富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の愛が実現する交わり」
レビ記 25章35〜43節
ヨハネの手紙一 2章1〜6節

小堀 康彦牧師

1.神様を愛し、生きる
 神様を知るということは、神様を愛することです。神様と共に生きることであり、神様の愛に生きることです。神様の言葉に、神様の掟に、喜んで従うことです。神様を知るということは、頭の中で知る、認識するということではないのです。神様と人格的に交わって、その交わりの中で生きることです。生活することです。日々の生活と切り離されたところに、聖書の信仰はありません。私共の信仰は頭の中や本の中にあるのではなく、日々の生活の中にある。いや、生活そのものが信仰なのです。
 私共は今朝も主の日にここに集っています。ここが痛い、そこが痛いという重い体を引きずるようにして集っておられる方も、何人もおられる。ここに、神様と共に生きる、神様を知っている、私共の生活があります。もちろん、主の日の礼拝だけが、神様を知っている私共の生活のすべてではありません。しかし、この主の日の礼拝を横に置いては、私共の信仰の歩みが成り立たないということも確かなことでしょう。主の日の礼拝に集い、ここから押し出されて六日の旅路へと向かい、またここに戻ってくる。この生活のサイクルが、神様を知った者に与えられた新しい歩みなのです。主の日の礼拝において、私共は神様との交わり、主イエス・キリストとの交わりを与えられます。そして、この交わりの中で、六日間の歩みを為していこうという志が与えられるのでしょう。言うなれば、主の日の礼拝は、神様を知った者が神様と共に生きるリズムを刻んでいくためのメトロノームのようなものです。乱れた信仰のリズムを、正しいリズムに調整するのです。主の日の礼拝に集うことから離れますと、神様と共に歩む私共の歩みは乱れるのです。歩調が狂ってくるのです。祈ることも少なくなってきます。聖書を開くことも無くなってきます。神様の言葉に従って神様と共に生きていこうとする志も弱くなっていきます。毎日毎日ただただ目先のこと、しなければいけないことに追われてしまい、自分が本当にしなければならないことが何なのか、自分はどこに向かって歩んでいるのか、生きているか、そのようなことを考えもしない、思いもしない、そういう生活になっていってしまうのです。そして、いつの間にか、それが当たり前のことのように感じ始める。まことに恐ろしいことです。
 私共はそのような自分の弱さ、すぐに神様から離れてしまうもろさというものを、ちゃんと知っておかなければなりません。それは、その人の性格というようなものではありません。自分は大丈夫だ言える人はいないのです。これは、すべての人に共通している罪だからです。これを原罪と言ったりしますが、放っておけば私共は必ず神様から離れていってしまうのです。石を投げ上げれば必ず落ちてくるように、私共も神様にしっかりつながっていなければ、必ず罪の闇へと落ちていってしまうものなのです。それが私共の、例外無しの姿なのです。
 私は、牧師をしていて幸いだと思うことは、主の日の礼拝も祈祷会も家庭集会も休むことが出来ないということです。準備のために毎日聖書を読まなければならないということです。祈らなければならないということです。私はまことに弱く、愚かな者でありますから、そのように強いられることがありませんと、どこまでも怠惰になってしまいます。神様にお仕えすることにおいて、どこまでも怠けていくことになると思います。そんな私ですから、神様は憐れんでくださり、牧師として召してくださったのだと思います。それは牧師だけではありません。長老も執事もオルガニストも教会学校教師も、みんなそうだと思います。その奉仕を与えられることによって生かされている、そういうことではないかと思います。ですから、奉仕をする場を与えられているということは本当にありがたいことなのです。

2.わたしの子たちよ
 さて、今朝与えられております御言葉は、「わたしの子たちよ。」という呼びかけから始まっています。この手紙を読む人は若い人に限ったことではなかったと思いますけれど、この手紙を書いた人はこの手紙を読む人に対して、我が子に対するような親愛の情を持っていたということなのでしょう。このことはとても大切なことです。私は牧師として、このような思いを持って教会員の一人一人と相対しているかと、改めて思わされました。もちろん、キリスト者は神様の子であって、牧師の子ではありません。しかし、我が子に対するような親愛の情を持って接することがなければ、決して牧師の言葉が教会員の一人一人に届いていくことはないのではないかと思います。この手紙を書いた人は、「わたしの子たちよ。」と呼びかけながら、上から偉そうに指導するような言い方をしません。何とか我が子が神様の御手から抜け落ちてしまわないように、そのことだけを願って記しているのです。
 「わたしの子たちよ。」と呼びかけて、「これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」と続きます。この「罪を犯さないようになる」ということは、神様から離れないようになる、神様の救いの中にとどまり続けるようになる、そう言い換えても良いと思います。日常生活における具体的な一つ一つの罪を指しているというよりも、神様から離れてしまう、神様を愛して神様と共に生きるという生活を捨ててしまう、そういうことがないようにとこの手紙を書いているということだと思います。そのことこそ、牧会者であるこの手紙を書いた人にとって、一番悲しい、つらいことだからです。

3.罪を犯さないように
 私共は、洗礼を受けてキリスト者になっても、具体的な日々の生活において罪と無縁な生活を送るということはありません。やっぱり罪を犯すのです。先日ノアの会で、子育て中のお母さんが、幼稚園児である自分の子に向かって、とても激しくひどいことを言ってしまったことをすごく後悔され、子どもの心に傷を付けたのではないか、その傷がずっと残るのではないかと思うと本当に悲しい、と胸の内を語られました。それを聞いていた他のお母さんたちが口々に慰めておられました。大丈夫よ。うちなんてしょっちゅうよ。皆、身に覚えがありますから、いろいろ自分のことを話しながら慰め、励ましておられました。実際このようなことは、私共はしょっちゅうやってしまっているわけでしょう。この手紙を書いた人も、そのような現実の中に私共が生きていることは百も承知なのです。ですから、「あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」と言って、すぐ「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」と続けているのです。
 理屈だけで言いますと、私共の罪を赦してくださるためにイエス・キリストが十字架についてくださったのだから、もう何をしても赦されるから、別に罪を犯したって良いではないか、どうして罪を犯さないようにと言うのか、そんな風に考えることも出来るのかもしれません。しかし、これが全くの屁理屈であることは、皆さん誰もが分かるでしょう。主イエスが弁護してくださる、赦してくださる。だから何をしても平気だ。別に罪を犯したって良いのだ。このような理屈は、神様を知らない人の言うことです。主イエス・キリストというお方と出会ったことのない人が言うことです。主イエス・キリストと出会い、主イエスの救いに与った人、本当に神様を知った人は、決してそんなことは言わないのです。どうしてか。それは、自分の罪が赦されるために、主イエス・キリストが「罪を償ういけにえ」となってくださったことを知っているからです。私のために十字架の苦しみを受けてくださったことを知っているからです。主イエスの苦しみ、痛み、嘆き、死の上に、自分の赦しがあることを知っているからです。ですから、この方をもう悲しませたくない、この方の御心に適う歩みをしたい、そのような願いが、主イエスの赦しに与った者には与えられるのです。
 親が大変な思いをして仕送りをしてくれているということを知っている子は、そのお金を湯水のように無駄遣いすることは出来ないでしょう。この仕送りが、何の苦もなく与えられていると思っている馬鹿な子だけが、平気で無駄遣いをするのでしょう。
 私が二十歳で洗礼を受けた時、心に思いましたことは「私はイエス様が自分のために十字架に架かってくださったことを知った。もうこの方を悲しませたくない。二度とこの方を悲しませるような生き方はしたくない。」というものでした。もちろん、その後、二度とイエス様を悲しませることがなかったかといえば、そんなことはありません。しかし、この方を悲しませる歩みはしたくない、その思いは今も少しも変わりません。私共は主イエスの十字架によって、一切の罪を赦していただいた、赦していただいている。だから、この方を悲しませたくないし、この方の愛に応えて生きていきたい。そう思うのでしょう。何故なら、私共を愛してくださっている神様が、主イエス・キリストが、そのことを私共に望んでおられることを知っているからです。そして、その思いに応えたいと思う。もしこのことが分からないようなら、それは神様を知っているとはとても言えないでしょう。その人は神様を愛してはいないからです。信仰は理屈ではありません。神様との生きた交わり、愛の交わりなのです。

4.喜んで神の掟に従う者の交わり=教会
 この神様との交わりに生きる時、私共は喜んで神様の言葉、神様の掟に従っていきたいと思うのです。嫌々ではありません。喜んでです。それが、3〜4節で「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。」と言われていることです。
 ここで言われる神の掟とは、主イエスが二つに要約してくださった、「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」ということでありましょう。どちらか一方ではありません。両方です。つまり、神様は愛しているけれど、隣人のことには無関心というようなものではないし、隣人のためには何でもしてあげたいと思うけれど、神様のことなどどうでも良いというのでもありません。実に、神様との交わりに生きる時、この二つは決して切り離すことが出来ないのです。なぜなら、神様は私共のただ中に、私共の交わりの中に、私共と隣人との間におられるからです。神様は天におられるだけではないのです。私共の間におられるというあり方で、私共と共にいてくださるのです。ですから、神様を知っている、神様を愛していると言いながら、隣人を愛そうとしない人は、実は神様を知ってもいないし、愛してもいないのです。
 神様を知る者、神様を愛する者は、神様を愛し、隣人を愛するという、神様の掟に喜んで従います。私共がそうすることを、神様が何より望んでおられると知っているからです。そして、その掟を守ろうとする者たち、この神様の言葉に喜んで従おうとする者たちの交わりには神様が共におられ、神様の愛がそこにおいて具体的な形となって現れるのです。それがキリストの体としての教会なのです。このキリストの教会という所には、「キリストの香り」とでも言うべき、独特な空気が流れているものです。それは、教会に集う人たちはみんな良い人だというようなことではありません。一人一人なかなか個性的ですし、なかなか難しい人がいることでは、この世の他の集団と少しも変わりません。しかし、違うのです。それは、交わりの中に主イエス・キリストがおられるからです。そこには赦しがあり、互いに仕え合おうという姿勢があり、支え合い、祈り合っていこうとする思いが満ちています。自分が良ければそれで良い。そんな思いが支配的になることがないのです。私共一人一人は、自分のことばかり思ってしまうということがあるでしょう。そのような思いから無縁に生きているわけではありません。しかし、そのようなあり方が、この教会の交わりを支配する、それが当然のこととして受け取られる、そういうことはないのです。神様の御心、主イエスの御心に従おうとする思いが、この教会の交わりを支配しているのです。それが、教会がキリストの体と言われる理由なのです。
 私共は、長い間教会での生活をしていますと、この教会の空気にいつの間にか慣れ切ってしまって、この空気の独特さに改めて気付くことは少ないかもしれません。しかし、これは実に独特なのです。この独特さは、単に変わっているというようなことではありません。そうではなくて、すべての人が憧れを持つ、そういう特別さ、独特さなのです。私はこのような交わりの中に生きることが許されていることを、本当に嬉しく、ありがたいと思います。そして、この交わりを成立させている根本に、主の日の礼拝があるのです。私共は今、主イエスの十字架を見上げ、主イエスの十字架の前におります。皆が同じただ一人の主イエス・キリストを崇め、同じ神様の言葉を受けています。ここで私共は、同じ目的、目当てを与えられ、一つとなって歩む民とされているのです。教会は、私の好み、私の趣味、私の社会的立場、私の生活環境、その他一切の私の何かによって結ばれている群れではありません。一致する所などどこにもないような者同士が、ただ同じ神様を愛し、この方に従おうとする一点において結び合わされているのです。そして、この交わりのただ中に、主イエス・キリストがおられるのです。

5.主イエスに倣いて
 最後に、6節を見て終わります。「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」とあります。この言葉は大変厳しいものです。ここだけを読みますと、誰が主イエスが歩まれたように歩むことが出来るのか、これを実行することが出来る人などいったいどこに居るかと思います。文字通りにとるならば、誰も出来ません。しかしこの御言葉は、私共が主イエスのように、全く罪なき人として歩むということを意味しているのではないのです。神様を愛し、隣り人を愛するという神様の律法は、主イエス・キリストによって完全に遂行されました。神様を愛し、主イエスを愛する者は、この主イエスに倣って生きようとするはずです。そう言っているのです。罪は赦されているのだから何をやってもいいじゃないかとはならないでしょう。そう言っているのです。
 宗教改革者カルヴァンは、怠惰であることの罪を最も警戒しました。私共は放っておけば、必ず怠惰になってしまう者なのです。ですから、神様を愛すること、隣り人を愛することにおいて怠惰にならない。神様に仕え、教会に仕え、隣り人に仕えることにおいて怠惰にならない。このことを心に刻んで、罪赦された者としての自由の中を、主にお従いする者として、この一週間も共に御国に向かって歩んでまいりましょう。

[2013年4月28日]

メッセージ へもどる。