1.大いなる神様のご計画の中で
主イエス・キリストが世に来られた。天地が造られた時から永遠に天の父なる神様と一つであられた神の御子が、人間として処女マリアからお生まれになった。そして、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになり、三日目に復活された。これは、たまたま、偶然に起きたことではありません。天地が造られた時から神様が決めておられたことでした。この神様の御計画、御心というものは、あまりに大きく、あまりに高く、あまりに深く、あまりに豊かで、私共にはとても知り尽くすことが出来るものではありません。私共の一日一日もまた、この神様の御計画の中にあるのですけれども、それを知り尽くすことは出来ません。ただ聖書が語ることに耳を傾けることによって、私共はそのほんの一端を知ることが出来るだけです。しかし、この神様の御計画、御心、知恵、そして愛というものは、そのほんの一端に触れるだけで、私共が神様をほめたたえ、あがめるには十分なのです。
今、御一緒に、与えられた御言葉を通して、神様の驚くべき御心に触れ、共々に主をほめたたえたいと思います。
2.神様の時
12〜13節「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」とあります。このヨハネというのは、洗礼者ヨハネのことです。どうしてヨハネが捕らえられることになったのか。14章3〜4節に「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。」とあります。実につまらない理由です。人間の愚かさ・罪が、ここにはっきりと現れています。洗礼者ヨハネは、実につまらない理由でヘロデによって捕らえられてしまったのです。しかし、そのことをきっかけとして、主イエスはナザレの村を出て、カファルナウムというガリラヤ湖の北側にある町に来て住まわれたというのです。
なぜ、ヨハネが捕らえられたことがきっかけとなったのでしょうか。それは、救い主である主イエスを指し示す役割を持ったヨハネ、主イエスの先触れとしての役割を持ったヨハネが捕らえられたことによって、「ついに御自分の時が来た」ということを主イエスが悟られたからでしょう。ヨハネの次は自分。それが、神様が自分のために備えられている時であることを、主イエスは御存知だったからです。主イエスは、この「神様の時」というものを弁え、その中で御自身の為すべきことを為されたのだと思うのです。イエス様は神様の独り子であり、神様と一つであられたので、この神の時というものをきちんと弁えることが出来たのでしょう。
私共にも神様の時というものがあります。しかし、私共にはそれがなかなか分かりません。今がどういう時なのか、何をすべき時なのか、良く分からずに思い悩むということもあります。しかし、その時には分からないのですけれど、後から振り返ると、「ああ、あの時はそういう時だったのか。」と思い返す。そういうことがあるのではないでしょうか。若い時は、受験や就職それに恋愛・結婚と色々な時があります。どうすればよいのかと思い悩む時があります。しかし、後から振り返ると、それらの時が神様が自分に備えてくださった時だったということを思うことがある。こうしたい、こうなりたい、そんな思いを抱きながらも、事はその様には進まない。しかし、何年か後に、自分でも思いかけない展開の中で自分が願っていた道が開かれる、そういうこともあります。神様の時が満ちたからでしょう。神様の時に適わなければ、私共の願いはしばしば空振りに終わるものなのです。しかし、神様は私共それぞれに相応しい時を備え、道を備えてくださっている。このことを信じて良いのです。
3.何故、カファルナウムで?
さて、主イエスはカファルナウムという、当時この地方で一番大きな町を、御自分が宣教を開始する場所として選ばれました。どうしてでしょうか。この町は当時5万人ほどの人口を有していたと言われておりますから、これは大変なものです。イエス様は、大きな町で伝道を開始した方が効率が良いだろう、そう思ってカファルナウムで伝道を開始したわけではありません。このカファルナウムという町は、旧約時代の地方名で言えば、ゼブルン、ナフタリの地方にある町です。そして、当時この町には東西の幹線道路が通っており、ガリラヤ湖に面していて南北の水上交通の要所でもありました。商業の盛んな町でしたから、いろいろな国の人々が来ている。そして、信仰的には、生粋のユダヤ教、エルサレムのユダヤ教から見ればかなり怪しいと思われるような、他民族の影響を強く受けているものでした。また、ローマ軍の兵隊もおりました。エルサレムから見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるにふさわしい町だったのです。
その「異邦人のガリラヤ」の地を、主イエスは福音伝道の最初の地として選ばれたのです。聖書は、それはイザヤ書にある預言の成就であった、と告げています。このイザヤの預言とは、主イエスが生まれる700年以上前に預言されたものです。この預言の成就だというのです。今から700年前といえば、日本では鎌倉時代です。これほどの時間の隔たりをものともしないのです。これが神様の御業というものなのです。
このイザヤの預言は、アッシリアによって北イスラエル王国が占領され、その地に住む人々がアッシリアの様々な所に移住させられる。一方、この地にはアッシリア中からいろいろな人々が移り住むようになる。そういう悲惨な出来事に対して、しかし神様の救いが来る、そう預言されたものです。このイザヤの預言は主イエスが来られるまでに成就したのでしょうか。していないのです。アッシリアの後はバビロンに、その後はペルシャに、その後はマケドニアに、そしてローマにという風に、この地はその後ユダヤ人たちによって再び独立を果たすことはなかったのです。そして、このイザヤの預言は9章5〜6節において「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」と続くのです。これは、いわゆるキリスト預言であることはすぐに分かるでしょう。このイザヤの預言は、まさに主イエス・キリストの誕生、到来によって成就したのです。
「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」それは生きる希望を失った者であり、苦難の中にあえいでいる者であり、神様の救いから見放されたと思っている者であり、自らの罪に気付きもしないで生きている者たちことでありましょう。その人たちに光が射し込むのです。その人たちが光を見るのです。生きる意味・目的・力・勇気を与えられるのです。誰によってか。主イエス・キリストによってです。主イエス・キリストというお方が来られることによってです。イザヤはそのことを預言し、主イエスはカファルナウムで伝道することによって、このイザヤの預言が御自分によって成就したということを示されたのです。
私共の住むこの富山の地は、まさに「異邦人の富山」です。そこに住む人が光を見るために、そこに光を射し込ませるために、主イエスは来られたのです。
4.主イエスの第一声
主イエスの伝道の第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」でした。これは直訳すると、「悔い改めよ。天の国は近づいたから。」となります。この「近づいたから」の「から」が訳に出ていません。しかし、これはとても大切です。悔い改めることによって天の国に近づくのではないのです。天の国は近づいたのです。だから悔い改めよ、と主イエスは言われたのです。
「天の国」、これはルカによる福音書では「神の国」となっています。マタイによる福音書では、「神」という言葉を使うことが畏れ多いということで「天」という言葉が使われています。ですから、「天の国」も「神の国」も同じ意味です。また、「国」という言葉は、「支配」という意味です。「天の国は近づいた」とは、神様の支配される世界がもうそこに来ている。主イエスが来られたことによって、そのことははっきりしている。だから「悔い改めよ」と言われているのです。主イエスがお語りになったこと、主イエスが為された様々な奇跡は、すべてこの天の国、神の国がもうここに来ている、そのことを示すものでした。
「悔い改め」とは、反省ではありません。神様の御臨在に触れ、神様の御前に、何もない者として立つことです。ただ神様のあわれみを受ける者として、神様の御前に立つことです。自分は正しい者だが、あの人は悔い改めなければならない。そんなものではないのです。そのように悔い改めを理解していたのが、ファリサイ派の人々です。自分は律法をきちんと守っている。しかし、あの人たちは守っていない。だから救われない。悔い改めなければならない。そう考えていた。でも、そうではないのです。神様の御前に正しい者として立てる者は誰もいない。しかし、その正しくない者が、罪に満ちた者が、救われるのです。神の国に入ることが出来るのです。神の子とされるのです。どうしてか。神様のあわれみが、罪人を救う驚くべきあわれみが、主イエス・キリストと共に到来したからです。ただ独りの神の御子が、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださったからです。この恵みを、ただただ感謝して受け取る。それが悔い改めるということです。
天の国は近づいた、神の国は近づいた。これは、近づいたけれどまだ来ていない、そういうことではないのです。神の国は来たのです。主イエスと共に来たのです。主イエスと共にあること、主イエスの救いに与ることによって、私共は神の国に既に生き始めているのです。神の国が既に来ていることを示す、二つの「しるし」があります。一つは私共です。罪人である私共が、神様に向かって「アバ、父よ。」と呼ぶ者とされている。これが神の国が既に来ているしるしなのです。そして、二つ目はキリストの教会がここにあるということなのです。
5.天の国はもう来ている
キリストの教会は、この主イエスの第一声「悔い改めよ。天の国は近づいた。」を、その存在をもって証しし、語り続けてきました。教会は神の国そのものではありません。しかし、そこには神の国の香りがあります。神様をほめたたえる賛美があり、神様をあがめる祈りがあります。ここに神の国は来ているのです。そのことを伝えていくのが、私共に与えられている使命なのです。神の国は、県庁から、市役所から始まるのではありません。この教会から始まっていくのです。
私は明日、教団の委員会に出席のため東京へ行きます。はくたか1号に乗って行くのですが、そのホームで待っている時、いつもこの「天の国は近づいた。」という御言葉を思い出すのです。そして、「天の国は近づいた」というのは、30分前の頃のことをイメージすれば良いのかな、5分前かな、1分前かな、それともはくたかが見えた頃かな、それともはくたかがホームに入って来たその時かな、いろいろイメージするのです。皆さんはどんなイメージを持たれるでしょうか。30分前なら、新聞か雑誌でも買って読んでいよう、となるでしょう。5分前なら、コーヒーでも買おうかな、そんな余裕があります。1分前だと、荷物を持って並ぶでしょう。しかし、列車がホームに入って来たら、もう何も考えない。列に並んで列車に乗り込むことだけを考えます。そして、もし我が子がジュースをなどを買いに行こうとするなら、「乗り遅れるぞ、何やってんだ。」そう怒鳴って列に引っぱるでしょう。私は、この「天の国は近づいた。」と主イエスが言われた「近づいた」というのは、列車がもうホームに入って来た、そういうイメージではないのかと思うのです。
主イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と告げられたのは、まさに「もう天の国は来た。だから早く悔い改めなさい。神様の救いの恵みに与りなさい。ぐずぐずしている暇はない。」と言われたのでしょう。教会が「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と告げて来たのも同じです。愛する同胞に向かって、「そのままぼーっとしていたのでは乗り遅れてしまうぞ。一緒に神の国に行こう。ここにもう神の国は来ているのだから。」そう叫んで来たのだと思うのです。
私共はどこかで、あと30分ある、あと10分ある、あと5分ある、そんな風に勘違いしているのではないでしょうか。もう列車はホームに来ているのです。他のことを考えたり、時間を潰したりしている暇はないのです。私共の所に、既に神の国は来ているからです。
キリストの教会は、主イエスの到来以来、主イエスが告げられた「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と証しし、語り続けてきました。そして、その教会は、「異邦人の地」に広がり続け、この富山の地にも広がって来たのです。131年前、トマス・ウィンがこの富山の地で福音を宣べ伝えて以来、私共も告げ続けて来ました。今朝、私は○○教会の礼拝で奉仕してまいりました。この教会は100周年の記念誌を出す準備をしているそうです。今朝の礼拝出席は12名でした。小さな群れです。しかし、そうであればこそ、100周年を迎えるということは神様の御業であるとしか言いようがないことを、改めて思わされました。キリストの教会は、人数が少ないということで暗くなったりはしません。神の国がここに来ていることを知らされ続ける限り、暗くなりようがないのです。神の国は既に来た。その恵みの中に生き続けるキリストの教会は、終末に至るまで、神の国が完成する日に向けて、キリスト共に、キリストの希望と平安の中を歩み続けるのです。私共もそうです。神の国を待ち望むというのは、来るかどうか分からないけれど待つということではないのです。既にここに来ているのですから、時が来れば必ずこの神の国が完成されるのです。そして、すべての者の唇が主をほめたたえる日が来るのです。そのことを信じ、そのために私共は全力でお仕えしていくのであります。
[2012年6月24日:夕礼拝]
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