1.センナケリブの敗走
紀元前700年頃、北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされて、既に20年ほどが経っておりました。アッシリア帝国は、次に南ユダ王国を滅ぼそうと、大軍をエルサレムに向けました。ユダ王国の砦の町は一つまた一つと占領され、遂にアッシリアの大軍がエルサレムを包囲しました。エルサレムは風前の灯火でした。時のアッシリアの王はセンナケリブ、前線の司令官はラブ・シャケでした。ラブ・シャケは、エルサレムに降伏するように言います。「お前たちは、『主に依り頼む』と言っているが、今までアッシリアの前に滅んでいった国々もそうだった。アッシリアの前に自らの国を守った神があったか。ヒゼキヤ王にだまされるな。」この言葉の後ろには、エルサレムを包囲しているアッシリアの大軍があるわけです。これを聞いたエルサレムの人々の動揺は想像出来ます。目に見えない神様に頼るよりも、目の前の大軍をもって迫るアッシリアに降伏する方が当然ではないか。
この時のユダの王ヒゼキヤは、列王記下18章によれば、「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。」(18章5節)とあります。ヒゼキヤは、歴代のユダの王様の中で、最も神様に忠実で信仰の厚い王だったのです。その彼が王であった時に、世界帝国アッシリアが大軍を率いてエルサレムを包囲するという、ユダ王国最大の危機が訪れたわけです。
ヒゼキヤ王はその時どうしたでしょうか。祈ったのです。先程お読みしたイザヤ書37章の16〜20節は、その時ヒゼキヤ王が祈った祈りが記されています。彼は、アッシリアの大軍を前にしてなお、生けるただ一人の神に依り頼んだのです。「確かにアッシリアは多くの国々を滅ぼし、その国々の神を火に投げ込みました。しかし、それらは偶像にすぎません。あなたは生ける神、ただ一人の天と地を造られた神ではありませんか。どうか今、わたしたちを救い、地上のすべての国々に、あなただけがまことの神であることを示してください。」ヒゼキヤ王は、そう祈ったのです。
この時ユダ王国に与えられていたのが、預言者イザヤでした。イザヤはヒゼキヤ王に人を遣わし、神様の言葉を伝えました。それは、「アッシリアの王はイスラエルの聖なる方に向かってののしり、侮った。アッシリアは来た道を引き返すようになる。わたしはこの都を守り抜いて救う。」というものでした。神様は、その言葉の通り、アッシリアを撃たれました。朝早く起きてみると、エルサレムを包囲していたアッシリアの軍勢の18万5千人が死んでいたというのです。疫病によるのか、何か悪いものを食べたのか、それは分かりません。聖書はただ、神様が撃たれたと記します。これによりアッシリア軍は引き揚げました。こうして、エルサレムは主によって守られたのです。
この出来事は、主に信頼して祈り求めるなら、神様は全能の御腕をもって応えてくださるということを示しています。神の民は、このヒゼキヤ王の信仰と祈りを受け継ぐ者として立っているのです。
まことに残念なことですが、ヒゼキヤの次の王マナセは、再び偶像礼拝に戻ってしまいます。次の王アモンもマナセと同じ道を歩みました。その次の王ヨシヤはまことの神に立ち帰るのですが、次のヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤ と、主の前に悪とされることをことごとく行う王が続き、紀元前587年、ヒゼキヤ王の出来事から120年ほどして、ユダ王国はバビロニア帝国によって滅ぼされ、バビロン捕囚という苦しみを味わうことになってしまいます。生けるまことの神様の御業を見せられながらも、喉元過ぎれば熱さを忘れる、そのような愚かな不信仰な歩みをユダ王国は辿ってしまったのです。
2.願いは聞かれる
今朝、聖書の言葉は、私共にこう告げます。ヨハネの手紙一5章14節「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」
私共は、これと同じことが聖書の中で何度も告げられていることを知っています。例えば、マタイによる福音書7章7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」あるいは、マルコによる福音書11章24節「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」、ヨハネによる福音書14章13〜14節「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」、15章7節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」、16章23節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」
今、祈るということについて、すべてを論じる時間はありません。しかし、いくつかの点を確認しておきたいと思います。
3.祈りの留意点@
第一に、私共が神様に祈り願うということは、神様を愛し、信頼しているからだということです。つまり、自分の願いを叶えるために祈るのではないということです。それは神様を利用することであって、十戒の第三の戒、「主の名をみだりに唱えてはならない。」に反します。もっとも、祈る前に、これは御心に適うか適わないかを考えて、御心に適うという確信が得られたら祈るということではありません。子どもが父に願い求めるように、素直に願い求めれば良いのです。神様は御心の中で、私共に一番良いものを与えることを決めておられますから、いつ、何を、どのように与えてくださるかは、御心の中にあります。私共はそのことを信頼して祈るのです。
4.祈りの留意点A
第二に、祈りは神様に聞かれた時、既に御心の中で解決しているということです。15節に「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」とあります。いつ、何を、どのように与えてくださるかは分かりませんけれど、私共が祈った時、神様は必ずこれを聞いてくださっているのです。そして、聞いてくださったのならば、御心の中でそれに対しての対応、解決の道をお定めくださっているのです。ですから、私共が祈ったのなら、その事柄は既に神様の御心の中では解決しているのです。このことを私共は信じるのです。確かに、いつ、何が、どのようになるのかは分かりません。しかし、神様の中では、もう決まっているのです。そしてそれは、私共の思いを超えた、一番良い結果となるようになっているということです。ですから、私共が本気で神様に祈ったのならば、その事柄はもう終わっているのです。確かに、現実は少しも変わらないかもしれません。しかし、もう神様の御前に出したのですから、神様がちゃんとしてくださるのです。私共は、そのことを信じて良いのです。既に得たりと信じて祈るとは、そういうことです。この神様への絶対的な信頼と祈りが一つになるということなのです。
それでも、「そうは言っても」という部分が残るかもしれません。私共の信仰はまことにいい加減ですから、この「そうは言っても」という所が残るというのも本当でしょう。だったら、更に祈り続けたら良いのです。その祈り続ける中で、必ずこの「得たりと信ず」という所へと導かれていくからです。それは、祈り続けていく中で御言葉が与えられて、「ああ、そうだ。」と思い至ることもあるでしょう。あるいは、出来事に出会って、「ああ、そうだ。」と思い至ることもあるでしょう。そのプロセスは様々でしょうが、必ず「得たりと信ず」という所へと、神様の中では既に解決済みであるということが納得出来る全き平安へと、導かれるということになるのです。もちろん、生きている限りは祈りの課題は尽きませんから、一つが「ああ、そうか。」と思っても、次にはまた別の課題に直面するということになるでしょう。しかしそれは、また祈っていけば良いのです。
5.祈りの留意点B
第三に、私共の祈りは変えられていくということです。私共が何を祈るかということは、私共の信仰と対応しています。信仰を与えられたばかりの頃は、自分のことで精一杯というのが正直なところかもしれません。いわゆる「お願い」が、祈りのすべてとなっていることでしょう。しかし、私共の信仰は成長していきます。その中で、神様が求めていることと自分が願うことが重なってくる、そういうことが起きてくるのです。14節に、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら」と言われていることです。それは、主イエスが与えてくださった「主の祈り」にあるように、御名があがめられること、御国が来ること、御心が天になるごとく地にもなること、そのように祈る者になっていくということです。具体的に申しますと、自分以外の者のために、その人たちの救いのために祈るようになっていくのです。執りなしの祈りが、自分のための祈りよりも大きくなっていくのです。このことは、16節で「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。」と言われていることです。
6.死に至る罪、死に至らない罪
ここで、「死に至らない罪」と「死に至る罪」という言い方が出て来ますが、これには若干説明が必要でしょう。この「死に至る罪」と「死に至らない罪」というのは、教会の歴史の中で様々な理解がされてきました。それらをここで紹介することはとても出来ないほどに、いろいろな説が出されました。この言葉からだけ考えますと、「死に至る罪」というのは死罪に当たる罪で、具体的にはこれとこれとこれという風にも考えられるかもしれませんが、ヨハネの手紙一の全体の流れから考えますならば、「死に至る罪」とはイエスをキリストではないと言い張る罪であり、兄弟を愛そうとしない罪ということになるのではないかと思います。すべての罪は主イエスの十字架によって赦されるのでありますが、主イエスの十字架の赦しは、主イエスがまことの神の独り子、キリストでなければ成り立ちませんので、主イエスをキリストではないと主張する人はこの赦しに与ることは出来ず、結果、死に至らざるを得ないということなのでしょう。それ以外の罪は、盗みであれ、姦淫であれ、悔い改めて主イエスに赦しを求めるならば赦されるのですから、「死に至らない罪」ということになります。
16節「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。」とありますが、何を願うのかと言えば、その人が自分の罪を知り、悔い改め、主イエスの赦しに与るように願うということでしょう。続けて、「そうすれば、神はその人に命をお与えになります。」とあります。私共の執りなしの祈りを神様が聞いてくださるというのです。しかし、死に至る罪を犯している人に対しては、「神に願うようにとは言いません。」とあります。これは冷たいではないかと思われる方も多いかと思います。確かに、そういう印象を与える言葉ですけれど、これは私共の祈りには限界があるのであって、神様にお委ねしなければならないことがあるということではないかと思います。もちろん、そういう人のためには祈るなと言っているのではありませんので、祈っても良いのです。でも自覚的に、主イエスを一度は知りながらも主イエスを積極的に否む人に対しては、これは神様の御手にお委ねしなければならないということなのでしょう。そして、そのような人以上に、私共には祈らなければならない人がいるということなのだと思います。
7.永遠の命に向かって
さて、今まで「祈る」ということについてお話ししてきましたけれど、この祈りについてヨハネの手紙はどういう文脈で語っているかと申しますと、13節に「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」とあり、その流れの中で祈りについて語られたのです。この13節には、この手紙が書かれた動機が記されていると言っても良いと思います。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは」とあるように、この手紙は、既に主イエスを信じている人、キリスト者、教会員に向かって書かれたものなのです。このことは、ヨハネによる福音書の20章31節で、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」とあるように、主イエスを信じるようになるために書かれたことと対照的です。ヨハネによる福音書は、主イエスを未だ信じていない人のために書かれ、ヨハネの手紙は、既に主イエスを信じた人のために書かれたのです。つまり、信じていない人は、信じることによって命を受けるためであり、信じている人は、永遠の命を得ていることを悟るためなのです。
いずれにせよ、命、信仰によって与えられる永遠の命が問題なのです。ということは、主イエスを信じている私共が願うことは、何よりもこの命、主イエスを信じることによって与えられる永遠の命ということになるのでありましょう。これは、罪の赦しであり、体のよみがえりであり、神様の救いに与るということであります。私共は、既にこの救いに与っているのです。この命を、私共は既に得たりと信じて願い、祈るのです。そして、この命が、あの人にもこの人にも与えられるようにと願い、祈るのです。この祈りをささげる時、私共の心は神様の御心と一つにされているのです。何故なら神様は、私共が祈るその人もまた、主イエスを信じて救われることを求めておられるからです。ですから、この祈りは、必ず聞き届けられるのです。私共は、家族の救いを願い求めています。その祈りが、神様を全く信頼してのものであるならば、既に得たりと信じて良いのです。もし、「そうは言っても」との思いが残るのなら、もっと祈り続けていきましょう。神様は、そのような祈りを既に御心の中で聞き届け、解決してくださっているのですから、安心して祈り続けたら良いのです。
8.祈る者として立てられている
私共の本当の問題は、最初から諦めて祈らないことにあるのではないでしょうか。あるいは、「得たりと信ず」という所に至る前に、「どうせ駄目だ」と思って祈ることをやめてしまうことです。ここで私共の信仰が問われているのです。神様を信頼して、諦めず祈ってまいりましょう。あの人がこの人が主イエスを信じ、私共と同じように救いに与り、永遠の命を受けること、それが神様の御心なのですから。
主イエスは、私共のためだけに十字架にお架かりになったのではないのです。あのひとのためにも、このひとのためにも、主イエスは十字架にお架かりになったのです。私共はそのことを本気で信じ、祈る者として立てられているのです。
[2013年7月28日]
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