富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスを愛する人」
申命記 6章4〜9節
ヨハネによる福音書 14章15〜24節

小堀 康彦牧師

1.見たことがないのに愛している
 使徒ペトロはその手紙の中で、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペトロの手紙一1章8〜9節)と告げました。確かに、私共は主イエスを見たことがありません。にもかかわらず、私共は主イエスを愛し、主イエスを信じています。改めて考えてみますと、これはとても不思議なことです。見たことのない方を愛せるのだろうか。もし、この愛する対象が普通の人であったなら、見たこともない人を愛するなどというのは幻想・思い込み・妄想の類で、とても愛などと呼べるものではないと私共は考えるでしょう。また、愛というものは相互の関係ですから、例えば若い人がアイドルが好きだというのは、明らかに一方通行であって、とても愛とは呼べないということになります。だったら、私共の信仰はどうなのか。見たことのないイエス・キリストという方を愛している。それは、若い人がアイドルに恋している愛していると言うのと、どこが違うのか。まだアイドルならば、テレビを通しての映像もあるし、声を聞くことも出来る。イエス・キリストはそれさえないではないか。そう言われたら、私共は何と反論するのでしょうか。言いたい人には言わせておく。別に反論はしない。それも良いでしょうが、私共の信仰が幻想・妄想の類ではないということを、私共自身がきちんと弁えていなければならないでしょう。今朝与えられている御言葉は、このことについて私共に明確な認識を与えてくれるものです。

2.私は主イエスの中に、主イエスは私の中に
 20節を見てみましょう。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」とあります。「かの日」とは、主イエスが復活されて、弟子たちに聖霊が与えられる日です。その時に分かると言うのです。何が分かるかと言いますと、「わたし」即ち主イエスですが、「わたしが父の内に」おることが分かる。これは、主イエスと父なる神様が一つであられることが分かるということです。そして、「あなたがた」即ち主イエスの弟子たち、この場合「私共」と考えて良いでしょう、私共が主イエスの内にいることが分かるというのです。そして、弟子たちの内に、私共の内に主イエスがおられることが分かる。つまり、私共が主イエスの中におり、主イエスが私共の中におられる。このことが分かるというのです。これは、目に見えることではありません。しかし、これが私共に与えられている救いの現実であり、主イエスと私共の関係なのです。
 さて、21節中程から見てみましょう。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」とあります。イエス様を愛する人は父なる神様に愛され、イエス様もその人を愛する。ここで、私共の主イエスへの愛が一方通行ではないことがはっきり示されています。私はイエス様を愛しているけれど、イエス様からも神様からもちっとも愛されていない。そんなことはあり得ないのです。愛は交わりですから、一方通行の愛などないのです。この愛の交わりの中で、主イエスは自らの姿を現されるのです。これは復活を指していると読むことも出来ますが、それにとどまらず、聖霊なる神様のお働きの中で、私共が主イエスと出会う。そのことを指していると思います。私共は、主イエスとの交わりの中で生きています。主イエスの御復活の出来事は、主イエスが十字架にお架かりになって三日目に起きたことです。しかし、それで終わったのではないのです。確かに、40日間主イエスは弟子たちにその復活の御姿を現された後、天に昇られました。地上における主イエスの復活の出来事は、それで終わりました。しかし、聖霊なる神様のお働きの中で、代々のキリスト者は復活の主イエスと出会い、信仰を与えられ、主イエスと共に、主イエスとの愛の交わりの中で、御国への道を歩み続けて来たのです。私共もそうです。
 私の大好きなアイドルは私の中にいるとは言えても、アイドルの中に私がいるとは言えないでしょう。アイドルはただの人ですから、見たこともない人が自分の中にいるなどとはとても言えません。しかし、イエス・キリストは神様であられますから、私共一人一人のことを御存知であり、私共一人一人の祈りに耳を傾けることが出来るし、そうしてくださっている。私共が主イエスと共にあり、主イエスが私共とどんな時も一緒に歩んでくださっていることを、私共は知っています。もちろん、私共は主イエスを見たことはありません。しかし、見たことはありませんけれど、出会ったことがないということではありません。私共は聖霊なる神様のお働きによって、主イエス・キリストと人格的に出会った。この方と出会ったが故に、私共の人生は全く変わったのです。何を大切なこととし、何を喜びとし、どこに向かって生きるのか、そのすべてが変わったのです。私共に与えられている信仰というものはこの聖霊なる神様、今朝与えられている御言葉でいえば「弁護者」「真理の霊」ですが、この聖霊なる神様のお働きを抜きに考えることは出来ないのです。
 現代人は、信仰というものを自分の決断だとか、自分の心の中で起きている一つの現象というくらいにしか考えなくなったために、信仰というものが全く分からなくなったのだと思います。私共の信仰というものは、聖霊なる神様のお働きによって主イエス・キリストという方と出会う、このことによって生まれる、私共と主イエス・キリストとの愛の交わりなのです。愛の交わりですから、それは一方通行ではないのです。主イエスは私共を愛してくださり、私共もまた主イエスを愛するのです。

3.聖霊として主イエスは私共に臨まれる
 どうして、二千年も前に遠いエルサレムでナザレ人イエスが十字架に架かったということが、私の人生と関わってくるのか。それは第一に、このイエスという方がただの人ではなかったからです。天地を造られた神様のただ独りの御子だったからです。第二に、その神の独り子の十字架が、私のために、私に代わって受けられた神の裁きであったからです。そして第三に、そのことを聖霊なる神様が私共に本当のこととして教えてくださり、三日目に復活された主イエス・キリストと出会わせてくださったからです。この第三のことがなければ、私共に信仰は与えられませんし、私共が主イエスを愛するということは起きないのです。
 17節の中程から「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」とあります。先程見た20節では「わたしがあなたがたの内にいる」と主イエスは言われました。私共の内にいるのは聖霊なのでしょうか、それとも主イエスなのでしょうか。ここで三位一体の話をする時間はありませんけれど、これは主イエス・キリストが聖霊として私共の内におられる、私共の内に宿ってくださっているということを告げているのです。主イエス・キリストは聖霊として私共の内に宿り、私共と共にいてくださるということです。
 私共は今朝、聖餐に与りますが、この聖餐も聖霊なる神様が臨んでくださり、私共に信仰を与えてくださらなければ、ただのパンとただのぶどう液に過ぎないのです。聖霊なる神様のお働きの中で私共に信仰が与えられ、パンを主イエス・キリストの体として、ぶどう液を主イエスの血潮として与ることが出来るのです。私共の命が、主イエス・キリストの命と一つにされるという出来事に与るのです。

4.孤児にしておかない
 18〜19節を見てみましょう。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」とあります。主イエスは、弟子たちを「みなしごにはしておかない」と告げられました。これは、主イエスは十字架に架かって死なれるわけですが、そのことによって弟子たちが神様からもイエス様からも見捨てられた、そのような状態のままにはしておかないと言われたということです。「世はもうわたしを見なくなる」とは、十字架の死を指しています。しかし、「あなたがたはわたしを見る」と言われる。これは、復活の出来事を指していると考えて良いでしょう。主イエスが十字架にお架かりになって死なれた時、弟子たちは頼りにしていた主イエスが死んでしまい、もう自分たちには頼るべき方がいなくなった。自分たちを守り、支え、導いてくださる方がいなくなった。そのように思った。それが「みなしご」の状態です。しかし、主イエスは、そのままにはしておかない、と言われた。
 ヨハネによる福音書の一つの特徴は、主イエスの御復活の出来事と聖霊が降るペンテコステの出来事が、時間的経過の中で記されていないということです。まず復活があってその後に聖霊が降るという、ルカによる福音書、使徒言行録の書き方とは違っているのです。それは、教会に生きる私共の現実と重ねるように記しているからだと、私は思っています。聖霊が注がれ信仰が与えられるということと、復活の主イエスに出会うということは、一つのこととして私共は経験しているからです。ですから、この「みなしごにはしておかない」という主イエスの御言葉は、私共にとって、聖霊を注がれ復活の主イエスと出会う、そのことによって主イエスが私共の中に、私共が主イエスの中にいるという、私共と主イエスとの愛の交わりが与えられることを指しているのです。
 幼子は親がなければ生きられない。親の代わりをしてくれる人がいれば生きることは出来ます。しかし、生まれた幼子を、我が身を粉にして愛してくれる親がなければ、健やかに育つことは出来ません。人間は愛の中でしか生きられない、そういう存在なのです。それが、神様の似姿に造られたという意味です。現代という時代の最大の課題の一つは離婚だ、と私は思っています。離婚は本人にとっても、その子供や家族にとっても大変なことです。人間が最も安心出来るはずの場、愛の交わりとしての家庭が崩れるのです。自分の居場所を失ってしまう。ある意味、それはみなしご状態と言って良いでしょう。本当に厳しい状況です。そのような人々にも、この主イエスの言葉は告げられていると思います。「あなたをみなしごの状態にはしておかない。私が共にいる。私との愛の交わりに生きよ。そこで新しい愛の交わりを形成せよ。あなたが神様に向かって『父よ』と呼べる関係をわたしが造る。そこで生き直せ。」そう告げられているのだと思うのです。私は、キリストの教会に与えられている現代の使命の一つは、この父なる神様によって集められた、神の家族としての教会の形成だと思っています。ここに来れば、人との関係で傷付いた者がいやされる、そういう愛の交わりが形成されなければならないのだと思うのです。あなたはみなしごではない。ここにあなたの父がおり、兄弟姉妹がいる。そう言える交わりが形成されなければならないでしょう。

5.神と人との愛の回復
 最後に、主イエスを愛する者は、ただイエス様だけを愛するのではなくて、互いに愛し合い、仕え合い、支え合う交わりを形成するということを確認して終わります。15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」、21節前半「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」、23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」とあります。わたしの掟、わたしの言葉とは何か。それは、主イエスがこの説教を語り始める前に、弟子たちの足を洗って言われた言葉に示されています。13章14節「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」、あるいはその後でまとめるようにして言われた13章34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」との御言葉に示されていることでありましょう。
 主イエスを愛する者は、父なる神様を愛する者です。そして、主イエスも父なる神様も、その人を愛します。神様との間に愛の交わりが回復されるのです。そして、神様のとの間の愛が回復された人は、人と人との間の愛の交わりも回復していくということなのです。何故なら、主イエスを愛し神様を愛するという信仰は、聖霊なる神様のお働きによって与えられたものであり、聖霊なる神様は必ず私共を隣り人を愛する営みへと導いて行かれるからです。私共の信仰が、自分の決断などというものではなくて、聖霊なる神様によって与えられたものであるということが、このことによって明らかになるのです。
 聖霊なる神様によって与えられた私共の信仰は、神様・イエス様によって愛されていることを知ると同時に、神様・イエス様を愛さないではいられないのです。愛は人格的な交わりだからです。そして、その愛は、神様がこの世界とそこに生きる一人一人を愛してくださっている愛ですから、必ず私共の隣り人に向かってあふれて、注がれていくものなのです。隣人へと向かわない愛は、神様から注がれた愛ではありません。そして、その愛を確かに証しする存在として、キリストの教会は立てられているのです。
 確かに、私共には愛がない。だから、聖霊なる神様が与えてくださらなければならないのです。私共は、自らの愛の欠け、愛の弱さを嘆くのではなくて、聖霊なる神様の導き、促しの中で、精一杯愛の業に励んでまいりたいと思うのです。必要な愛も知恵も力も勇気も、聖霊なる神様が備えてくださいます。ですから、私共は安んじてここから一歩を踏み出していけば良いのです。

[2012年7月1日]

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