富山鹿島町教会

礼拝説教

「裏切り」
サムエル記 下 15章7~12節
マルコによる福音書 14章10~21節

小堀 康彦牧師

1.過越の食事
 マルコによる福音書を共々に読み進めて参りましたが、遂にイエス様が十字架にお架かりになる日の出来事について記されているところに入ります。今朝与えられております御言葉、14章の12節に「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とありますが、ここから15章の終わりまで、イエス様が十字架に架けられて死んで墓に葬られるまでですが、これはすべて一日の内に起きたことです。聖書の一日は、日没に始まり次の日の日没までですから、マルコによる福音書では6ページほどを用いて、この一日の出来事が記されているわけです。
 イエス様が十字架にお架かりになったその日は、私共が「最後の晩餐」という言い方で慣れ親しんでおります、イエス様と弟子たちが最後の食事をしたところから始まります。この食事は「過越の食事」と呼ばれる、宗教的な意味が大変深い食事でした。何を食べるのか、どの順番で食べるのか、そこで何を語るのかということまで決まっている、特別な食事だったのです。「過越の小羊を屠る日」とありますように、この食事では小羊を食べることになっていて、その調理方法も決まっていました。この食事については、出エジプト記の12章43節以下に記されております。
 出エジプトの時、神様はイスラエルの民をエジプトから救い出そうとされますが、エジプト王ファラオはそれを許しません。モーセとファラオの交渉が為されますが、ファラオは大事な労働力であるイスラエルの民が出て行くことを許しませんでした。そこで、神様は十の災いをエジプトに与えます。それでもファラオが許さなかったので、遂に神様は過越の出来事をもってイスラエルの民をエジプトから去らせるようにされたのです。この過越の出来事とは、家畜を含めすべてのエジプトの家の初子を神様が撃って死なせるという、まことに凄惨な出来事で、こんなひどい目に遭うなら、イスラエルの民はとっとと出て行けということになって、やっとエジプトを出ることが出来たのです。そして、イスラエルの民は出エジプトの40年の旅を終え、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ってそこに定着し、やがて国を建てるということになったわけです。実にこの出エジプトの出来事は、イエス様の時代より一千年以上も前のことでした。
 つまり、イスラエルにとってこの過越の出来事は、民族の出発、民族の起源となる大変重要な出来事であり、それを覚えるための祭、それが過越祭でありました。この過越の出来事の時、神様はイスラエルの民に、小羊を屠ってその血を家の入り口の鴨居と柱に塗るように命じられました。羊の血が塗ってある家は神様の裁きが「過ぎ越し」ていったのです。だから、過越祭なのです。そして、イスラエルの民は、イエス様の時代まで一千年以上にわたって、この祭りをしてきたのです。
 過越の食事において小羊が屠られるのは、家の入り口の鴨居と柱に羊の血を塗ったことによって裁きが過ぎ越したことを覚えてのことでした。そして、羊の犠牲によって自分たちが神様の裁きを過ぎ越すことが出来たことを覚えるためでした。

2.分からなくても信じて
 この祭りのために、大勢のユダヤ人たちがエルサレムに集まってきておりました。そうしますと、過越の食事をする場所を確保するということが大問題だったのです。多くの場合エルサレムに来た人たちは、友人や親戚を頼り、その家の一部屋を借りて、この食事をしたのです。弟子たちがまず心配したのも、この場所のことでした。弟子たちがイエス様に、12節「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか。」と尋ねたのは、そういう意味です。
 それに対してイエス様は、13~15節「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」とお答えになりました。不思議な答え方です。「○○通りの誰々さんの家で過越の食事が出来るように話をしてある。」そういう言い方ではありませんでした。多分、このように言われた弟子たちは、これから何が起きるのか分からなかったと思います。「とりあえずエルサレムに行きなさい。行ったら水がめを運んでいる男に出会う。」と言われたのです。エルサレムのどの通りなのか、細かい指示は全く無く、ただ「水がめを運ぶ男と出会うから、その人について行って、その人が家に入ったら、その家の主人にこう言いなさい。」と言われたのです。過越の祭りの時なのですから、エルサレムは人でごった返していたでしょう。こんな指示だけで本当に大丈夫なのだろうか、と私などは考えてしまいます。当時は、水がめを運ぶのは女性の仕事でしたので、男の人が運んでいれば確かに目立つし、目印にはなったでしょう。でも、これだけで本当に上手くいくのかな、と私などは心配になってしまいます。せめて、エルサレムの何々門の前とか、何々通りくらいの指示がなければ、偶然に会うことが出来るなどということは無いだろう。そんな風にも思います。
 しかし、弟子たちはこの時、イエス様に言われたとおりにエルサレムに行き、無事、水がめを運ぶ男を見つけ、その人の後についていって家の主人に会い、イエス様の言われたとおりの言葉を告げると、二階の広間が用意されており、彼らは過越の食事の用意をそこに整えたのです。
 弟子たちはイエス様に言われた時、これから何がどうなるのか、見当もつかなかったと思います。しかし、イエス様は知っておられた。そして、イエス様の言われたとおりになったということです。そして、無事に過越の食事の用意を整えることが出来たのです。ここで大切なことは、イエス様の言葉に従うということです。私共には分からなくても、イエス様はすべてを御存知であり、すべて御存知の上で命じておられるのですから、安心して従えば良いのです。
 しかし、なかなかそうはいかない。自分にも見通しがあり、計画があり、目論見もある。イエス様の言うとおりと言っても、何の見通しもないのでは、とても従うことなど出来ない。そのような思いが私共の中にないでしょうか。この場合ですと、「エルサレムのどこの誰さんのところに行って用意すれば良いのですか。もうその人と話をつけてあるのならば、このように話をつけてあると、ちゃんと言ってください。」そうイエス様に対して言ってしまいそうです。自分には分からなくても、イエス様がすべてを御存知であり、すべてを備えてくださっている。このことが信じられないのです。しかし、信じなければ、イエス様の言葉を信頼して歩み出さなければ、何も起きないのです。信仰の証しは生まれないのです。

3.信じて従うことが出来なかった弟子
 聖書は、そのように信じることが出来なかった弟子のこともここで記しています。それがイスカリオテのユダです。ユダは、祭司長たちの所に行って、イエス様を引き渡すことを約束しました。どうして彼がそんなことをしたのか、理由は記されておりません。ヨハネによる福音書は、「サタンが彼の中に入った」(13章27節)と記し、ルカによる福音書も「サタンが入った」(22章3節)と記しています。マタイによる福音書はユダが「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と祭司長たちに語った(26章15節)と記して、お金のためであったことを暗に示しています。どうしてユダがイエス様を裏切ったのか、小説家はそこに興味を持つのでしょう。しかし、私共は、あまりそこにばかり想像力を働かせても意味が無いと思います。
 はっきりしていることは、ユダはイエス様に従うことをやめたということです。ユダの中に具体的にどのような思いがあったのかは分かりません。昔から何十という説明が為されてきました。でも、どれも憶測でしかありません。ヨハネやルカが語るように、「サタンが入った」というのが本当のところではないかと思います。日本語で言いますと、「魔が差した」ということになるでしょうか。いずれにせよはっきりしているのは、ユダはイエス様に従うことをやめたということです。イエス様に従うことをやめるということは、自分が主人になることです。イエス様の言葉や思いに従うのではなく、自分の思い、自分の考え、自分の見通し、自分の正義、自分の欲に従ったということです。
 マルコによる福音書はユダのことを、10節「十二人の一人イスカリオテのユダ」と言い、イエス様は自分を裏切る者を、20節「十二人のうちの一人で」と言っています。イスカリオテのユダは、イエス様が選んだ十二弟子の一人だったのです。ユダもイエス様の召し出しを受け、すべてを捨ててイエス様に従ってきたのです。それなのに、この時、イエス様に従うのをやめたのです。
 「ユダは特別に悪い人間であった。極悪人であった。とんでもない人間であった。」そのように聖書が記していたなら、私共は「自分とユダとは関係ない、自分はこんなに悪い人間ではない。大丈夫。」そう思えるでしょう。しかし、聖書はそのようには言っていないのです。18~19節「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」イエス様がこの食事の席で、自分を殺そうとしている者がいると告げると、弟子たちは「まさか私のことでは。」と代わる代わる言い始めたのです。つまり、「私ではないですよね。イエス様、お前ではないと言ってください。」と、弟子たちは皆イエス様に言ったというのです。これは、「自分ではない」と言い切る弟子はいなかったことを示しているのでしょう。ユダは裏切った。イエス様に従うことをやめた。しかし、その可能性はここにいた弟子たち全員にあったということなのです。イエス様に従うことをやめて、自分の思い、自分の考え、自分の計画で歩み出す。正しいのはイエス様ではなく、自分だ。そのように考え、行動する。その可能性は、イエスさまの弟子全員にある。そして私共も例外ではないのです。
 この時、ユダがイエス様を裏切るなどということは、他の弟子たちは誰も知りませんでした。だから、「まさか私のことでは」と口にしたのでしょう。しかし、イエス様は御存知でした。そして、このユダの裏切りによって、御自分が十字架に架けられて死ぬことも御存知でした。ですから、21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」と言われたのでしょう。
 だったら、どうしてそれを回避されなかったのでしょうか。ここで「わたしを裏切ろうとしているのはユダだ。」とイエス様が言えば、他の弟子たちがユダを取り押さえたでしょう。しかし、イエス様はそうはされませんでした。それは、ユダの裏切りによって十字架に架けられて死ぬのが、神様の御心であることを知っておられたからです。イエス様は神様に従い通されたのです。イエス様はすべてを知った上で、十字架への道を歩まれたのです。ここには、よく分からないけど信じて従った弟子の姿、従うことを辞めた弟子の姿、そして最後まで徹底的に従われたイエス様の姿が、並んで記されている。従うということを軸に三様のあり方が記されているのです。

4.ユダを嘆くイエス様
 さて、イエス様はここで、ユダに対してこう言われました。21節「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」この言葉はイエス様らしくない、ユダに対してあまりにも冷たいではないか、そう思われる方もいるかもしれません。しかし、イエス様はここで、ユダを突き放すようにしてこの言葉を語られたのではないのです。「その者は不幸だ」の「不幸だ」という言葉は、「ああ」という感嘆の言葉なのです。つまり、イエス様はユダに対して、「ああ、何ということか。」と嘆いておられるのです。イエス様は心を痛めておられるのです。
 イエス様に召され、イエス様に従う者になった。命の祝福を受け、神様の御用に仕える者となった。何という幸い。しかし、ユダは自らその神様の祝福を捨ててしまった。何ということか。これがどんなに不幸なことかは、イエス様にしか分かりませんでした。ユダはイエス様を裏切った後、首を吊って死んでしまいます。イエス様はそれを御存知だったのではないでしょうか。
 私共は確かに、誰でもユダになってしまう可能性があります。そして、そうなってしまうことを誰よりも悲しみ、嘆かれるのはイエス様なのです。イエス様の召し出し、御命令というものは、時として私共にはよく分からないことがあります。私が牧師の召命を受けた時も、私の家族にキリスト者は一人もおりませんでしたから、牧師になるということがどういうことなのか、さっぱり分かりませんでした。そして、まだ若かった私にはこの世的な望みも欲もあり、全く分からない、全く見通しの利かない牧師という道に進むことに対してためらいがあり、どうしても一歩を踏み出すことが出来ませんでした。すぐに神様からの召しとして受け取り、これに従うということはとても出来ませんでした。7年間逃げ続けました。聞かなかったことにして、イエス様に従わず、自分の思い、自分の願い、自分の欲を第一にしてしまったのです。その意味では、私はユダだったと言わざるを得ません。しかし、イエス様は私を見捨てることなく追い求め続け、遂に牧師への道へと進ませました。
 私共はユダになる可能性があるし、或いは既にユダであるのかもしれない。しかし、私共が何度でも悔い改めて、再びイエス様に従う者となるように、イエス様はいつも私共を導こうとしてくださっているのです。私共は、このイエス様の憐れみを信じて良いのです。そして、ユダになるということがどんなに不幸なことかを弁えなければなりません。それは、光を失い、希望を失い、生きる力を失い、そして滅びの道へと歩んでいくことになることなのです。

5.神様の御計画の通りに
 14章2節には、祭司長たちは過越の祭りの間はイエス様を殺さないでおこうと思っていたとあります。しかし、ユダからの申し出により、過越の祭りの時に殺すことになってしまったのです。これは彼らの計画になかったことでした。しかし、過越の祭りの時にイエス様が十字架に架けられる、それが神様の御心だったのです。何故なら、過越の出来事は、イエス様の十字架による救いの予徴だったからです。あの過越の出来事の時に、羊の血を塗った家は神様の裁きが過ぎ越して行ったように、イエス様の十字架の血に与る者は神様の裁きが過ぎ越し、救われることになるからです。イエス様は、過越の小羊のように、すべての人に罪の赦しを得させる神の小羊として、十字架にお架かりになるからです。
 人間の思いを超えた神様の御計画が、私共一人一人の上にもあるのです。私共にはそれは分かりません。しかし、イエス様の召しに従っていくならば、私共は自分の想像をはるかに超えた、恵みと祝福に与ることになるのです。そのまことに幸いな道を自ら捨ててはなりません。正しいのは私ではなく、神様であり、イエス様なのです。この神様の御言葉に従って、導きの御手を信じて、今為すべき務めに励みつつ歩んで参りましょう。必ず、道は拓かれていきます。

[2015年7月12日]

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