富山鹿島町教会

礼拝説教

「イザヤによる受難預言」
イザヤ書 53章1〜12節
ヨハネによる福音書 12章36節b〜43節

小堀 康彦牧師

1.受難週、新年度を迎えて
 今日から受難週に入ります。週報にありますように、火曜日から金曜日まで受難週祈祷会が開かれます。今年は夜だけでなく、昼にも行うようにしました。夜は出にくいという方のためです。どうか共に祈りを合わせ、主の恵みの御業を心に刻みつつ受難週を過ごして、喜びのイースターを迎えましょう。
 今日は教会の暦では受難週の始まる日となるわけですが、4月1日ですので2012年度の始まりともなります。受難週と共に新しい年度が始まるというのは大変珍しいことですが、素敵なことだと思います。先週、皆さんの週報棚には、聖書通読カレンダーが入っていたことと思います。これは、二年間で聖書を読み通すことが出来るように、毎日少しずつ聖書を読み進んでいくためのものです。これを手にされて、皆さんはどう思われたでしょうか。「何か印刷物が入っているな。」くらいにしか気に留めない方も多かったかもしれません。これは、教育部の方が作ってくださったものですけれど、二年前に配布されたものとは少し違っています。パッと見ただけでは、ちっとも変わっていないように見えるのですけれど、よく見ると違っています。どこが違うのかといいますと、このカレンダーは、この日には旧約はここからここまで、新約はここからここまでという風になっているのですが、二年前のものは最後の方が旧約だけになっていました。旧約と新約は分量が違いますのでそうなってしまったのだと思いますけれど、今回のものは、最後まで旧約と新約が並んでいます。よく見ると、何月という文字が大きかったり小さかったりと手作り感が出ているのですが、これを作るのにはどれほど時間がかかったことだろうかと思うのです。教育部の方が、本当に尊い時間をささげて、このカレンダーを作ってくださった。何日もかかったに違いないと思います。どうかその労苦を無駄にしないで欲しいのです。聖書はただ読んでも分からない。その通りです。でも、分からなくてもいいから、とにかく読んで欲しい。新約の方は本当に短いですから、あっという間に読み終わってしまうでしょう。それだけでもいいです。少し思いをめぐらして、その聖書の言葉から聞こえてくる神様の声に耳を傾けて、そして祈ってください。それをしていくうちに必ず出来事が起きます。今日の朝の御言葉はこういうことだったのかと分かる、そういう出来事が起きてきます。聖書を読んでいなければ通り過ぎてしまう出来事の中に、神様のメッセージを受け取るということが起きるのです。
 私共は皆、強い信仰の人になりたいと思っているでしょう。そのためには、とにかく毎日聖書を読んで祈る、それしかないのです。その営みを続ける以外に、神様との親しい交わりの中に生きる秘訣はありません。今日から始めてください。一ヶ月は続けたけれども、やっぱり続かない。そういうことも起きるでしょう。だったら、そこからまた始めれば良いのです。何度中断しても、やろうと思った日からまた始めれば良い。しばらく休んでしまったら、その分を取り戻して続けようとしなくても良いのです。確かに、これは聖書通読カレンダーですから、聖書を全部読むということのために作られていますけれど、本当の目的は、私共が毎日聖書を読みそして祈るという習慣を身に付けていく、聖書と共に生きるという歩みを為す、私共の生活の根本を新しくされていくということだからです。
 私共は様々な誘惑にさらされて生きています。神様を第一として生きようとしても、ついつい自分のことばかり思ってしまう。その誘惑とどう戦うか。それが私共の信仰の戦いでしょう。信仰の戦いとは、大げさなことではありません。聖書を読んで祈る時間を確保する、その戦いを真剣に為していくということから始まるのだと思うのです。
 主イエスの御受難を覚える受難週ですが、主イエスが私共のために罪と死に対して戦ってくださったこの戦いを無駄にしない、私共も自分が為すべき信仰の戦いを為していく、それが私共の受難週の過ごし方なのではないでしょうか。聖書を読んで祈る。私共はこの戦いを始めることで、受難週を歩んでまいりましょう。

2.信じる者と信じない者:神様の選びとして
 さて、今朝与えられております御言葉は、主イエスが十字架にお架かりになるためにエルサレムに入られてからのことです。13章からは、十字架にお架かりになる前日のことが記されます。ユダヤの一日は日没から始まりますから、13〜19章は、主イエスが十字架にお架かりになった一日の出来事がずっと記されていると考えて良いでしょう。今朝与えられている御言葉は、その直前のことです。
 「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」と始まります。主イエスはこれ以降、人々に向かって語るということはされません。もっぱら弟子たちに向かって語られます。その理由は記されておりません。ただ主イエスとしては、もう為すべきことを為し、語るべきことも語った。後は十字架に架かるだけだということを分かっておられた。そして、この十字架の出来事を前に、弟子たちにどうしても伝えておかなければならない、確認しておかなければならない、そのことのために時を用いられたということなのではないかと思います。もう時間がない。そういう中で主イエスが為さなければならないことは、弟子たちを訓練することだったのだと思います。御自身が十字架にお架かりになって後、この十字架の救いを宣べ伝え、その救いの御業を継承していく弟子たちこそ、主イエスが残していかなければならなかったものであり、そのために時間を用いられたのだと思います。
 37節を見ますと、「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」とあります。主イエスは「多くのしるし」を目の前で行われたのです。しかし、信じなかった。すべての人が信じなかったわけではありません。42節には「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。」とあります。ここでも、ヨハネによる福音書の中で繰り返されている、「信じる者と信じない者」が語られます。皆が信じるのでもないし、皆が信じないのでもないのです。信じる者と信じない者が生じるのです。しかも、ここで信じない者は、主イエスの為した多くのしるし、奇跡ということですが、それを目の前で見た、それでも信じない人なのです。信じる人から見れば、どうして信じないのか不思議でしょう。しかし、信じない人から見れば、信じる人が分からないということなのでしょう。ここでヨハネは、信じなかった理由を示します。40節「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」これはイザヤ書6章10節の引用ですが、要するに神様がその人を信じることがないようにされたというのです。ここには、明らかに「神様の選び」の教理が示されております。「神様の選び」というものは、神様が選んだのですから、どうして選んだのか人間には分かりません。間違っても、選ばれて信仰を与えられた人の方が良い人だったから、優れた人だったからということはありません。選ばれた者にも理由は分からないのです。選ばれた人は、ですから、自分はすごいなどと思うのは全く的外れなのです。そしてまた、この人は選ばれている、この人は選ばれていないということも、人間の目には分かりません。教会では、信仰を持っていない人のことを未信者と言います。未だ信者になっていない人ということです。いつ信仰が与えられるのか分かりませんから、今信仰を持っていない人は神様に選ばれていないなどとは、誰も言えないのです。
 この神様の選びという教理は、私が主イエスを信じることが出来たのは、ただただ神様の恵みによって、神様が私を選んでくださったからで、私には何の手柄もありませんということなのです。ですから、自分が神様の選びの中で救われたと信じる者は、ただただ神様に感謝し、神様をほめたたえるしかないのです。

3.イザヤは見た
 ヨハネは、この主イエスを信じない人々を説明するにあたって、もう一箇所聖書を引用しています。38節です。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」これはイザヤ書53章1節の引用です。この引用は、イザヤがこのように人々はイエス様を信じないということを預言していたではないか、そう言っているわけです。
 イザヤという預言者は、紀元前8世紀の人です。イエス様が生まれるずっとずっと前の人です。このイザヤが預言したのは、41節「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」というのです。イザヤ自身、もちろん主イエスというお方と会ってはいません。しかし、預言者であるイザヤは、神様によって「主イエスの栄光を見た」というのです。「主イエスの栄光」とは、主イエスの十字架ということです。人々は、主イエスが救い主として十字架にお架かりになるということが分かりません。多分、弟子たちだってこの時まだ分かっていない。分かっていたのは主イエスだけです。しかし、800年も前のイザヤは、主イエスの十字架を見ていた。神様によって救い主の苦難を示されていたというのです。だから、このような預言が出来たのだというのです。私もそう思います。私は人間の超能力などというものを全く信じない人間ですけれど、聖書が生ける神様の言葉であることを信じていますし、すべてを知りすべてを導かれる神様が預言者を立てたということは、当時の歴史的状況の中で預言者は語ってはいますけれど、そこに限定されず、主イエス・キリストの救い、更には終末に至る神様の救いの御計画というものを記している、そう考えるしかないと思います。

4.イザヤ書53章
 ヨハネが、イザヤが見たと言っている「主イエスの栄光」、即ち主イエスの十字架とは、具体的には先程お読みしましたイザヤ書53章に記されています。このイザヤ書53章というのは、主イエスの十字架の出来事があるまで、よく分からない謎の書と考えられていた所でした。どうして主の僕が苦難を受けるのか、この主の僕とはバビロン捕囚にあった神の民の姿を指しているのではないか、そんな風にも考えられておりました。しかし、主イエスが十字架にお架かりになった出来事を目の当たりにした主イエスの弟子たちは、このイザヤ書53章が、まさに主イエスの十字架を指し示していたのだということを知ったのです。
 今、イザヤ書53章のすべてを見る時間はありません。いくつかの所を見ながら、主イエスの十字架への歩みを思い起こしたいと思います。
 2節b〜3節「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」主イエスが十字架を担いでゴルゴタの丘まで歩まれた時の姿、そして十字架にお架かりになった姿をこの言葉は私共に思い起こさせます。ローマの兵士たちが主イエスの頭に茨の冠をかぶせ、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、「ユダヤ人の王、万歳。」と言って侮辱しました。主イエスが十字架に架けられると、人々は主イエスをののしり言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコによる福音書15章31〜32節)「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」(ルカによる福音書23章37節)
 主イエスは、裁判にかけられている間も、兵士たちにののしられ、十字架を担いで歩まれ、そして十字架の上で人々にののしられている間も、口を開きませんでした。イザヤが、53章7節「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」と預言しているとおりです。
 しかし、この主イエスの苦しみは、私共の罪を担い、私共に代わって裁かれるためでした。イザヤは告げます。4〜5節「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」主イエスの十字架を見た人々の多くは、主イエスは神に捨てられ、神に裁かれたと思っていました。確かに、主イエスは神様に捨てられ、神様の裁きを身に受けられた。しかしそれは、私共の罪のため、私共が滅びの道から救い出され、新しく神様の子として生きるためでした。主イエスは苦しみ、私共は救われ、主イエスの傷が私共のいやしとなった。
 8節「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」主イエスが十字架で殺された時、その時代の人は誰も、自分が神様に背いていたゆえに、自分の身代わりとして主イエスが神様に裁かれたとは、考えることも出来ませんでした。主イエスの十字架の意味を正しく理解し受け止める者は、誰もいませんでした。主イエスの弟子たちさえもです。
 しかし、主イエスは知っておられました。一粒の麦は、落ちて死ななければ一粒のまま。しかし、死ねば多くの実を結ぶことを。主イエスの十字架によって罪赦された者が、新しい神の民として世界中に生まれることを。この主イエスの救いに与る者は主イエスの者とされ、主イエスを我が主、我が神としてあがめることになることを知っておられました。主イエスは、それを見据えて十字架につかれたのです。11〜12節a「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」
 まことに主イエスの十字架は、イザヤが預言した主の僕の苦難でありました。

5.主イエスの十字架を無駄にしない
 私共は今、主イエスが生まれる何百年も前に、預言者イザヤが主の御受難を預言していたことを見ました。イザヤの預言の成就として、主イエスは十字架にお架かりになったのです。それはイザヤばかりではありません。実に旧約全体が主イエスを指し示しているのです。例えば、詩編22編もまた、代表的な主イエスの受難預言の一つです。主イエスの御受難が旧約においてこのように預言されているということは、天地を造られた神様がこの歴史を支配され、すべてを見通しておられるということでありましょう。ということは、私共の救いもまた、この方の御手の中でのことであるということです。これは先程の神様の選びとも関係致しますけれど、私共の救いは、この圧倒的な神様の恵みの御手の中で与えられたものであり、それ故、私共は安んじて、神の国への歩みを続けていけば良いということなのであります。
 しかし、この歩みは、ただボーっとして歩むのではありません。ヨハネによる福音書12章42〜43節「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」とあります。せっかく主イエスを信じる信仰を与えられたのに、人間からの誉れを求め、神様からの誉れを捨てて、信仰を公に言い表さなかった人もいたのです。信仰は神様から与えられたものですから、自分で勝手に処理出来る、処理して良いことではないのです。それは、主イエスの十字架を無駄にしてしまうことになるからです。
 私共は、この主イエスの救いの恵みの中にとどまり、この恵みの中を歩んでいくのです。そして、その歩みをいよいよ確かなものとするために、私共は毎日聖書を読み祈るということを求められているのです。信じない者にならないで、信じる者として召されている。何よりも決定的に重大なこのことをしっかり受け止めて、この受難週を歩んでまいりたいと思います。

[2012年4月1日]

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