1.強く、雄々しくあれ。
モーセに率いられて奴隷であったエジプトを脱出したイスラエルの民は、40年の荒野の旅を終えて、ついに約束の地に入る時を迎えました。この時、既にモーセはいません。モーセは、約束の地を見ながらそこに入ることを許されず、約束の地に入る直前、モアブの地で死にました。イスラエルの民を導いて約束の地に入ることになったのは、モーセの後継者であったヨシュアでありました。ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、東側からヨルダン川を渡って約束の地に入ります。その時にヨシュアに与えられた神様の言葉が、先ほどお読みいたしましたヨシュア記1章に記されている御言葉です。
彼らは、神様が約束してくださったこの土地に入るために、40年もの長い長い旅をしてきました。そして、やっとここに来たのです。神様が約束してくれた土地とはどんなに素晴らしいだろうかという期待もあったでしょう。早くヨルダン川を渡って入りたいという、はやる思いもあったでしょう。しかし同時に、どんな困難が待ち受けているかという不安もあっただろうと思います。
実は、ヨシュアは何十年も前に一度この約束の地に入ったことがあったのです。偵察のためです。申命記1章19節以下と民数記13章、14章に記されていることですが、以前この約束の地を目前にした時、モーセは偵察させるために、各部族から一人ずつ選んだ12人を遣わしました。その12人の中にヨシュアもいたのです。帰ってきた偵察隊は口々に、約束の地がどんなに豊かな土地であるかを報告しました。しかし同時に、この地に住む人々が強く巨大で、とても自分たちが戦って勝てる相手ではない、そう語ったのです。「必ず勝てるから、上って行きましょう。」と言ったのは、エフライム族のヨシュアとユダ族のカレブ、二人だけでした。神様は、この民の不信仰に怒り、そこから長い長い荒野の旅が続くことになりました。神様の守りと導きを信じることが出来ない者たちが、約束の地に入ることがないようにするためです。この長い長い旅の間に多くの民が死にました。そして、偵察した者の中では、ヨシュアとカレブだけが約束の地に入ることを許されたのです。
ヨルダン川の前に立って、ヨシュアは感慨深かったと思います。何十年か前、偵察に行った時に、皆が主の守りと導きを信じて決断していれば、長い長い荒野の旅はなかった。旅の間に多くの同胞が死んだ。もうあの時のように、主の守りと導きを信じないという不信仰に陥ることのないようにしよう。そんな思いがヨシュアの胸に湧いただろうと思います。もちろんヨシュアは、これから入っていく約束の地に住む人々が、どれほど強大であるかを知っているのです。町は高い城壁に囲まれており、すぐに落とすことは出来ないかもしれない。そのようなヨシュアに対して与えられたのが、「強く、雄々しくあれ。」との神様の御言葉でした。「強く、雄々しくあれ。」と、主なる神様はここで6節、7節、9節と繰り返されます。神様がヨシュアに「強く、雄々しくあれ。」と告げられた根拠は、ただ一つです。「わたしがあなたと共にいる。」ということです。わたしが共にいるから、恐れることなく、強く、雄々しく、約束の地に入って行け、と言われるのです。ヨシュアはこの神様の御言葉に励まされ、ヨルダン川を渡って約束の地に入って行ったのです。
イエスという名前は、ヘブル語読みすればヨシュアです。これは偶然ではありません。神様が「イエスと名付けなさい。」と言われたのです(マタイによる福音書1章21節)。どうして神様は救い主を世に遣わされたとき、イエス、ヨシュアと名付けられたのでしょうか。その理由ははっきりしていると思います。主イエスが私共を罪の奴隷の地から救いの約束の地、神の国へと導き入れてくださるからです。古いイスラエルにとっての約束の地は、カナンの地でした。しかし、新しいイスラエルにとっての約束の地は、神の国です。永遠の命です。主イエスは、新しいイスラエルである私共も神の国へと、永遠の命へと導いてくださるのです。約束の地に入るために必要なものは何でしょう。信仰です。神様が共にいてくださるから大丈夫、そう信じて委ねることです。
2.揺れる私共の信仰
そう申しますと、自分は神様を信じ切れないのではないか、どんな時も信じていけるだろうかと、不安になる人もいるでしょう。しかし、この神様を信じて委ねるというのは、まことに不信仰な私をも委ねるということなのです。信じ切れない私、その不信仰な私をも神様は見捨てずに共にいてくださると信じるということです。5年後でも10年後でも自分は信仰者としてちゃんと立っている、そう自信を持って言える人は誰もいないでしょう。自分の信仰がどんなに頼りないものであるか、私共は良く知っています。確かに、私共の信仰は頼りないのです。しかし、たとえそうであったとしても、5年後、10年後、いやこの地上の生涯が閉じられた後も、神様が私と共にいてくださる。そのことを私共は確信を持って断言することが出来るのではないでしょうか。それが信仰です。信仰は、私共の中にあるのではありません。神様の愛を、神様の真実を信頼するのです。そしてその御手に、私共の過去も今も将来もお委ねするのです。
私共の信仰というものは、まことに当てになりません。しばしば動揺するのです。今朝与えられております御言葉において、主イエスはこう言われました。27節「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」主イエスが父なる神様のもとから来たことを弟子たちは信じたと、主イエス御自身が弟子たちの信仰を認めています。そして、弟子たちもまた、30節「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」と申しております。これは少し説明が必要な、分かりにくい文章ですが、こういう意味です。主イエスは何でも知っておられる。弟子たちの心にある問いもすべてご存じで、それに答えてくださる。だから、もうイエス様にお尋ねする必要はない。お尋ねする前に答えてくださるから。これによって、イエス様が何でもご存じである神様のもとから来られた方、つまり神の子であることが分かりました。あなたを神の子と信じます、そう弟子たちは言ったわけです。これは、弟子たちの主イエスに対しての立派な信仰の告白であると言って良いと思います。
ところが、これを聞かれた主イエスは、「やっと分かったか。その通りだ。安心した。」とは言われないのです。31〜32節「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが、散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」と言われました。今ようやく信じたか。しかし、あなたがたはその信仰に生き切ることが出来ずに、散らされて、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。そう言われるのです。これは、主イエスが十字架に架けられた時に、弟子たちが主イエスを捨てて逃げ去ってしまうことを指しているのだと思います。弟子たちがやっとたどり着いた主イエスへの信仰告白、しかしそれは、次の日にはもろくも崩れてしまうのです。主イエスはそのことを百も承知なのです。主イエスはそのことを知っておられた。しかし、弟子たちに対してお前の信仰などダメだ、しょうもないものだと捨てられたかというと、そうではないのです。そうではなくて、そのようなことは承知の上で、「大丈夫だ、恐れるな、勇気を出せ。」と言われたのです。私共の信仰は、自分の熱心によって保たれるのではないのです。この主イエスの、それでも私共を見捨てることのない愛。ここに私共は依り頼むのです。それが私共の信仰なのです。
3.主イエスの勝利
今朝与えられている御言葉をもって、14章から続いてきた、主イエスが十字架にお架かりになる前の日の夜に弟子たちの足を洗われたところから始まった、いわゆる主イエスの送別説教が終わります。次の17章からは主イエスの祈りが記されます。この送別説教の結論は、33節に記されている主イエスの御言葉です。33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」なのです。14章1節は「こころを騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」でした。この送別説教の目的は、実に主イエスの十字架の後、弟子たちが動揺しないようにと弟子たちを慰め、励ますためであったことが分かります。主イエスは弟子たちに、「心を騒がせるな。」「勇気を出しなさい。」と言われるのです。大丈夫、心配するなと言われるのです。その根拠として主イエスは、「わたしは既に世に勝っている。」と言われるのです。
「世」とは、主イエスを十字架に架け、亡き者にしようとする勢力です。そして、その勢力が、主イエスの弟子たちに苦難を与えるのです。しかし、主イエスは、十字架の死から復活されることによって、この世の勢力に勝利されるのです。けれども、これらのことは、これを弟子たちに話された時にはまだ起きていません。復活どころか、まだ十字架にもお架かりになっていない。にも関わらず、主イエスは「わたしは既に世に勝っている。」と言われました。これは、主イエスは必ず復活するということでありますけれど、それはもう既に起きてしまったことと同じように確実なことだということです。もっと言えば、これは永遠から永遠まですべてを見通しておられる神様の中では、既に起きたことだということです。神様の御計画の中では、既に起きたこともこれから起こることも、同じように確実なことなのです。主イエスの勝利は、主イエスがクリスマスに誕生される前から既に決まっていたことなのです。だから、心配することはないのです。
この主イエスの勝利は、主イエスだけの勝利ではありません。主イエスを信じ、主イエスと共に生きるすべての者が、共に与る勝利なのです。だから、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。」と言われるのです。もし、主イエスの十字架と復活の勝利が、主イエスだけの勝利であるならば、私共の苦難とは関係ないことになります。そうであるなら、私共に勇気が出るはずもありません。
主イエスが「勇気を出しなさい。」と告げるのは、主イエスの勝利、御自身を十字架に架けたこの世の勢力、サタンの力に、打ち勝って復活されたこの勝利が、実に私共にも及ぶことが約束されているということです。だから心配するな、勇気を出せ、と言われるのです。私共も主イエスと共に、既に世に勝っているのです。私共の神の国への凱旋は、既に決まっていることなのです。
確かに、私共を不安にさせる困難は、いつも目の前にあります。しばしばそれは、とても自分の力ではどうにも出来ないと思う程のものです。しかし、その圧迫によっても、私共はもう立ち上がれない程に打ちのめされてしまうことはないのです。
ヨハネの手紙一5章4〜5節に「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」とあります。私共は、主イエスを信じるということを、しばしばあまりに小さく捉えているのではないでしょうか。主イエスを信じるということは、神様によって新しく神の子とされるということであり、この新しく神の子とされた者は、復活の主イエスの勝利と共にあるのです。主イエスを神の子と信じた時から、私共はもはや自分一人で立っているのではないのです。私共は、主イエスの勝利の御旗のもとに生きているのです。
4.勝利のイメージ
このことは、次のようにイメージして良いと思います。私の目の前には、とても一人では勝つことが出来ない強大な敵が見えます。自分一人がその敵の前に立っていると思った時、私共はとてもかなわないと逃げ出したくなります。ところが右を見ると、地平線の彼方まで同じ主イエスの御旗を着けた味方がいます。左を見ても同じです。そして、後ろを見ると、これもまた見渡すことが出来ない程の味方が整然と並んでいます。そして、その真ん中には、復活の主イエス御自身が勝利の御旗をかざして立っておられる。それを見てからもう一度目の前の敵を見ると、なんとちっぽけな、恐るに足らない者であるか。よく見ると、目の前の敵は恐ろしげな顔で自分を威嚇しているのかと思ったら、恐ろしさのあまり顔がゆがんでいるだけだったことが分かります。今にも自分に振り下ろされそうに見えた剣は、降参するために挙げられたものであり、今にも襲いかかろうとしているように見えたのは、恐ろしさのあまり震えていただけだったことが分かります。私共もまた、主イエスと共に既に世に勝っているのです。
私共の目の前の敵、それは時代により人によってその姿を如何様にも変えて私共の前に立ち現れます。信仰への迫害という形で現れる時もありましょう。その場合、国家権力であったり、世の風潮であったりします。人の噂話という時もあるでしょう。また、自分や家族の病気や老い、そして死ということもあるでしょう。いじめられ、人間関係がもつれ、仕事のストレスがあり、介護に疲れ、等々挙げれば切りがありません。しかし、主イエスは既に世に勝たれた。そして、私共もその勝利の御旗のもとに生かされているのです。この救いの事実に目を注いで、この一週も私共の信仰を脅かす一切の敵としっかり戦っていきたいと思うのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」のですから。
[2012年8月26日]
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