1.訪問聖餐
週報に記されていますように、8月6日、7日と訪問聖餐を予定しております。高齢になって礼拝に集えない方々を訪ね、共に聖餐に与ります。もっと回数を増やせれば良いのですが、今はイースターとクリスマスの時期、そして夏の、年3回、訪問聖餐を行っております。今回は9人の方々を訪ねます。その時に、皆さんに書いていただいた寄せ書きの文章をお読みします。目が悪くなり、お渡ししただけでは読むことが出来ない方もおられるので、そのようにしたいと思っています。共に聖餐に与り、イエス様の命に与り、イエス様と一つにされていることを心に刻むと共に、教会の交わりの中にあることを覚えていただくためです。訪問聖餐は、余程のことが無い限り、牧師が一人で訪ねて行うということはしません。必ず何人かの教会員の方が一緒に行きます。この訪問聖餐においては、その方の体調にもよりますが、讃美歌が歌われ、聖書が読まれ、短い説教も為されます。イメージとしては、この主の日の礼拝が出掛けて行くということです。ですから、訪問聖餐と言うより、訪問礼拝と言った方が正確なのかもしれません。しかし、その中心にあるのは、聖餐に与るということです。この訪問聖餐は、教会とは何なのか、キリスト者とは何者なのかということをはっきり示しています。それは、教会とは聖餐に与る者の共同体であるということであり、キリスト者とは聖餐に与る者だということです。これを礼拝に与る者の共同体、礼拝に与る者と言っても同じことでしょう。
2.キリストの命に与る礼拝
使徒たちの伝道によってキリストの教会が建てられた一番初めの頃、まだ新約聖書はなく、信仰告白の言葉も今のように整えられてはおりませんでした。この頃のことを使徒言行録は記しております。ペトロやパウロが伝道していく。そこにキリストを信じる群れが起こされていく。その時、新約聖書はありませんでした。新約聖書の中で最も古い文書はテサロニケの信徒への手紙一です。四つの福音書が記されたのはその後です。また、「イエスは主なり」との告白はあったでしょうが、信仰告白も現在のように整えられてはおりませんでした。しかし、そのような中にあっても洗礼と聖餐はありました。主の日の礼拝はありました。こう言っても良いでしょう。イエス様の御復活を覚えて主の日の礼拝を守るキリスト者の群れが、教会として形を整えていく中で新約聖書が記され、信仰告白が整えられていきました。実にキリストの教会は、主の日の礼拝をささげる群れとして、そして聖餐に与る群れとして生まれ、二千年の間歩み続けてきたのです。その間、おびただしい数のキリスト者が生まれ、そしてその地上の生涯を閉じてきました。おびただしい数のキリスト者が、主の日の礼拝を守りつつ地上の生涯を歩み続けたのです。この間、キリストの教会は変わることなく主の日の礼拝を守り、聖餐を守り続けてきました。それは、そこに命があるからです。キリストの命があるからです。そこでキリストの命に与るからです。
私共は今日もここに集い、主の日の礼拝をささげています。それは、ここに私共の命があるからです。キリストの命に与る。そこに私共の命があるのです。そのことが私には長い間分かりませんでした。日曜日は礼拝に行くものだ。そのくらいにしか思っておりませんでした。分からないなりに、毎週、主の日の礼拝を守っておりました。形から入るということも大切なことですので、それが間違いだったとは思いません。礼拝に命があるということは、礼拝を守り続ける中で分かることですから、それで良かったし、それしか無かったのだと思います。キリストの命に与る礼拝。そのことが本当に腑に落ちた時、「礼拝にはどうしても行かねばならん。」と思いました。義務でもなく、楽しいからというのでもなく、それは詩編の詩人が42編で「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」と歌った心と同じです。そして、私にそのことを教えてくれたきっかけは、聖餐というものが何であるか、そのことを知らされるということによってでした。
3.聖餐の制定
イエス様は十字架にお架かりになる前の日の夜、弟子たちといわゆる「最後の晩餐」をいたしました。どうも「最後の晩餐」と言うと、豪華な食卓を連想してしまいそうになりますが、そうではありません。イエス様と弟子たちは過越の食事をしたのです。この食事については先週お話ししましたので、今日は触れません。その席上で、イエス様は聖餐を制定されたのです。その場面が、今朝与えられた御言葉です。
22~24節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われたのです。「取りなさい。これはわたしの体である。」そして、杯を取り、弟子たちに渡して、言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
弟子たちはこの時、イエス様が言われていることがどういうことなのか、よく分かりませんでした。しかし、この食事の場面は忘れることの出来ない体験でした。イエス様は次の日に十字架にお架かりになったのです。弟子たちは皆逃げました。しかし、三日後にイエス様は復活され、逃げた弟子たちにその姿を現されました。そして、御自身が誰であるか、どうして十字架にお架かりになったのか、そのことをはっきり教えられたのです。それ以来、弟子たちはイエス様が復活された日曜日に集まり、聖餐を守るようになったのです。聖餐を守るたびごとに、イエス様は誰であり、私のために何をしてくださったのか、そしてそれ故、自分たちは何者であるのか、そのことを心に刻み続けたのです。この聖餐のたびごとに、生けるイエス様と出会って、自分に与えられている命を確認し、またその命に与り続けたのです。それがキリストの教会の始まりでした。
4.聖餐の意義(1)キリストと一つにされる
今朝は、この聖餐について、いくつかのことを改めて心に刻みたいと思います。
第一に、イエス様はパンを与えて「これはわたしの体」と言われました。「これはわたしの体のようなもの」とは言われませんでした。実に、この聖餐に与るということはキリストの体を食べるということであり、それはキリストと一つにされるということなのです。パンがキリストの体であるはずがないではないか。その通りです。パンはパンです。どこまでもパンです。しかし、聖霊がその場に臨み、私共に信仰が与えられ、私共が信仰を持ってこれに与る時、それは確かにキリストの体なのです。これは信仰の秘儀であり、聖霊による出来事です。キリストの体が私共の体の中に入り、私共の体はキリストの体と一つにされるのです。この罪に満ちた私が、キリストと一つにされるのです。キリストと一つにされるのですから、私共は肉体の死によっても滅びることはありません。私共の命がキリストの命に飲み込まれるのです。死んでも死なない者とされるのです。
また、罪の誘惑に打ち勝つ力をも与えられることになります。私共は弱く、愚かで、罪を犯します。しかし、イエス様は強く、賢く、罪を打ち破ってくださいます。私共は、この自分と一つになってくださるイエス様に依り頼めば良いのです。私共は、不信仰であるが故にイエス様に頼り切ることが出来ず、すぐに自分の力で何とかしようとします。そして、失敗します。しかし、私共はこの聖餐に与る度に、イエス様と一つにされている救いの事実、恵みの事実を示されます。そして、もう一度イエス様を信頼し切って歩んでみようと、歩み出すのです。何度でも何度でも、です。私共は、自分の心にささやいてくるサタンに向かって、こう言うことが出来るのですし、こう言うことが出来るのならば私共は確かにサタンの誘惑に打ち勝つことが出来るのです。「サタンよ、退け。私はイエス・キリストと一つにされた者だ。」この言葉を言うことが出来れば、私共は必ずサタンを退けることが出来ます。
5.聖餐の意義(2)契約の血
第二に、イエス様は杯を弟子たちに渡して、こう言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」この「多くの人」とは、「すべての人」という意味です。イエス様が使われていたアラム語においては、そのような意味で用いられていたのです。ですから、多くの人とは、どれくらい多くの人なのかと詮索するのは意味がありません。そして、この杯に入っているぶどう酒は、イエス様の血です。この血は、次の日に十字架の上で流されるイエス様の血と考えて良いでしょう。イエス様はここで、「これは、わたしの血」と言われました。これは、パンを「わたしの体である」と言われたのと同じように、この杯に与る者はイエス様と一つにされ、イエス様の命に与るということを意味しています。
と同時に、イエス様はここで「契約の血」と言われました。この契約の血とは、先程お読みいたしました出エジプト記24章8節に出てくる言葉です。これは、イスラエルの民が出エジプトの旅の途中、シナイ山において十戒を与えられ、神様と契約を結んだ場面です。この時、神様との和解の献げ物として雄牛がささげられました。そして、そのささげられた雄牛の血を、モーセはイスラエルの民に振りかけて、こう言ったのです。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」契約の血を振りかけられ、神様との契約が結ばれたのです。イエス様が「契約の血である」と言われた時、出エジプト記24章の、シナイ山でイスラエルが神様と契約を結ばれた時のことを重ね合わせて、この言葉を使われたに違いありません。つまり、次の日イエス様は十字架にお架かりになって、私共と神様との間に和解を与える契約の犠牲として、イエス様は十字架にお架かりになる。この杯に与るということは、この「イエス様の十字架による神様との和解の契約」に与るということなのだ。そういうことであります。十戒による古い契約に対して、イエス様の十字架によって結ばれる新しい契約です。もちろんこの食事は過越の食事でありますから、過越の出来事の時に犠牲となった小羊の血をも指し示しています。しかし、それだけではない、「契約の血」なのです。
私共は、洗礼によって神様と契約を結んだのではないか。その通りです。洗礼は私共と神様との契約式です。それに対して聖餐は、その契約の更新式とでも言うべきものなのです。聖餐のたびごとに、私共は洗礼において結ばれた神様との契約を更新するのです。もちろん、その契約の内容は変わりません。イエス様が十字架にお架かりになって、私のために、私に代わって、一切の罪の裁きを受けられたということ。それに基づいて、それを受け入れ、それを信じ、私共は神様との親しい交わりに生きるのです。
6.聖餐の意義(3)
第三に、この聖餐は、共にイエス様にと一つにされ、イエス様の命に与り、神様と契約を結んだ者の共同の食事であるということです。聖餐は独りで守るものではありません。神の民の共同の食事なのです。この食事に与る者は、キリストの体である教会、イエス様の命の共同体としての教会を形作るのです。一つの命に与り、一つの霊、聖霊に導かれて生きる者となるのです。共にキリストの一つの命に与る者の共同体は、愛の共同体となります。この聖餐の交わりは、神様の愛の極みとしてのイエス様の十字架によって結ばれる交わりなのですから、愛の交わりとならざるを得ないのです。それは、みんな仲良くしましょうと言って仲良くするような交わりではありません。その交わりの根本にイエス様の十字架があり、共に一つのキリストの命に与っており、御国という一つの目当てに向かって歩む共同体なのですから、そこにはキリストの愛が息づいているのです。このキリストの教会に息づく愛は、好き嫌いという感情や、同じ好みや趣味によって結ばれた者の間に生まれる自然の情としての愛ではありません。そのような自然の情としての愛は、民族や国家、人種、そして文化の違いというものを乗り越えることは出来ないでしょう。しかし、聖餐によって与えられるキリストの命による愛は、それらの目に見える地上における違いを乗り越えていきます。天地を造られた神様によって注がれる愛だからです。
今日、一人の姉妹が私共の群れに加わります。この姉妹と私共は、これから共に聖餐に与る者となります。同じキリストの命に与るのです。そこに与えられる交わりを大切にしていきたいと思うのです。
7.聖餐の意義(4)
第四に、イエス様は私共の弱さを御存知です。私共自身以上に御存知です。ですから、その弱い私共を支えるためにこの聖餐は制定されたのだと宗教改革者カルヴァンは言います。その通りだと思います。イエス様の十字架による罪の赦し、復活による永遠の命、神様の愛、それらは私共の目には見えません。ですから、私共の信仰はいつも揺らぐのです。神様の愛が分からなくなる。何も問題が無い時は良いのです。しかし、ひとたび苦しい状況に陥りますと、本当に神様は私を愛してくださり導いてくださっているのか、という思いが湧いてきます。出エジプトの旅の途中、イスラエルの民が何度もつぶやき、不平不満を漏らしたように、です。神様は、そのようなイスラエル民の信仰を支え、約束の地まで導くためにどうされたでしょうか。マナを与えられたのです。出エジプトの40年の旅の間、毎日毎日マナを与えられたのです。それによって、見えざる神様の養いの中にあることを教えられたのです。私共もそうなのです。見えない神様の愛をすぐに信じられなくなってしまう私共のために、イエス様は聖餐を制定されたのです。そして、私共に「ほら、ここにわたしの命がある。これがわたしの体。これを取って食べよ。これがわたしの血。これを飲め。わたしと一つになって生きよ。」そのように語りかけてくださるのです。
訪問聖餐を行いながら思わされることの一つは、この聖餐は論理や言葉を超えて、人間が最後まで持っている感覚に直接働きかけるということです。たとえ認知症になったとしても、パンを食べ、杯に与るとき、自分がキリスト者であるということがよみがえるのです。しかし、そこで大切なことは、元気な時、頭がしっかりしている時に、喜びと感謝を持って聖餐に与ったという経験です。それが深く豊かであればある程、聖餐は、私共がどのような状態になっても、私共にキリストの命の恵みを思い起こさせるのです。ですから、共々に聖餐を重んじ、これに与る幸いをしっかり心に刻みつつ歩んでまいりたいと思うのです。
[2015年7月19日]
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