1.「結び 一」について
今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書の最後の所、「結び 一」と小見出しが付いた、イエス様の復活を記している所です。先週、私共はクリスマス記念礼拝を守り、イエス様の誕生を喜び祝ったわけです。そして、今朝この復活の場面。あまりに中を飛ばして、あまりに早すぎるのではないかと思われる方もおられるかもしれません。実は、私共はずっと、マルコによる福音書を連続して読み進めてまいりました。そして、前回御言葉を受けたのがマルコによる福音書16章1~8節でした。前回と言いましても、もう一ヶ月以上前、11月15日のことでした。それからアドベントがあり、その間はイザヤ書から御言葉を受けてきましたので、もう忘れてしまったという人もいるかもしれません。その前回にも申し上げましたように、元々のマルコによる福音書は16章8節で終わっていた。しかし、復活のイエス様と出会うこと無しに終わるというのでは、何とも心許ない、釈然としない。そう考えた後代の人が9節以下を加えたと考えられています。「結び 一」「結び 二」は、そのように後から書き加えられたものなのです。
ですから、マルコによる福音書から御言葉を受けるのは16章の8節までで終わり。そういうあり方もあるでしょう。実際、マルコによる福音書の連続講解説教を16章8節までで終える人もおります。しかし、後代の加筆と言っても、何百年も後ではありません。マルコによる福音書が書かれてからおよそ4、50年後のこと、紀元100年頃だと考えられます。私は、この部分も大切な御言葉として聞き取ることが出来ると考えています。何故なら、加筆と言っても誰かが勝手に書き加えたというようなことではなく、9~11節は、マタイによる福音書そしてヨハネによる福音書に記されている、イエス様の復活の場面を要約したものですし、12~13節は、ルカによる福音書のイエス様の復活の場面を要約したものになっているからです。多分この結びの部分は、マルコによる福音書よりも後に記されたマタイ、ルカ、ヨハネの各福音書が書かれた後で書き加えられたのだろうと考えられるわけです。
マルコによる福音書には、元々は、復活されたイエス様と弟子たちの出会いの話はなかった。8節の「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」で終わっていた。そういうことなのだと思います。しかしそれは、マルコによる福音書を記した人が、イエス様の復活の出来事などなかったと考えていたわけではありませんし、イエス様の復活などどうでも良いと考えていたわけでもないのです。前回も申しましたが、イエス様の復活は大前提なのです。復活がなければ救いもなくなってしまいますし、教会は何を伝えてきたのか、その根本がなくなってしまいます。マルコは、イエス様は素敵な人だったと言いたかったのではないのです。マルコによる福音書の冒頭の言葉を思い起こしてみてください。マルコは、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と言って書き始めたのです。神の子です。イエス様が神の子である。それは何よりも復活によって明らかにされたことです。その復活された神の子であるイエス様はこの地上の歩みにおいて何を語り、何をなさったのか。そのことをマルコは記したのです。だから、大前提である復活については記す必要がないと考えたのでしょう。しかし、その後に記されたマタイによる福音書やルカによる福音書、ヨハネによる福音書は、イエス様の復活の記事があって終わっていますので、やはりマルコによる福音書も復活の出来事を記して終わりにしようと、後代の人が考えたということなのでしょう。
2.イエス様の復活を聞いても信じなかった
さて、9~11節は、マタイによる福音書とヨハネによる福音書に記されていることの要約だと申しました。ここには、マグダラのマリアが復活されたイエス様に最初に出会ったこと、そして、マリアはそのことを知らせたけれどみんな信じなかったことを記しています。また、12~13節は、ルカによる福音書にある、エマオ途上において二人の弟子がイエス様と出会った時のことが要約されています。そして、この二人も他の弟子たちに知らせたが、みんなはそれを信じなかったと記されています。
確かに、マタイやヨハネやルカによるイエス様の復活の記事が要約して記されているのですけれど、マタイやヨハネやルカが記していない言葉がここで繰り返し告げられ、強調されています。それは、「信じなかった」という言葉です。マタイによる福音書やヨハネによる福音書において、復活のイエス様に最初に出会ったのは確かにマグダラのマリアでした。そしてマリアは、復活されたイエス様に出会ったことを他の弟子たちに知らせました。そこまでは記してある。しかし、弟子たちがそれを信じなかったとまでは記されていないのです。ルカによる福音書でも同じです。エマオ途上において二人の弟子が復活のイエス様と出会う。道々話をしたけれども、その時はイエス様だとは分からなかった。しかし、一緒に食事をしているとそれがイエス様だと分かった。そして、それを弟子たちに知らせに行くと、十一人の弟子たちも「本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。」と記されている。弟子たちが二人の言うことを信じなかったとは記されていないのです。しかし、マルコによる福音書は、「信じなかった」という言葉を繰り返すのです。次の週に見ることになる14節以下の所でも、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」と記されています。マルコによる福音書のこの結びの所を記した人は、他の三つの福音書を参考にしながらも、弟子たちがイエス様の復活の報告を聞いても信じなかった、そのことをはっきりと記そうとしたのです。何故でしょうか。どうしてこのような否定的なことを強調しようとしたのでしょうか。「弟子たちは彼らの言葉を聞いて信じた。」と記した方が、ずっと積極的ですし、既にキリストの教会において尊敬され、重んじられていた弟子たちにとっても、都合が良かったはずです。でもそのようには記さなかった。何故でしょうか。
3.復活のイエス様に出会わなければ、信じることは出来ない
二つの理由が考えられると思います。一つは、本当にそうであったということです。弟子たちは本当に信じられなかった。だから、その通り記したということです。それは、イエス様の復活という出来事は、人の話を聞いて、「ハイそうですか」と信じられるようなことではないからです。マタイやルカそしてヨハネが記した福音書においても、イエス様の復活を信じた人は、復活したイエス様に出会った人なのです。イエス様が復活されたという話を「聞いて信じた」ということはどこにも記されていないのです。
イエス様の復活という出来事は、本当に復活したイエス様に出会うということ無しに信じることなど出来るものではないのです。私共の中で、主の日の礼拝に初めて来て、イエス様が復活されて今も生きて働いておられるという説教を聞いて、すぐに信じることが出来た人がいるでしょうか。最初は、「この人たちは一体何を信じているのか。死んだ者が復活するはずがないではないか。そんなことを本気で信じているとするなら頭がおかしいのではないか。」そう思ったのではないでしょうか。私はそう思いました。とても信じられなかった。死んだ者が復活するということを信じている人が居るということ自体信じられなかった。しかし、この礼拝に集い続ける中で、イエス様というお方について少しずつ知り、そしてイエス様が本当に今も生きて働いてくださっているということを知らされる出来事に出会い、復活の信仰を与えられたのです。人それぞれ、復活のイエス様との出会い方は違うでしょう。しかし、本当にイエス様は生きて働いてくださっていると知らされるということが起きなければ、復活を信じるなどということにはならない。それが、キリストの教会において二千年の間共有されてきたことなのです。イエス様の復活という出来事は、確かにキリスト教信仰の中心にある教理です。しかし、これを信じるということは、キリスト教の教えなのだからとにかく信じるのだ、ということではないのです。そんなことでは信じられない。それがイエス様の復活という出来事なのです。この信じることの出来るはずがない出来事を、復活のイエス様が一人一人に出会ってくださることによって、信じることが出来るようにしてくださる。信じない者、信じられない者が信じる者に変えられるのです。マルコによる福音書の結びを記した人は、このキリスト教信仰における当たり前のことを記した、そういうことなのだと思います。
今朝与えられております二つの復活の話において、イエス様の復活の知らせを受けた者、つまり聞いても信じなかった者が十一人の弟子たちであるとは記されておりません。10節「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。」とあり、13節「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」とあります。「イエスと一緒にいた人々」、「残りの人たち」と言われているだけです。それは、敢えてそう記したのでしょう。イエス様の復活の知らせを受けたのは、十一人の弟子たちだけではなかったからです。そして、何よりも「イエス様と一緒にいた人たちはみんな、イエス様の復活の報告を受けても信じられなかったのだ。それが本当のことなのだ。イエス様の復活とはそういうことなのだ。」このマルコによる福音書の「結び 一」を記した人は、そう言いたかったのです。
4.信じられない者への招き
この「信じなかった」と言われた人々は、そのままずっと信じなかったわけではありません。そのことも自明のことでしょう。何故なら、これらの人々によってイエス様の復活とイエス様の福音は宣べ伝えられてきたからです。もし、弟子たちがイエス様の復活を信じられないままであったならば、イエス様の復活の出来事が伝えられたはずありませんし、イエス様の復活によって明らかになった「イエス様は神の子です」という信仰が私共にまで伝えられてきているはずがないのです。つまり、この信じなかった人々が信じる者とされて、このマルコによる福音書に記されているようなイエス様の言葉と業とが伝えられてきたのです。イエス様の復活の知らせを聞いても信じなかった人々。その人々が、やがて信じる者に変えられることによって、イエス様の福音は宣べ伝えられてきたのです。もっと言えば、このマルコによる福音書を記した人も、この福音書を保持してきた教会の人々も、一人の例外もなく信じられない人であったのであり、そして今は信じる者とされたのです。ですから、ここで「信じなかった」と繰り返し強調することによって、「今は信じられないかもしれない。しかし、何も心配することはない。私たちもそうだった。あなたも必ず信じる者へと変えられる。」そのような復活信仰への招きになっている。これが第二の理由なのです。
信じなかった者が信じる者へと変えられる。これが、マルコによる福音書の「結び 一」を記した人が見てきた、教会という所において起き続けていることだったのです。そしてそれは、ここを記した人自身の経験でもあったはずです。私も信じない者、信じられない者だった。しかし、今は信じる者とされている。それは、神様がイエス様との出会いを与え、イエス様が今も本当に生きて働いておられることを知らされたからだ。だから、あなたも信じる者になれる。そう招いたのでしょう。
私はこんな風に想像するのです。マグダラのマリアの話を、エマオ途上で復活のイエス様に出会った二人の話を、マルコによる福音書の「結び 一」を記したこの人も聞いたのではないか。マグダラのマリアもエマオ途上の二人も、何百回とあのイエス様の復活の日の出来事を語ったことでしょう。それを彼が聞いたとしても何の不思議もありません。しかし、たとえ彼が直接には聞いていなかったとしても、これらの話は教会の財産となり、マグダラのマリアやエマオ途上の二人の弟子たちが死んだ後も、ずっと語り伝えられ続けてきたはずです。教会にいれば、何度も何度も彼らが語った話を聞いたに違いないと思う。そして、これらの話を聞いた時、彼はすぐに信じることが出来たのではなかった。しかし、やがて信じる者とされたのです。この変化、この出来事が彼の上にも起きた。だからこの「結び 一」を記すことも出来たのでしょう。そして、この出来事こそが、復活のイエス様が生きて働いてくださっているという、確かな「しるし」なのです。この「結び 一」を記した人は、信じられない人から信じる人へと変えられた。復活のイエス様に出会った。だから、この福音書に触れる人にもその出来事が起きるようにと願い、信じ、今は信じられないでいる人々を招くためにこれを記したのです。
5.教会において
何故、教会は「キリストの体」と言われるのか。それは、ここにキリストが、復活のイエス様がおられるからです。マルコによる福音書を記した人は、この「結び 一」を記した人も含めて、皆このキリストの体なる教会に連なり、主の日のたびごとに礼拝を守り、そこでキリストの体に与り、キリストの血に与り、キリストの言葉を受けてきた。そして、信じない者が信じる者に変えられるという、神の業を見てきたのです。
私共も同じです。主の日のたびごとにここでイエス様と出会い、イエス様を拝んでいる。そして、そこに信じない者が招かれ、その人たちが信じる者に変えられていくという出来事が起き続けているのです。先週のクリスマス記念礼拝において、一人の婦人が洗礼を受けられました。私共はそこで、明らかな神様の救いの御業を見たのです。まことに喜びに堪えません。また、先週のクリスマスの諸行事の中でも、何人もの方が初めてこの教会に来られました。久々に教会に集われたという方も何人もおられた。主はここで確かに生きて働いておられます。だから、教会も生きている。神様の救いの御業は、今も変わることなく進んでいるのです。私共は、その御業をしっかり見て、主をほめたたえ、主が生きておられることを新しく心に刻み、証しし続けていくのです。私共の2016年の新しい年が、そのような主の救いの御業をはっきり見させていただき、いよいよ主をほめたたえる者として歩んでいけることを、心から願い、祈るのであります。
[2015年12月27日]
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