1.イエス様を取り巻く人間の罪の諸相
イエス様の十字架への歩みから御言葉を受け続けています。イエス様と弟子たちが過越の食事をした所から始まる一日(聖書の一日は日没から始まります)、この一日は、日が昇り、総督ピラトの所に連れて行かれて、死刑の宣告がなされ、十字架に架けられて死に、墓に葬られるまで続くわけです。この一日の流れの中で、イエス様を取り巻く人々の様々な罪の有り様が明らかに記されています。そしてそれは、私共の罪の姿でもあります。
まず、ユダの裏切りが記されます。これはとても分かりやすいあり方です。イエス様を裏切って引き渡したわけですから、これは明らかです。積極的な罪と言って良いでしょう。私共は「ユダのようにはなりたくない。」そう思いますし、そしてまた、聖書も「ユダになってはいけない。」と告げています。当たり前のことです。何故ユダがイエス様を裏切ったのか、その本当のところは分かりません。ただ、ユダは十二弟子の一人としてイエス様に従ってきたけれど、どうもイエス様の有り様が、自分の思っていたメシアの姿と違う、そういうことがあったのだろうという想像は出来ます。「こんなはずではなかった」という思いです。これは私共が信仰の歩みを為していく中で必ず経験することでしょう。しかし、そこで「なお信じる」ということが私共には求められているのです。
次には、イエス様を捕らえて裁くという、大祭司、祭司長、長老、律法学者たちの姿があります。これもまた、積極的にイエス様に敵対するというあり方での罪です。自分たちの律法理解、信仰理解と相容れないイエス様を亡き者にしてしまおうという罪です。イエス様に従うのではなくて、自分の考え、自分の立場、利益を守ろうとする罪です。そのためにはイエス様を亡き者にさえしようとする。これも積極的な罪と言って良いかと思います。ここには、イエス様に出会う前の私共の姿が示されているとも言えます。
一方、積極的とは言えない、自分から求めてそうしているわけではない罪も示されています。ゲツセマネにおいてイエス様が祈られた時に、「目を覚まして祈っていなさい。」とイエス様に言われたのに眠りこけてしまった弟子たちの姿です。ここで弟子たちは、イエス様の言葉に逆らって、自分から進んで眠ってしまったわけではありません。弟子たちはきっと祈ったのだと思います。しかし、気が付いたら眠ってしまっていた。弱さによる罪と言っても良いでしょう。
それと同じように、弱さによって犯してしまった罪が、イエス様が捕らえられた時にイエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちの姿や、今朝与えられております、ペトロがイエス様を「知らない」と三度否認した姿に現れております。これらは、自分から進んで、積極的にイエス様を裏切ったのではありません。しかし、遭遇した状況の中で、我が身を守ろうとしてイエス様を裏切ってしまった。その意味では、消極的な罪と言っても良いでしょう。
2.イエス様によって露わにされる罪
私共が犯す罪には、積極的なものと消極的なものがあるのです。しかし、どちらの場合も、それはイエス様との関わりの中で明らかにされると言って良いでしょう。私共が、その根本において抱えている罪の問題は、イエス様との関わりにおいて明らかにされるのであって、イエス様抜きには分からないということなのだと思います。イエス様というお方は、まことの光であられますが、それは私共の罪の姿を露わに照らし出す、そういう光であるということなのでしょう。私共は、自分で自分の中を幾らのぞき込んでも、本当の罪の姿は中々明らかにならないのです。何故なら人は必ず言い逃れをしますし、自分の罪など決して認めたくないからです。それは、私共が良い人だとか悪い人だとか、正直だとか嘘つきだとか、そんなこととは全く関係ありません。私共が出会う罪の現実というものは、多くの場合、人と人との関わりの中においてでしょう。しかし、この人と人との関わりにおける罪というものは、どこかお互い様というところがある。お互い罪人ですから、100パーセントどちらかが悪いということはないのです。ですから、こちらも悪いかもしれないけれど、相手も悪い。そうであるならば、私共は相手の非を責めて、自分は被害者のように思う。必ずそうなります。傍から見て、どう見てもこっちが悪いという場合でさえ、「こんな私に誰がした」と開き直る。そういうものなのです。人は、自分の罪が分からない。たとえ分かったとしても、それを認めようとはしない。それが罪ある人間なのです。
だったらどうするのか。イエス様の御前に出る。一緒にイエス様の御前に立つ。それしかありません。私共はイエス様との関わりの中で、全く言い逃れが出来ない自らの罪を示され、それを認め、赦しを求めるということが初めて起きる。それが悔い改めです。これは聖霊なる神様によって引き起こされる奇跡と言って良いものですが、それが起きる。そして、それによって私共は新しく生まれ変わることが出来るのです。そこに私共の希望はあります。今朝与えられております、イエス様を三度否むという出来事は、ペトロという一人の人に起きた、悔い改めの出来事です。この悔い改めの出来事は、まことに普遍的な出来事でありますので、長いキリスト教の歴史において、多くのキリスト者が、このペトロの三度否みの出来事に自分自身の姿を重ねて読んできたのです。私共もそうです。ここに私がいる。そのようにしか、これを読むことは出来ないのでしょう。
3.ペトロの三度否み
さて、ゲツセマネにおいてイエス様が捕らえられた時、弟子たちは皆イエス様を見捨てて逃げました。そして、イエス様は大祭司の家に連れて行かれ、裁かれました。この時ペトロは、一度はイエス様を見捨て逃げたのですが、イエス様を捕らえた一団の後に付いて来たのでしょう。ペトロは大祭司の家の中庭に入りました。イエス様がどうなるのか、心配だったからでしょう。中庭には、イエス様を捕らえるために集められた大勢の人々もいたのではないでしょうか。夜のことですから、大勢の人に紛れてしまえば分からない。そんな算段がペトロにはあったのではないかと思います。
中庭には火が焚いてありました。3月末か4月の夜ですから、まだ寒い。多分、暖を取るための火が焚いてあったのでしょう。ペトロは火にあたりました。その火に照らされ、ペトロの顔が浮かび上がります。すると、大祭司の家の女中がペトロの顔をじっと見て、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言ったのです。ペトロは打ち消します。「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない。」これは、とっさに口から出た言葉だったでしょう。ごまかすための言葉です。「何言ってんの。わけ分からん。」といった、とぼけるつもりの言葉だったのではないかと思います。そして、ペトロが女中から離れるようにして、出口の方に移動したその時、鶏が鳴きました。女中はしつこくペトロを追ってきて、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です。」とまた言い出したのです。ペトロは再び打ち消しました。「何言ってんの。違うよ、違う。」そんなところだったと思います。そして、しばらくすると、その場にいた人々が言い出します。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」どうして、ペトロがガリラヤの者だと分かったのか。多分、ペトロの話す言葉にガリラヤ訛りがあったからでしょう。ペトロが否定すればするほど、話せば話すほど、ガリラヤ訛りが出て、ガリラヤの者であることが明らかになったのです。これに対してのペトロの言葉は、今までとは違います。今までは「何言ってんの。全く分からない。」という感じで、ごまかそうとする言い方でしたが、ここでは完全な否定をしたのです。71節「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた。」とあります。ここに「誓い始めた」とありますが、これは神様に誓ったのでしょう。「イエスのことなど知らない。これは本当だ。神様に誓って本当だ。」と言ったのです。更に、「呪いの言葉さえ口にしながら」というのは、「自分が言ったことが嘘ならば、神に呪われても良い。」ということだと思います。完全に、徹底的に、イエス様との関わりを否定したのです。彼は怖かったのでしょう。自分の周りは、全員がイエス様を捕らえた人たち。そこで自分がイエス様の仲間であることが分かれば、何をされるか分かったものではない。ペトロは怖かったのです。
この時のペトロのあり方を、誰も責めることは出来ないでしょう。自分が同じような立場に立てば、ペトロと同じように言ってしまうかもしれない。このような場で、「私はイエス様の弟子です。」と言える人がどれだけいるでしょうか。確かに、ペトロは弱かったのかもしれません。しかし、この弱さは私共の弱さでもあります。
4.慚愧の涙
ペトロが三度目に完全に徹底的にイエス様との関係を否認したその時、鶏が再び鳴きました。そして、この鶏の鳴き声と共に、ペトロはイエス様の言葉を思い出したのです。14章27節以下にある場面です。イエス様が弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく。」と言われた時、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と言ったのです。それに対して、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われました。ペトロは自分がイエス様に信用されていないと思ったのでしょう。そのイエス様の言葉に対して、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」そう言い切ったのです。ほんの数時間前のことです。ペトロは、鶏が鳴く声を聞いて、この時のイエス様の言葉を思い出したのです。イエス様はすべてを御存知だった。自分の情けないまでの弱さを御存知だった。ペトロはこの時、本当にイエス様の前に立ったのです。まことに言い逃れの出来ない罪人として、イエス様の前に立ったのです。それまでも、ペトロはイエス様と一緒でした。何度もイエス様にたしなめられたり、叱られたりしたことはありました。しかし、この時ほど、自らの罪を明らかにされるあり方で、言い逃れの出来ないあり方で、イエス様の前に立ったことはなかった。確かに、イエス様はこの時、ペトロの視界には入っていません。しかし、ペトロは確かにこの時、イエス様の前に立った。どうしようもない一人の罪人として立った。その時、彼は泣くしかなかった。これは、自らの弱さ、情けなさ、罪を思い知らされた者の慚愧の涙です。
もし、ペトロがこの時のことを他の弟子たちに話したら、彼らは何と言ったでしょう。「ペトロ、お前はイエス様の後について、大祭司の所まで行ったのか。大したものだ。俺は怖くて逃げたままだった。お前は悪くないよ。そんな場面なら、誰だってそうする。気にするな。」そんな風に言ったかもしれません。私共は、しばしばそう言って、人の罪を曖昧にしてしまうのです。それは自分自身に対してもです。しかし、そんな言葉は、この時のペトロには何の役にも立ちません。ペトロはこの時、人が何と言おうと、イエス様の御前に言い逃れの出来ない罪人として立ったのです。立たされてしまったのです。それをごまかすことは出来ませんでした。どうしてか。それは、イエス様が御存知だったからです。ペトロがイエス様を徹底的に知らないと言い、自分との関係を否定したというこのことを誰にも言わなかったとしても、イエス様は御存知だった。すべてを御存知であるイエス様の前に、ペトロは立った。否、立たされたのです。彼は泣くしかなかった。慚愧の涙を流すしかなかった。
5.悔い改めの涙
しかし、これは単なる自分の弱さ、情けなさ、罪を嘆く慚愧の涙では終わりませんでした。何故なら、復活されたイエス様は、ペトロと出会い、ペトロを再び弟子として召し出されたからです。ペトロは赦されたからです。ペトロの罪はイエス様の十字架によって裁かれ、完全な赦しを与えられたからです。
このペトロの三度否みの出来事は、初代教会以来、すべてのキリスト者が知ることとなりました。ペトロが語ったからでしょう。そしてペトロは、あの涙が、イエス様の赦しに預かることによって、慚愧の涙から悔い改めの涙へと変えられたことを告げていったのだと思うのです。ペトロがイエス様を三度知らないと言った時、ペトロはまだイエス様の十字架を見ていませんし、復活のイエス様にも出会っていません。しかし、このことをペトロが人々に話しをした時、ペトロは既にイエス様の十字架も復活も知った者として語りました。ですから、この時のペトロの涙は、これをペトロが人に話した時、単に自分の不甲斐なさを嘆く慚愧の涙ではなく、自らの罪を知らされ、イエス様との新しい交わり、罪の赦しを与えられる交わりに入れられる悔い改めの涙として語ったはずなのです。ただの慚愧の涙なら、そこに救いはありません。慚愧の涙は、自分に対しての嘆きの涙です。しかし、悔い改めの涙とはイエス様の御前、神様の御前における涙なのです。この慚愧の涙を流す者を、その弱さと罪の一切をも含めて赦し給うお方がおられる。このお方の前で流す涙は、悔い改めの涙となり、新しい人間の誕生を告げるものとなるのです。
悔い改めとは、自らの罪を全く言い逃れ出来ないものとして神様の御前に認め、赦しを求めることでありますが、これは、赦される、救われるということと同時に起きることなのです。私共は、まず悔い改めて、それから罪の赦しを与えられるという様に考えるかもしれません。確かに事柄の順番としてはそういうことなのでしょう。しかし、私共の救いの体験に照らし合わせますと、必ずしもそういう順番で起きているのではないことが分かります。悔い改めるということと、イエス様に赦され、救われるということは同時に起きる。そういうことではないかと思います。何故なら、赦されていることを知らない者は、決して自らの罪を認めることは出来ないからです。イエス様による一切の罪の赦しを知らされることによって、初めて私共は自らの罪を一切言い訳することなく認め、赦しを求め、感涙する。ペトロがこの時涙を流したのは、イエス様がすべてを御存知であったということ思い起こしたからでしょう。自分がイエス様によって赦され、愛されていることを知って、私共は自らの罪を認め、赦しを求めた。そして、救われたのです。ですから、この涙は嘆きの涙を超えた、悔い改めの涙なのです。
ペトロは確かに、この後で復活のイエス様に出会って、全き赦しに与ったことを知りました。しかしこの三度否みの時、数時間前のイエス様の言葉をペトロが思い出した時、ペトロは既にイエス様がこのような自分の弱さ、情けなさを完全に知っておられた。しかもその上で、自分を弟子とし、自分のすべてを赦し、すべてを受け入れてくださっていたということを知ったはずなのです。そして、この出来事の後で与えられた復活されたイエス様との出会いは、ペトロにとって完全な赦し、決して自分を見捨てることのない、イエス様の愛の揺るぎなさを示すものとなりました。これによって与えられたイエス様との交わりこそ、私共に与えられている救いなのです。
たとえ世のすべての人が私を見捨てたとしても、自分自身さえ自分を許せなくても、それでもなお赦し、愛してくださるお方がいる。そのお方が今朝も私共に語りかけるのです。「我が子よ、我が内に生きよ。我と共に生きよ。悔い改めて我が福音を信ぜよ。」私共は、この御声を聞く者として、自らの罪と決別し、イエス様をいよいよ愛し、信頼し、従う者として、歩んでまいりたいと願うものです。
[2015年8月30日]
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