富山鹿島町教会

礼拝説教

「汚れた霊の叫び」
創世記 3章1~7節
マルコによる福音書 3章7~12節

小堀 康彦牧師

1.病床者の苦しみをも知っておられる主イエス
 ヘブライ人への手紙4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」とあります。私共を救うために、私共を神様に執りなしてくださるために、私共の一切の罪を担い、私共のために、私共に代わって十字架についてくださった主イエス・キリストは、私共が出会うすべての困難、試練、嘆き、痛み、悲しみ、苦しみを知っておられる方です。私共以上に、そのすべてを味わわれた方だからです。この方が私共と共にいてくださいます。ですから私共は、どのような状況の中でも、この方の御名によって祈ることが出来ますし、その祈りの中で、孤独ではないことを知るのです。私共は「誰も私の苦しみを分かってくれない。」そう思わされる時があるものです。痛みや苦しみや嘆きはその人だけのものですから、私共はその人の痛みも苦しみも嘆きも、本当の所で分かってあげることは出来ません。しかし、私共は分からなくても、主イエス・キリストは分かっておられます。すべてを御自分のこととして知り、私共に寄り添い、共に歩んでくださいます。私共はそのことを信じるが故に、病の中にある方を訪ねることが出来るし、その方の傍らで祈ることが出来るのです。病の床にある方の痛みも苦しみも、主イエス・キリストは御存知であり、この方と共にいてくださる。そのことを信じるが故に、私共は病室を訪ね、祈ることが出来なくなったその方に代わって、その方のために祈ることが出来るのです。「イエス様、あなたはこの方の痛みも苦しみも御自分のこととして知り、受け止め、このベッドの傍らに、この方の下に共にいてくださいます。どうか、この方のすべてを御手の中に抱き取ってくださり、慰めを、支えを、平安を与えてください。」そう祈ることが出来るのです。

2.孤独な主イエス
 今朝与えられている御言葉において、イエス様がどんなに孤独であられたか、誰にも理解されず、独りで悪魔の誘惑と戦われたかということが記されております。
先週見ましたように、安息日に会堂で片手の萎えた人を癒されたことがきっかけで、イエス様は、当時のユダヤ社会において大きな勢力を持っていた人たちから命を狙われることになってしまいました。3章6節に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とある通りです。イエス様は神の独り子として、天の父なる神様の御心を人々に伝え、苦しみの中にある人を癒し、神様の愛を言葉と力ある業とによって示されました。その結果、人々はイエス様を殺そうと相談し始めたのです。イエス様のことを誰も分からない、分かろうとしない。イエス様が語れば語るほど、奇跡を行えば行うほど、人々との間の溝が深くなっていく。イエス様は深い孤独を味わわれたに違いないと思います。
 そして、イエス様は弟子たちと一緒に町を離れ、ガリラヤ湖のほとりに来たのです。7節「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。」とあります。この「立ち去られた」と訳されております言葉は、「逃げ去った」「退却した」というニュアンスの言葉です。口語訳では、「退かれた」と訳しておりました。自分を殺そうとする人たちから身を隠すようにして町から出て、ガリラヤ湖のほとりに来たのです。

3.主イエスに迫る群衆
 すると、イエス様の一行を追うようにして、おびただしい群衆がついて来たのです。いったいどれくらいの人たちがついて来たのでしょう。人数については何も記されておりませんので分からないのですが、おびただしい群衆と言うのですから、数十人ということはないでしょう。少なくとも数百、あるいは千人という所ではなかったかと思います。当時の人口を考えれば、万という単位ではなかったでしょう。この群衆がどこから来た人たちだったかを、聖書は記しています。聖書の後ろにある地図の6を見ていただくと分かりますが、まずガリラヤ地方です。イエス様が奇跡を行ったり活動されていたのがこの地方ですから、この地方の人が来るのは分かります。次にユダヤ、エルサレムです。ガリラヤ湖から100km以上南に離れています。そして、エルサレムは主イエスを殺そうと相談を始めた人々の本拠地です。しかし、そこからも来たのです。更に南に下ってイドマヤです。そして、ヨルダン川の向こう側というのは、ヨルダン川の東側ということです。地図ではデカポリスと記されている辺りでしょう。そして、シドンやティルスです。これはガリラヤから西の方角に当たる、地中海のほとりにあるフェニキア人の町です。ですから、ここから来た人はギリシャ系の人、異邦人と考えて良いでしょう。電車も車もない時代に、100kmも150kmも離れた所から、東西南北あらゆる方面から、しかもユダヤ人以外の異邦人を含めたおびただしい人々が、イエス様のもとに来たのです。これは、主イエスの福音が全世界に広がっていくことを暗示していると読んで良いでしょう。
 問題は、彼らがどうしてそれ程遠い所から、歩いて何日もかけてイエス様のもとに来たのかということです。それはとても単純だったと思います。彼らは病気を癒して欲しかったのです。イエス様の為された数々の奇跡、特に癒やしの出来事を聞いて、彼らは集まって来たのです。このことによって聖書は、律法学者やファリサイ派の人々は主イエスに対して反感を持ち、殺そうと相談し始めたけれど、一般の大衆はイエス様を受け入れ、慕ったということを告げているのでしょうか。そうではないと思います。多くの人々が主イエスを頼って、何日もかけて主イエスのもとまで来た。それは本当です。しかし、彼らが主イエスに求めたのは、自分のあるいは家族の病気が癒されること、それだけだったのです。ここには、イエス様が来られた理由との間のズレがあります。このおびただしい群衆の熱気といいますか、必死さはものすごいものだったと思います。10節「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」とあります。イエス様が自分たちの目の前で癒やしの御業を為される。それを見た人たちは、ますますヒートアップしたに違いありません。イエス様はここでも多くの病人を癒された。けれど、癒やしても癒やしてもとても追い付かない。一人が癒され、二人が癒されれば、この群衆の熱気はいよいよヒートアップしたことでしょう。群衆は主イエスを押しつぶしてしまうほどの熱気と迫力で主イエスに迫りました。そして、遂にイエス様は、9節「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。」とあるように、群衆から少し離れたのです。距離をとったのです。
 主イエスの周りには、おびただしい群衆がものすごい熱気で群がっています。しかし、この時もイエス様は全く孤独でした。誰も主イエスが告げる神の国の福音を求めていなかったからです。イエス様はそんな群衆から離れた。彼らを拒否したのではありません。多くの病人を癒されたのですから、拒否してはいないのです。しかし、癒やしだけを求めて来るおびただしい群衆に対して、距離を置かざるを得なかったのです。しかし、それは彼らが神様に、イエス様に見捨てられたということを意味してはおりません。

3.神様が与える恵みとは
 それは今も同じだと思います。イエス様は、私共の人生のすべての問題、課題を必ず解決してくださいます。かといって、病気を治してほしい、仕事が欲しい、受験が上手くいくように、それだけを求めて来られても、教会は距離を置かざるを得ないでしょう。教会は病院でも、ハロー・ワークでも、進学塾でもないからです。主イエスによる癒やしや奇跡、神様による癒やしや奇跡を、私は素朴に信じています。しかし、神様はいつも、私共が求め願っている形に問題を解決してくれるとは限りません。多くの場合、神様は、私共が求め願っているあり方とは全く違うあり方で道を開き、解決してくださるものです。
 先週、礼拝の後で「恵みを数え上げる」というテーマで信仰懇談会を行いました。私が初めに少し、「神様の恵みを数え上げる」とはどういうことかという話をしました。それから四つの分団に分かれて、自分が経験した神様の恵みについて話していただきました。
 私共は、「神様の恵み」と申しますと、こんな困難の中にあったけれども、思いもよらないあり方で助けられた、あるいはこんな風に守られた、支えられたということを考えます。もちろん、それは神様の恵みであるに違いありません。しかしそういうことばかりではなくて、神様の恵みの御業というものは、当たり前の日常生活の中に溢れるほどあるのです。私共がそのことに気付くかどうか、そこに目が開かれるかどうかということが大切なのです。これに気付きますと、いつでもどこでもイエス様が私共と共にいて、生きて働いてくださっていることが分かります。ですから、いつでも主をほめたたえることが出来るようになるわけです。
 その私の話の中で、一つの詩を紹介させていただきました。ニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に揚げられている、ある患者によって作られた、読み人知らずの詩です。「病者の祈り」と訳されているものです。読んでみます。


「病者の祈り」

 大事をなそうとして 力を与えて欲しいと神に求めたのに
 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった

 より偉大なことができるように 健康を求めたのに
 より良きことができるようにと 病弱を与えられた

 幸せになろうとして 富を求めたのに
 賢明であるようにと 貧困を授かった

 世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
 神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった

 人生を享受しようと あらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった

 求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた
 神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
 私はあらゆる人の中で もっとも豊かに祝福されたのだ


 私は、この詩には、詩編23編と同じ心があると思います。この詩の中に直接的には出て来ていませんけれど、私は、この詩を作った方は、主イエスが共におられるということに気付いた時、自分の人生をこのように振り返ることが出来たのではないか、そんな風に思うのです。ここには、病気を癒して欲しいと願い求めたけれども、イエス様に距離を置かれ、病気を癒してもらえなかった群衆と同じ人がいます。しかし群衆もこの人も、イエス・キリストに見捨てられたのではないのです。そうではなくて、神様は、変わることなき愛の御手の中に、この群衆も、この詩の作者も置かれているのです。そしてこの詩は、神様の愛の御手の中にある自分を発見した者の心が歌われているのです。私共もまた、このように神様の恵みを数え上げる者として招かれているのです。

4.メシアの秘密
 さて、おびただしい群衆が主イエスのもとに来て、主イエスに癒される人を見てどんどんヒートアップしていく中で、汚れた霊ども、と言っても、実際には汚れた霊に憑かれた人のことですけれど、これがイエス様の前にひれ伏して、イエス様のことを「あなたは神の子だ。」と叫んだのです。それに対して、イエス様は、言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められたのです。これは、マルコによる福音書で繰り返し出てくるのですが、「メシアの秘密」という呼ばれ方をする出来事です。今までにもありました(1章25節、34節)。
 何故イエス様は、汚れた霊が「あなたは神の子だ」と叫ぶのを厳しく戒められたのか。イエス様は、自らが「神の子」であることをお示しになるために教えを宣べ、癒やしを為されているわけですから、汚れた霊が叫ぶのを止める必要はないのではないか。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、そうではないのです。理由はいくつかあります。
 第一に、人々はイエス様に癒やしを求めて来ている。それしか求めていない。そして、その思いはどんどんヒートアップしている。そういう中でイエス様が、汚れた霊が叫ぶことを許して「神の子」であることを認めれば、イエス様が神の子であるというのは、「人々を癒したりする不思議な力を持った方である。」ということ、そして「神の子・メシアとは、自分たちの願いや求めに応える方である。」ということでしかなくなったでしょう。しかしそれでは、イエス様が十字架と復活によって招いてくださった罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命というまことの救いへと、私共の目を向けさせないことになってしまいます。それでは本末転倒になってしまいます。
 第二に、イエス様が「神の子」と明らかにされるのは、十字架と復活という救いの御業が為されてからです。ですから、まだ時が来ていないのです。まだその時が来ていない時にこのことが明らかにされるならば、人々は主イエスを、祖国ユダヤと同胞をローマの支配が解き放ってくれるメシア・救い主に祭り上げ、ひいてはイエス様は十字架に架けられることがなくなっていたのではないでしょうか。それこそが汚れた霊、悪霊の狙いであったと言っても良いと思います。ここで、汚れた霊はイエス様に「ひれ伏し」ていますが、これは礼拝するという意味で使われる「ひれ伏す」とは違う言葉が使われています。つまり、ここで汚れた霊はイエス様を拝んでいるわけではないのです。もし、汚れた霊がイエス様を拝んだのなら、それはもう汚れた霊ではないでしょう。イエス様はまことの光であり、汚れた霊・悪霊というのは闇に属するものです。ですから、彼らはここで真の光である主イエスを恐れてひれ伏しているのです。
 第三に、イエス様が汚れた霊がこのように叫ぶことを許せば、イエス様は汚れた霊の仲間と見なされることになってしまうでしょう。それでは、イエス様の語る福音は、決して人々に届かないものになってしまいます。  イエス様が汚れた霊に叫ぶことをお許しにならなかったのにはこのような理由があったからだと考えられます。しかしもう一つ大切なことは、ここでイエス様は汚れた霊によって誘惑を受けられたのだという点です。ファリサイ派の人々はイエス様を殺そうと相談を始める。人々は癒やししかイエス様の所に求めに来ない。そのような深い孤独の中にいるイエス様に対して、汚れた霊は、「もういいじゃないか、十字架なんて。わたしが神の子だと言ってしまえ。そうしたら、みんな信じる。それでいいじゃないか。」そうイエス様の心にささやいたのではないかと思うのです。しかし、イエス様はその誘惑を、汚れた霊を厳しく戒めることによって退けられたのです。深い孤独の中、汚れた霊の誘惑を受け、それを厳しく退けることがお出来になったイエス様なのです。

5.主イエスと共に
 このように、周りの人々の全くの無理解、敵対心、そういったものにイエス様はいつも囲まれていたのです。そして、悪霊の誘惑にさえさらされていたのです。実にイエス様は、誰よりも深い孤独を知っておられるのです。だから、イエス様は私共の孤独を知っていてくださいます。そして、そのイエス様が私共と共にいてくださるのです。ですから、私共はたとえ死の陰の谷を行く時も独りではないのです。イエス様が共にいてくださるからです。悪しき霊、汚れた霊の誘惑にさらされても、私共がイエス様に助けを求めるなら、イエス様が私共のために、私共に代わって戦ってくださいます。そして、一切の悪しき誘惑から私共を守ってくださるのです。私共はそのことを信じて良いのです。イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章20節)と約束してくださっているからです。
 さあ、主イエスと共に、主イエスの平安の中、ここから主の御国への新しい一週の旅路へと共に歩み出してまいりましょう。

[2014年2月23日]

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