富山鹿島町教会

伝道開始記念礼拝説教

「愛のしるしとしての贈り物」
エズラ記 1章1~6節
フィリピの信徒への手紙 4章15~20節

小堀 康彦牧師

1.トマス・ウィン、長尾巻、林清吉
 私共は今朝、伝道開始134年の記念礼拝を守っております。今から134年前の1881年(明治14年)8月13日~15日、金沢教会を設立したトマス・ウィン宣教師一行が富山で伝道集会を開きました。それが私共の教会の伝道開始の時であり、この富山の地にキリストの福音が初めて伝えられた時でありました。そして、その二年後、1883年(明治16年)に長尾巻によって富山伝道が開始され、翌1884年に「惣曲輪講義所」が開設されました。そこに伝道者として遣わされたのが、長尾巻でありました。その意味では、長尾巻が私共の教会の初代伝道者と言って良いでしょう。
 私共は、この長尾巻という伝道者の名前をしっかり覚えておきたいと思うのです。北陸学院の関係もあって、トマス・ウィンの名は皆が知っています。しかし、長尾巻の名は、古い信徒の方でも一部の方しか知らないのではないでしょうか。この長尾巻という伝道者は、1882年(明治15年)にトマス・ウィンから洗礼を受けました。実にその二年後には、この富山の地で伝道者として立っているのです。准允を受けて正式に伝道者となるのは更にその二年後です。ですから、長尾巻が富山での伝道を行ったのは、今で言えば神学生の時であったと言って良いでありましょう。その後、長尾巻は現在の小松教会、金沢元町教会の初代の伝道者として遣わされました。今は残っておりませんが、大聖寺での開拓伝道も行っています。彼の北陸での伝道はいつも開拓伝道でしたから、それはそれは厳しいものでした。大聖寺においては、食べ物を売ってくれないということもあったそうです。長尾巻は、トマス・ウィンの北陸における伝道を助け、共に歩んだのです。その後、長尾巻は豊橋で伝道します。この時、後に大変有名になる賀川豊彦という伝道者が結核を患っていたのを牧師館の二階に預かり、親身の介抱をいたします。賀川は不思議なように癒やされ、後に「自分に最も深い影響を与えた伝道者は長尾巻である。」と述べています。
 二年後、惣曲輪講義所の伝道者は長尾巻から林清吉に代わります。この林清吉という伝道者もまた、北陸における伝道において忘れることの出来ない伝道者です。彼は、1879年(明治12年)に金沢にトマス・ウィンと一緒にやって来ます。まだ明治学院神学部の学生でしたが、英語がよく出来、出身が敦賀ということもあり、トマス・ウィンを助けるために同行したのだと思います。1881年のトマス・ウィン一行による北陸一円の伝道旅行、これが富山での初めてのキリスト教伝道集会となったわけですが、この時にも同行しております。一時東京に戻りますが、再び北陸に来て、長尾巻と共に北陸伝道に仕えたのです。彼はその後、福井宝永教会の開拓伝道にも従事しました。
 トマス・ウィン、長尾巻、林清吉。この三人が私共の教会の出発時に労苦を共にした伝道者でありました。そしてこの三人は、丁度パウロとテモテとシラスのように、心を一つにして、共に北陸伝道に仕えたのです。富山での伝道だけを考えるなどということは、三人の頭にはありませんでした。北陸伝道、そして日本伝道、更には世界伝道です。これが、私共の教会の伝道開始の時に伝道者たちの心にあった思いでありました。この思いの中で伝道開始が為されたということを忘れてはなりません。

2.日本基督一致教会から日本基督教会、そして日本基督教団
 さて、この三人の伝道者は皆、日本基督一致教会の伝道者でありました。この日本基督一致教会というのは、1877年(明治10年)にアメリカの長老教会と改革派の教会のが日本に送っておりました宣教師たちによって合同して出来たものです。一致というのは、長老派と改革派が一致したという意味です。これが1890年(明治23年)に日本基督教会と名前を変えます。今朝、私共は1890年の日本基督教会が出来た時に採択された信仰告白を用いて信仰告白いたします。いつもは日本基督教団信仰告白を用いているわけですが、この日本基督教団信仰告白が制定される前から私共はこの地で伝道しているのであり、1890年の信仰告白の上に日本基督教団信仰告白は乗っている、重ねられている。そのように理解しております。教会の歴史、信仰告白の伝統というものは、前のものを捨てて新しいものに変えるというようなことではないのです。教会というものは、キリストの命を受け継いでいるキリストの体です。このキリストの命は、イエス様の十字架・復活によって与えられたものであり、使徒以来今に至るまで、途切れることなく綿々と続いているのです。このキリストの命のつながり、信仰のつながり、それを示しているのが教会の歴史であり、信仰告白の連続性というものなのです。キリストの命が二千年の間、断絶することなく私共に繋がってきたように、信仰告白もまた断絶することなく連続し、途切れることなく繋がっているのです。

3.援助を受けて76年
 今、私共の教会の草創期の伝道者三名の名前を挙げました。トマス・ウィン、長尾巻、林清吉。彼らの伝道は困難を極めました。講義所時代が長く続き、伝道教会になったのは1912年(明治45年)です。伝道開始から約30年も経ってからでした。この時を私共の教会の教会創立と考えますと、今年で教会創立103年ということになります。その10年前に私共の教会は、在日プレスビテリアン宣教師教団、これはアメリカの長老教会が日本伝道のために作ったものですが、これから惣曲輪60番地の百坪をもらい受けます。この場所は総曲輪小学校の前であり、そこに教会堂を建てて伝道教会となったわけです。伝道教会というのは、教会にはなったけれどもまだ経済的に自立出来ない、そういう教会です。その頃私共の教会は日本基督教会の浪華中会に属しておりましたが、そこから援助を受けないと成り立っていかない教会だったのです。1941年(昭和16年)に日本基督教団が成立すると、翌年にこれに加わり「日本基督教団富山総曲輪教会」となって現在に至るわけですが、この時まで、私共の教会は残念ながらずっと伝道教会のままでした。独立教会になれなかったのです。つまり、日本基督教会の時代ずっと援助を受け続けていたということなのです。
 そして、1945年(昭和20年)敗戦の年を迎えます。8月2日未明に富山大空襲があり、私共の教会も焼失いたしました。それからしばらくの間、私共の教会は、焼けることがなかった富山新庄教会と共に、或いは富山二番町教会と一緒に、礼拝を守っておりました。1947年(昭和22年)に二番町教会は米軍のかまぼこ形の兵舎を譲り受け、そこで礼拝を守ります。私共の教会は二番町教会とそこで合同で礼拝をし、「日本基督教団富山教会」と称しておりました。法的手続きはしておりませんでしたが、一緒に礼拝しているのだから一つの教会で良い、日本基督教団富山教会で良い。そんな感じではなかったかと思います。しかし、戦後5年して1950年(昭和25年)に、総曲輪教会は会堂の焼け跡の所に会堂を再建することを決めて、教団に教会堂復興建築費補助申請を行いました。この辺が少しややこしいのですが、新会堂は二番町教会へ、そして二番町のかまぼこ形の会堂は総曲輪教会に移築するということになりました。そういう流れの中で、二番町教会と総曲輪教会は、一緒に礼拝をして富山教会と称していたのですけれど、合併の手続きをしていませんでしたので、合併するかしないかを教会総会で決めなければなりません。1952年(昭和27年)7月に教会総会が開かれ、合併しないということが決議されたのです。私共の教会にとって、後々語りぐさとなる伝説の総会です。出席者7名、合併賛成3名、反対4名でした。この時代、私共の教会をお世話してくださっていたのが亀谷先生でした。
 同年8月10日、日本基督教団富山総曲輪教会伝道再開第一回礼拝が移築されたかまぼこ形の会堂で行われました。出席者12名。会堂が焼失してから実に7年後のことでした。この時、経済的な現実的なところから判断をすれば、合併するということが合理的だったのだと思います。総会出席7名、伝道再開の第一回礼拝でも12名しか出席者が居ないのです。これでどうしててやっていくのか。どうやって牧師を招くことが出来るのか。そう考えるのが普通でしょう。しかし、経済的なことよりも教会には大切なことがある。それはイエス様の命を受け継いできた伝統でありました。あの時私共の教会は、トマス・ウィン、長尾巻、林清吉によって伝えられた福音の筋道、救いの筋道を、経済問題よりも大切にしたのです。
 1954年(昭和29年)鷲山林蔵牧師が戦後初めての選任の伝道者として赴任してこられました。4年半ほど在任されて日本橋教会へ転任されましたが、この間の歩みは全く開拓伝道と同じと言って良い状況でありました。鷲山先生はその状況の中で、長老教会として教会形成を志しました。しかし、経済状態はやはり厳しいものでした。中部教区は1953年(昭和30年)から「教会互助献金運動」というものを始めるのですが、1954年の援助教会は3つ、1955年は5つ、1956年は5つ、1957年は6つでした。そして、ずっとこの援助を受け続けてきた教会の内の一つが富山総曲輪教会でした。しかし、1958年、ついに援助を受けないで自立することになりました。そして、その年の10月に鷲山先生は日本橋教会へ転任され、山倉芳治牧師が着任されます。この山倉先生の時から、私共の教会はやっと自立した教会としての歩みを始めたわけです。
 しかし、1881年の伝道開始から1957年まで76年間、134年の歩みの実に半分以上の年月を、私共の教会は援助を受けながら歩んできたのです。自立してからまだ58年しか経っていません。私は、この伝道開始記念礼拝を行う度に心に刻まなければならないことは二つあるといつも思っています。一つは、日本基督一致教会以来の伝統を思い起こすこと。もう一つは、海外の教会を含め多くの教会からの援助を受け続けてきたことを思い起こすということです。

4.日本基督一致教会以来の伝統
 私共の教会における日本基督一致教会以来の伝統とは、改革・長老教会としての伝統です。私共は、そのことをきちんと受け継ぐために北陸連合長老会を形成し、全国連合長老会に連なっているのです。この伝統において大切なことは言い出せばキリがないほどあるわけですが、何よりもそれは「救いとは何か」「福音とは何か」「どのようにして与えられるものなのか」という、救いの筋道、救いの教理というものであります。教会はそれぞれこの伝統に基づいて洗礼を授け、聖餐を守っているのです。これを曖昧にしたり、どうでもよいことにすることは出来ません。この救いの筋道こそ、キリストの命に与る筋道だからです。ここに私共の教会の立ち所があるからです。私共は今朝、聖餐に与ります。このキリストの命に与る筋道こそ、伝統そのものなのです。そしてもう一つは、自分の教会だけで完結しないということです。地域長老会、これをプレスビテリーと言いますが、この地域長老会を形成して、そこにある諸教会と共にその地域の伝道の使命を果たしていくということです。それは、トマス・ウィンが金沢教会を設立するとすぐその年に北陸一円に伝道旅行をしたことからもうかがえます。そこで伝道開始された教会が、私共の教会であり、高岡教会であり、小松教会なのです。
 そしてそれは、経済的な面においても連動していることなのです。献金をどう用いるのか。それは私共の教会とは何かという、優れて神学的・信仰的問題と結び付いているのです。私共の教会は能登半島地震の時、●●●万円の献金を献げました。この献金額は破格であったと思います。被災した教会のほとんどが北陸連合長老会の教会だったからです。また、東日本大震災の時も●●●万円ほどの献金を献げました。どうして他の教会のためにそんなに献金するのか。そう思われる方もおられるかもしれません。私共の教会だって必要なお金もあるし、将来のために備える必要があるのではないか。その通りであります。しかし、私共の教会はその出発から76年にわたって援助を受け続けた教会であることを忘れてはなりませんし、そもそも私共の教会の伝統は、自分の教会のことだけを考えるというあり方を拒否するものです。私共の教会は中部教区に、負担金●●●万円の他に教会互助献金を●●万円、毎年献げています。それも同じことなのです。

5.愛の贈り物としての献金
 今朝与えられております御言葉において、使徒パウロは15~16節「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして何度も物を送ってくれました。」と言っています。パウロの伝道旅行をフィリピの教会の人々は献金というあり方において支えたのです。それはパウロが自分たちに福音を伝えてくれたことへの感謝というだけではなかったでしょう。パウロの伝道を支えることによって、自分はパウロと一緒に出かけることは出来ないけれども、パウロを用いて為される神様の救いの業に参与していくということであったと思います。パウロを支えるということ以上に、神様に献げるということだったと思います。だから、パウロも、フィリピの教会の人々に対して卑屈になることはなかったのです。17~18節「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」と言われているのはそういうことでしょう。
 お金のやり取りというのは難しいものです。与える側と受け取る側、それぞれが罪を犯しやすいのです。与える側は、自分は「してやっているのだ」と傲慢になります。受ける側は「してもらっている」と思って卑屈になります。それはどちらも間違いでしょう。これは、このやり取りされているものが献金であるということが分からないから起きる問題です。献金というものは神様に献げられたものです。ですから献金は、もう私のものではないのです。神様のものなのです。ですから、献金はただ神様の御業にのみ用いられるものなのです。そして、その神様の御業とは、この富山の地における私共の教会の業だけでないことは明白です。パウロが「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」と言っているのは、そういうことなのです。まず、イエス様御自身が十字架の上でいけにえになられました。この神様の愛に応えるのが私共の献げ物です。愛の献げ物なのです。神様への愛、イエス様への愛、キリストの体である教会への愛、この地に住む人々への愛、まだ救われていない人々への愛、その愛が献げ物として神様に献げられるのです。そして、その愛のしるしとして、献金は神様の御業を行うのに必要としている人々の所に贈られるのです。それを受け取る人は、何よりも愛を受け取るのです。私共は愛のしるしとしての贈り物を受け続けてきました。だから今、愛のしるしとしての贈り物を贈ることが出来る幸いを思うのです。受ける者も贈る者も、キリストの愛にあって一つとされているのです。このキリストの愛にあって一つという恵みの事実の故に、私共は今、この富山の地に立つことが出来、神様の救いの御業にお仕えすることが許されているのです。まことにありがたいことです。

[2015年8月2日]

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