけです。それはイエス様も同じでした。その意味でも、洗礼者ヨハネはイエス様の先触れ、道備えをする者でした。ヨハネにとって大切なのは、ただ神様です。神様だけです。この方の御前に正しく歩む。神様の御心をきちんと伝える。それだけがヨハネにとって大切なことだったのです。
しかし、ファリサイ派の人もサドカイ派の人も、目に見える権威を持ち、それを頼りにしていました。その心を象徴していたのが、「我々の父はアブラハム」ということだったのです。ヨハネは、心の底にあるその自信、神様の前にへりくだることが出来ない傲慢、それを見抜いたのです。そして、「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と言ったのです。お前たちは「自分たちはアブラハムの子だ」と思って自らを誇っているが、全能の神様は石ころからでもアブラハムの子を造ることが出来るのだ。お前たちは石ころと同じ。この石ころと同じ何の意味も無いものを誇りにしている。その誇りを捨てよ。そう告げたのです。
ヨハネは、実に人間の心の奥底にある「自らを誇る」という罪を暴いたのです。この罪は、ファリサイ派やサドカイ派の人々の中にだけあるものではないでしょう。私共の中にもある。悔い改めというのは、この「自らを誇る」という思いを神様の前に砕かれるということなのです。神様の御前に、言い逃れの出来ないただの罪人として立つということです。ただの罪人として、神様に赦しを願い求めるということです。この世においてどんな立場にあるとか、どんな実績があるとか、こんな良い所があるとか、一切関係ないのです。この「自らを誇る」ということを捨て去る。それが悔い改めるということであり、悔い改めにふさわしい実ということなのです。
ヨハネは、ただ神様の御前に立つことを求めたのです。そして、この神様の御前に立つということは、神様の裁きの場に立つということなのです。ここでヨハネが「差し迫った神の怒り」とか10節「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」12節「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と告げているのは、終末における裁きです。神様の御前に立つというのは、この終末における裁きの場に立たされる者として神様の御前に立つということなのです。この終末における裁きということを抜きに、私共の救いを考えることは出来ません。神様に救われるというのは、この裁きの場において救われるということなのです。病気が治るとか、事業に成功するとか、受験に合格するとか、そんなことが救いなのではないのです。そういうことが無いというのではありません。神様はその全能の愛の御手で私共を助け導いてくださるのですから、そういうことはいくらでもあるでしょう。しかし、それが救いというものなのではない。私共がイエス様によって救われたということは、この終末における裁きの場において救われる者となったということなのです。でもそれは、救われる者になったのだからどんな生き方をしても良いのだ、大丈夫なのだ。そんなことではないのです。救われた者は、悔い改める者として生きるということです。良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれるのです。麦は倉に入れられ、殻は消えることのない火で焼き払われるのです。だから悔い改めなければならないのです。
5.ヨハネの洗礼とイエス様の洗礼
ヨハネの告げた言葉は激烈なものでした。しかし、彼は嘘は一つも言っておりません。彼は、イエス様の前に遣わされた者であり、イエス様による救いを指し示していたのです。この激烈なヨハネの言葉とイエス様の福音はどういう関係になるのでしょうか。
11節でヨハネはこう告げます。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」ここでヨハネは、自分の授けている洗礼と、自分の後から来る方、即ちイエス様によって授けられる洗礼との違いを語ります。ヨハネは、自分が授けている洗礼は「水による洗礼」だ、しかしイエス様の授ける洗礼は「聖霊と火による洗礼」だと言うのです。ヨハネの洗礼は罪を告白して受けるもので、神殿で動物などの犠牲を献げる儀式を行えば良いというものではありませんでした。ここにヨハネの信仰覚醒運動としての意味がありました。儀式を行えば良いというのではなくて、自らの罪を自覚し、罪人として神様の御前に立って罪の赦しを求める。それを抜きにヨハネは洗礼を授けなかった。しかし、この洗礼さえも一つの儀式としか受け取らず、悔い改めるということが分からなかったのがファリサイ派の人々であり、サドカイ派の人々だったのです。ここに、ヨハネの怒りが炸裂したのでしょう。しかし、彼の洗礼はあくまでも水によるものでした。罪を水で洗い流すという意味だったと思います。しかし、これでは根本的に人が新しくなるということは起きないのです。
イエス様の洗礼は、今までの罪を神様の赦しに与って洗い流すというだけではなくて、その人を新しい人に造り替えるというものなのです。それが「聖霊と火」による洗礼ということの意味です。私共の洗礼は、自らの罪を言い表し、悔い改めて受ける、そこまではヨハネの洗礼と同じです。しかし、その後が違うのです。イエス様の与えられた洗礼は、「父と子と聖霊の名によって」授けられます。これは、洗礼によってイエス様と結ばれる、イエス様を着る者になるということを意味します。神様の子、神様の僕となり、父・子・聖霊なる神様との親しい交わりの中に生きる者になるということです。神の子として新しく生まれ変わるのです。神様の火、罪を焼き滅ぼす聖なる火が私共の罪を燃やして、新しい者に生まれ変わらせてくださるということなのです。聖霊なる神様が私共の内に宿り、御国に向かう私共の歩みを導いてくださるのです。それが、私共がイエス様の洗礼に与って起きることなのです。
6.聖霊と火による洗礼
このように申しますと、自分は本当に聖霊と火による洗礼を受けたのだろうかと不安になる人もいるかもしれません。何故なら、私共は今も罪を犯しているからです。確かに、私共は完全な者にはなっていません。完全に御心に適う歩みを日々しているわけではない。そんなことは今更言うまでもないでしょう。私共が完全に御心に適う者になるのは、終末において復活の恵みに与り、キリストに似た者に変えられる時です。それまでは、私共は不完全な者でしかないのです。しかし、それは私共が聖霊と火による洗礼を受けたことを否定するものではないのです。
私共が神様の子とされ、神様との親しい交わりの中に生きる者とされた。これは紛れもない事実です。だから私共は、天地の造り主に向かって「父よ」と言って祈ることが許されています。そして、そのように祈るということは、私共に神様の独り子であるイエス様の霊、聖霊が与えられている確かな証拠なのです。神様の独り子である聖霊が与えられたから、私共は神様に対して「父よ」と呼ぶことが許されているのです。そしてまた私共は、自らの罪を知り、これと戦う者となっているはずです。洗礼を受けるまでは、何が罪であるのかも知りませんでした。何が神様の御心を悲しませるのかも知りませんでした。しかし今は、自分の思うことが、自分の言ってしまったことが、自分の為してしまったことが、罪であることを知っている。いつもその罪に打ち勝つわけではないかもしれません。「あっ!やってしまった。」「あっ!言ってしまった。」そういうこともあるでしょう。しかし、そこで私共は神様に赦しを求めるのではないですか。これは小さいことでしょうか。私共にとって一番大切なことは、神様に仕え、人に仕え、神様を愛し、人を愛して生きていくことだと知っている。そのような者として生きていきたい。そう思わない人はここに一人もいないでしょう。みんなそう思っている。これは小さいことでしょうか。
これら一つ一つが、私共が受けた洗礼が水による洗礼ではなく、聖霊と火による洗礼であることの確かなしるしなのです。もちろん、これで良い、これで十分だ、そんなことはありません。ですから、私共は悔い改めつつ御国に向かって歩むのです。この聖霊と火による洗礼を受けた者としての歩みと最も遠いところにある歩みは、自らの罪を悔い改めることなく、自らの罪の上に胡座をかいて平気でいるということです。神様の御前に裁かれる者としてある自分を忘れて生きるということです。
7.洗礼を受けた者として聖餐に与る
私共は今から聖餐に与ります。この聖餐に与るたびに、私共は自分が洗礼を受けた者であることを思い起こすのです。そして、私のためにイエス様が何をしてくださったのかを思い起こす。私のために、私に代わって、切り倒されて火に投げ込まれたイエス様。終末における私共の裁きを、私共に代わって、私共のために、十字架の上でお受けになったイエス様。それを思い起こす。そして、この方によって自分があるということを思い起こすのです。自分が何を求め、どこに向かって生きている者であるかを思い起こすのです。その時、私共は悔い改めないではいられない。「主よ、憐れみ給え。主よ、赦し給え。」と祈らないではいられない。このように悔い改めつつ御国に向かって歩むようにと、聖霊と火による洗礼によって私共を造り変えてくださったのです。まことにありがたい。この恵みの中を、感謝と賛美をもってこの一週も歩んでまいりたいと心から願うのです。
[2016年2月7日]
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