富山鹿島町教会

夕礼拝説教

「御国が来ますように」
イザヤ書 12章4〜6節
マルコによる福音書 1章14〜15節

小堀 康彦牧師

1.イエス・キリストの第一声
 主イエスが救い主キリストとして最初に告げられた言葉。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というものでした。この主イエスの御言葉は、この後に告げられるすべての主イエスの御言葉、並びにこの後に告げられるすべての主イエスの御業を貫いています。この主イエスの第一声には、主イエスの御言葉と主イエスの御業のすべてが凝縮されていると言って良いでしょう。そして、この御言葉は、二千年の間キリストの教会を通じて、全世界に告げられてきたのです。そして、今朝、私共に告げられています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これが、今朝私共に告げられている主イエス・キリストの御言葉です。

2.時は満ちた
 主イエスは告げられました。「時は満ちた。」そう、時は満ちたのです。天地創造以来、気が遠くなるような歳月が流れました。そして、遂に神の独り子であるキリストが人間イエスとして来られたのです。私共罪人を救うために御自分の独り子を与えるという、神様の永遠の救いの御計画が発動されたのです。神の独り子、救い主、イエス・キリストが来られて、十字架、復活、昇天へと続く歩みが始まったのです。罪にあえぐすべての被造物を救わんとする、神様の救いの御業が始まったのです。
 この神様の時が満ちたことを、世は知りませんでした。ただ、神の独り子である主イエス・キリストだけが御存知でした。それは今も同じです。世はこの時を知りません。この神様の救いの時が来たことを知っているのは、主イエスによってそのことを知らされ、この神様の救いに与った者たちだけです。私共は、この神様の救いに与り、この時を知らされたのです。

3.神の国は近づいた
 主イエスは告げられました。「神の国は近づいた。」神の国、それは神様の御支配ということです。聖書ではこの「神の国」を、「天の国」すなわち「天国」とも言います。「神」という言葉を使うのが畏れ多いということで、「神」の代わりに「天」を用いただけです。全く同じ意味です。マタイによる福音書は「天の国」と言い、マルコやルカによる福音書では「神の国」と言います。
 主イエスは「神の国は近づいた。」と言われましたが、どれほど近づいたのでしょうか。この言葉は、まだ完全には来ていないけれども、もうほとんど来ている、そういうニュアンスを持った言葉です。こう言い換えても良いでしょう。「神の国は来た。しかしまだ完成していない。」或いは、「神の国はまだ完全には来ていないが、もうすでに来ている。」すでに来たが、まだ完成されていない。そういうことです。
 救い主である主イエスが来られたのですから、もう神様の御心は現され、神様の救いの御業による御支配はもう始まったのです。私共は、この主イエス・キリストと出会い、この方が与えてくださる救いに与り、神の子・神の僕とされました。そした、天と地とその中のすべてを造られたただ一人の神様に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことを許され、神様との親しい交わりの中で祈りをささげ、このように主の日のたびごとに礼拝をささげています。もう、ここに神の国は来ているのです。私共は、既に神の国の住人とされているのです。この地上に生きながら、既に神の国に生きている。そう、神の国は確かに既に来ているのです。
 イザヤは、この神様の救いが成就する日のことを神様に幻として見せていただき、預言してこう告げました。先ほどお読みいたしましたイザヤ書12章4〜6節です。「その日には、あなたたちは言うであろう。『主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。シオンに住む者よ叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方はあなたたちのただ中にいます大いなる方。』」その日とは、神様の救いが成就する日です。その日には、主に感謝し、御名を呼ぶというのです。私共は、こうして主に感謝して、御名を呼んでいます。その日には、諸国の民に、全世界に、神様の救いの御業を示し、御名を告げ知らせるというのです。私共は、神様の救いの御業を宣べ伝えています。その日、イスラエルの聖なる方が、あなたがたのただ中にいますことになるというのです。まさに今、私共のただ中に聖なる神は臨んでくださっています。イザヤが見ていた救いの成就する日の出来事に、私共は既に与っています。イザヤの告げた神の国の到来を、私共は既に味わっているのです。

4.御国を来たらせ給え
 しかし一方、この世界には戦争があり、貧困があり、差別があり、利害関係による衝突が繰り返されています。とても神の国が来ているとは言えない、そういう現実があることも私共は知っています。今週、私共は敗戦68年の記念日を迎えます。あの戦争が終わって68年になります。あの戦争が終わった年に生まれた赤ちゃんが、もう68歳になるのです。あの戦争を直接知っている人も少なくなりました。しかし、私共は忘れることは出来ないし、忘れるわけにはいかないのです。何と愚かなことをしたのか、何という痛ましいことをしたのか、何という悲惨がこの世界を覆ったことか。私共は忘れることは出来ません。神の国は既に来ています。しかし、この戦争に代表される悲惨・嘆き・困窮は、今も世界に渦巻いています。そのことを思います時、私共は主イエスが与えてくださった祈り、主の祈りの中の第二の祈り、「御国を来たらせ給え。」との祈りを祈らざる得ないのではないでしょうか。「御国」とは、神の国、神様の御支配のことです。人間の罪を打ち払い、ただあなたの御心が完全に行われますようにと祈らないわけにいかないのです。
 主イエスは私共のために、私共に代わって十字架に架かり、私共の一切の罪を赦してくださった。その赦しに与った私共の所に、既に神の国は来た。それは確かなことです。しかし、そのことをはっきり知れば知るほど、まだ神の国は完成していないということを思うのです。戦争や、差別や、好きだ嫌いだといって仲違いをしている現実を、私共は「現実とはそういうものだ。」と言って諦めるわけにはいかないのです。この世界に生きるすべての人が、神様の御支配の中で、互いに愛し、互いにいたわり、互いに仕え合いながら、主をほめたたえつつ生きる。そういう世界にならなければいけないし、神様が必ずそのような世界にしてくださることを信じ、祈らないわけにいかないのです。
 この「御国を来たらせ給え」との祈りは、何よりも主イエスが再び来られることを待ち望む祈りです。神の国の完成、完全な神様の御支配は、主イエス・キリストが再び来られることによってもたらされるものだからです。しかし、この祈りは、ただ主イエスが再び来られることを待ち望むだけではなくて、一人でも多くの人が主イエスの救いに与り、既に神の国が到来していることを知るようになるために、自分自身が用いられることを願い、そのために労苦することを厭わぬ者へと一歩を踏み出していくように私共を押し出していくのです。

5.悔い改め
 さて、「御国を来たらせ給え」との祈りは、神の国の到来を願い求める祈りでありますが、ここで大切なことは、この祈りは「神の国の到来」を願い祈るのであって、「自分の国の到来」を願い、祈るものではないということです。私共は、自分がこうなれば良いのに、こうなりたい、こうしたい、これを手に入れたいという願いを持っているものです。しかし、その願いは往々にして、神様の御心などそっちのけで、ただただ自分はこうしたい、こうなりたい、これを手に入れたいと願うものなのでありましょう。その願いは、「御国が来ますように」ということではなく、「自分の国が来ますように」という願いなのです。しかし、自分は神の国に生き始めているということを知る中で、私共は「自分の国が来ますように」という祈りから解き放たれ、「御国が来ますように」という祈りが自分の祈りとなっていくということが起こるのです。
 こう言っても良いと思います。主イエスの救いに与った者は神の国への憧れを持つようになります。御国への憧れを胸に抱いて、新しく生きるようになるのです。どうでしょうか。私共は皆、御国への憧れを持っているのではないでしょうか。これは不思議なことです。私共は、まだ神の国を見たことがありません。しかし、知っている。そして、憧れている。それは、私共に信仰が与えられているからです。聖霊なる神様によって、信仰を与えられているからです。それは、私共が主イエスを見たことがないのに愛し、主イエスを信じ、主イエスに従って生きていこうと願っているのと同じです。これは聖霊なる神様によって引き起こされた出来事なのです。主イエスを愛し、主イエスを信じ、主イエスに従おうとしていく中で、皆が主イエスのように愛し、主イエスのように神様との交わりの中に生き、主イエスのように仕え合う、そのような神の国に強く憧れるようになるのです。そして、この神の国への憧れが強く大きくなっていく中で、私の国への願い、これを欲と言い換えても良いと思いますが、これが小さく小さくされていく。御国が来ますようにと祈っていく中で、そういうことが起きるのです。
 私共が何を祈るのかということは、私共が何者であるかということと深く結びついています。祈りが変わるということは、私共が変わるということです。御国が来ますようにと祈る中で、私共は変わっていく、変えられていくのです。その変化は、私共がいよいよ神の国の住人になっていく、天に国籍を持つ者になっていくということなのです。
 この「私の国が来ますように」という祈りが小さくされた時、私共の中に「悔い改め」というものが起きるのです。「御国が来ますように」と祈る中で、「私の国が来ますように」と祈っていた自分に気づかされるからです。何度も何度も気づかされるのです。何度も何度もです。自分の国を求めていた自分に気づく度に、私共は「自分の国ではなく、あなたの御国が来ますように」と祈るのです。これは悔い改めの祈りです。
 悔い改めというものは、反省ではありません。「私にも悪いところがあった」と気づくことは、気づかないよりもずっとずっと良いことであるに違いありません。しかし、それが悔い改めになるかといえば、そう簡単ではないのです。「私にも悪いところがあった」というのは、「私にも悪いところはあったけれど、あなたはもっと悪い」ということでしかないことが多いのです。これでは悔い改めにならないことは明らかです。悔い改めというものは、言い逃れの余地がないあり方で自分の罪を認め、神様の御前に赦しを願い、罪赦されて新しくされ、神様の御心にかなった歩みをしていこうと一歩を踏み出していく、この一連のことを言うのです。「私の国ではなく、あなたの国が来ますように」と祈る時、それは「私の思い、私の願い、私の欲ばかりを願い求めていた私をお赦しください。どうか、あなたの御心がなりますように。そして、あなたの御業のために私を存分に用いてください。」そう祈ることなのです。

6.愛によって変えられる
 ここで、もう少し悔い改めということについて考えてみましょう。私共は、自分がどれほどわがままで、自己中心的で、自分勝手で、愛がないかということを、これでもかというほどに指摘されて、「本当にその通りです。申し訳ありません。言い訳の余地はありません。お赦しください。」と言えるかといいますと、中々そうはいかない。先ほど申しましたように、「私も悪かったかもしれないけれど、あの場合はウンヌン。」と言って、言い訳を次々に考え出す。言い逃れしないあり方で自らの罪を認めるということが、中々出来ない。それが人間であり、私共の罪の根深さというものなのです。私共は、この自分の罪の根深さというものを軽く考えない方が良い。本当にしぶといのです。
 そのような私共が、どうして悔い改めることが出来るのか。それは、愛によるしかないのです。十字架の愛です。神様なんてどうでも良い。自分の願い、自分の思いを叶えることにばかり心を遣い、労力を使い、時間を使っていた私共です。その私のために主イエスは私に代わって十字架に架かってくださった。そして、あなたの一切の罪の裁きはわたしが受けた。だから、あなたは赦される。安心して、神様の子、神様の僕として生きなさい。そう言われたのです。この主イエスの十字架の言葉に触れた時、私共はもう言い訳できない。ただただ「申し訳ありません。お赦しください。」と言うしかない。それが悔い改めです。主イエスが「悔い改めて、福音を信じなさい。」と言われた時、主イエスは私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになられる、その事実によって示す徹底した愛をもってこれを告げられたのです。この主イエスの御言葉は十字架の言葉なのです。
 神様に反逆し、隣人をないがしろにしていた私共です。その私共のために十字架にお架かりなられた主イエスの御前に立って、言い逃れなきあり方で自らの罪を認め、赦しを願う。そのような私共を赦し、神の子としてくださる。これが福音です。この福音と共に、神の国は私の所に来た。しかし、まだ完成されていません。だから、「御国が来ますように」と祈らざるを得ないのです。そして、その祈りの中で、私共は神の国への憧れを強くし、悔い改めをなし、神様の御業に仕えることを何よりの喜びとする者へと変えられ続けていくのです。主イエスは、主イエスを信じ、神の国に生き始めた私共が、その恵みの中にとどまり続けることが出来るようにと、「御国を来たらせ給え」との祈りを与えてくださったのです。

7.聖餐に与る
 私共は、今から聖餐に与ります。この聖餐は、主イエスが十字架にお架かりになられる前の晩に、弟子たちにこのように守りなさいと命じられたものです。この聖餐は、御国における食卓を指し示しています。私共は、やがて御国において、主イエス・キリストの食卓に着くのです。何億、何十億という、代々の聖徒と共に主イエスの食卓に着くのです。そこには、死の陰はありません。永遠の命の祝福の中で、私共はその食卓に着くのです。その日を目指して、神の国を目指して、私共はこの地上での歩みを為していくのです。共々に、「御国を来たらせ給え」との祈りをささげつつ、この一週もそれぞれ遣わされた場において、主の御業に仕えつつ歩んでまいりましょう。

[2013年7月28日夕礼拝]

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