富山鹿島町教会

礼拝説教

「エルサレム入城」
ゼカリヤ書 9章9〜10節
ヨハネによる福音書 12章12〜19節  

小堀 康彦牧師

1.棕櫚の主日
 今年のイースターは4月8日です。イースターは毎年、日が変わります。それは、私共が今用いている暦は太陽暦ですが、イエス様が十字架にお架かりになった過越祭というのは太陽暦になる前の暦によって決められておりました。ですから、今の暦に変換するという作業が必要なのです。春分の後の満月の後の最初の日曜日、これが現在のイースターの決め方です。満月と関係がありますので、早い年は3月中にイースターがありますし、遅い年は4月の20日過ぎになります。そして、イースターの前の一週間が受難週です。この週には、教会は主イエスの御受難を覚えて特別なプログラムを持ちます。私共の教会では受難週祈祷会を持ちます。先週の長老会で、今年の受難週祈祷会の奨励の担当が決まりました。なるべく多くの人が出席出来るように、昨年までと始まる時間が違っています。どうぞ一人でも多くの方が集ってくださり、主イエスの十字架を覚えて祈りを共にしたいと思っております。
 この受難週が始まる日曜日を「棕櫚の主日」と言います。棕櫚というのは植物の名前です。それは、イエス様が十字架にお架かりになるためにエルサレムに入られた時、人々が手に棕櫚の枝を持って迎えたという出来事に由来しています。それがちょうど今朝与えられた聖書の箇所なのです。私共が今用いている新共同訳聖書では、12〜13節に「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。」とある所です。ここで、今まで棕櫚の枝と訳されていた言葉が、「なつめやしの枝」となって少し分かりにくくなってしまいました。日本ではなじみのない木ですが、この地方ではもっとも一般的な木で、この木の実はよく食卓にも上るものです。長くて大きな葉を付けます。

2.主イエスを信じるために
 この主イエスのエルサレム入城の場面から受難週に入ります。このエルサレム入城が日曜日、そして木曜日の夜に最後の晩餐が守られ、金曜日に十字架にお架かりになられるわけです。ですから、今朝与えられておりますこの箇所から後は、すべて受難週の出来事と復活の出来事です。ヨハネによる福音書は全部で21章ですけれど、その後半のすべてが受難週の出来事と復活の出来事となっているわけです。福音書が主イエスの伝記だと考えますと、これはまことにアンバランスです。最後の一週間に半分の量を費やすというのは、変でしょう。しかし、ヨハネによる福音書は20章30〜31節に「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」とありますように、イエス様は他にもいろいろと奇跡を行われたけれど、そのすべてを書いているのではなく、これを読む人が、イエス様を神の子メシアと信じるため、信じて命を受けるために必要なことを書いたというのです。そして、主イエスを信じるためには、どうしても主イエスの十字架と復活の出来事に目も心も集中しなければならない。それを外してしまっては、主イエスを神の子メシアと信じることは出来ないということなのでしょう。

3.この世の王として迎えられる
 さて、主イエスは受難週が始まる日曜日にエルサレムに入られました。主イエスはこの時に当然、御自分の十字架というものをはっきりと見据えておられました。しかし、この時主イエスの十字架をはっきり見ていた人は他にはおりませんでした。そういう中で、大勢の群衆が主イエスを迎えたのです。手に手になつめやしの枝を持って、そして口々に「ホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と叫びながら迎えたのです。
 どうして群衆は主イエスをこのように歓迎したのでしょうか。17〜18節で聖書はこう告げています。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」人々は、ラザロを復活させられたという出来事を見、聞き、主イエスを歓迎したのです。主イエスの不思議な力に期待して歓迎したのです。
 人々はここで、主イエスを「イスラエルの王」として迎えました。これは穏やかではありません。「イスラエルの王」ということは、当時イスラエルを支配していたのはローマ帝国ですから、イエス様を王に祭り上げて、反ローマの暴動がいつ起きてもおかしくない、そういう緊迫した状況を引き起こしかねない言葉であります。人々は、この危険な言葉をもって主イエスをエルサレムへ迎えたのです。棕櫚の枝、なつめやしの枝をもって迎えたということも、人々の期待がどういうものであったかを表しています。この棕櫚の枝をもってエルサレムに王を迎えるという出来事には先例があったからです。10章22節にある神殿奉献記念祭についてお話しした時にも申し上げましたが、紀元前2世紀、このイエス様の時から200年ほど前、ユダヤはセレウコス朝シリアの支配下にありました。この時、シリアの王様であったアンテオコス4世がエルサレム神殿に偶像を建て、ユダヤの人々に割礼を受けることを禁じたのです。ユダヤは猛烈に反発し、遂に独立のための戦争となりました。その時のユダヤの指導者がユダ・マカバイオスでした。彼はシリア軍を破り、エルサレム神殿から偶像を駆逐しました。それを喜び祝う時、人々が棕櫚の枝を手にしたのです。その後、シリアの反撃に遭い、エルサレムは再びシリアの手に落ちるのですが、ユダ・マカバイオスの兄であるシモンが再びエルサレムを奪回します。この時も人々が喜び祝うために手にしていたのは、棕櫚の枝だったのです。ですから、人々が棕櫚の枝を手にして「イスラエルの王」と叫んでエルサレムに主イエスを迎えたということは、人々の心は主イエスをこの世の王として迎えるという雰囲気の中、民族的な高揚した気分の中で主イエスを迎えたということなのです。

4.ろばの子に乗って
 この時、主イエスはどうされたのでしょうか。主イエスは、御自分が人々がイメージしているようなイスラエルの王ではないことを十分に弁えておられました。しかし、この時イエス様は人々の熱狂的な歓迎を避けようとはなさいませんでした。何故でしょうか。人々が主イエスを王に祭り上げようとしたのは、この時が初めてではありません。6章において、五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われた時にも、6章15節「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とあります。この時は、主イエスは王として祭り上げられることがないようにと、山へ退かれたのです。しかし、エルサレム入城のこの時には、主イエスはその場から立ち去るというようなことはされなかったのです。何故でしょうか。答えははっきりしていると思います。「時が来た」からです。23〜24節に「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とあります。ここで主イエスは、はっきり御自分の十字架を見ておられる。そして、この十字架の死こそ栄光を受ける時であり、その時が遂に来た。そのことをはっきり自覚されていたのです。主イエスは、人々が御自分をイスラエルの王として迎えるということが全くの誤解によることを御存知でした。しかし、「それは違う!」と否定されるのではなくて、その誤解をまるで引き受けられたかのようにしてエルサレムに入城された。それは、時が来たことを知っておられたからです。この人々の誤解もまた、御自分が十字架に架かるために用いられる。そのことを知っておられたからだと思います。
 主イエスはしかし、すべてを御自分を誤解した人々に委ねられたのではありません。主イエスはろばの子に乗るというあり方で、御自分はどういう王なのかを示されました。この「ろばの子に乗って」ということは、主イエスのエルサレム入城が、先程お読み致しましたゼカリヤ書の預言の成就であるということを示しております。弟子たちはこの時、主イエスが何故ろばの子に乗られたのか分かりませんでした。その意味が分かったのは、「イエスが栄光を受けられたとき」であったと聖書は記しています。つまり、主イエスが十字架にお架かりになり復活されて、初めて弟子たちは、主イエスがどういうお方か、どういう意味でイスラエルの王なのか、何故ろばの子に乗ってエルサレムに入られたのかが分かったというのです。
 ゼカリヤ書9章9〜10節に「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」とあります。ここに、神様が約束された王がろばの子に乗って来ると預言されております。この王は、「神に従い、勝利を与えられた者」です。まさに主イエスこそ、十字架の死に至るまで神様に従われた方でした。そして、主イエスは、一切の罪と死に対して、十字架と復活をもって勝利されたのです。
 主イエスは、まことに謙遜な方でした。馬小屋にお生まれになった時から十字架の死に至るまで、主イエスは小さな者、弱い者、罪人と共にあられました。主イエスの与える平和は、戦車をもって、軍馬をもって、弓をもって、相手を打ち負かすことによって与えられるものではありません。戦車も軍馬も弓も断たれるのです。愛と信頼による平和です。だから、ろばの子に乗られたのです。力の王、武力の王は馬に乗るのでしょう。主イエスはろばに、しかもろばの子に乗られた。足は地面に着いてしまいそうな、滑稽にも見えるような姿ではなかったかと思います。弟子たちも群衆も、この時どうして主イエスがそのような滑稽な姿をとられたのかが分からなかった。しかし、主イエスの勝利が、主イエスのまことの王としての権威と力が、人間の一切の罪と死に対してであることを、主イエスの十字架と復活をもって知った時、どうして主イエスがろばの子に乗られたのかを知ったのです。そして、自分たちは何も知らなかったけれど、主イエスは、神様は、すべてを御存知であったということを知り、驚きをもって出来事を思い出したのです。

5.人の誤解をも用いて
 弟子たちも群衆も、この時主イエスが何を見、神様が何を御計画されているのかを知りませんでした。しかし、それは彼らだけではありません。私共もまた、今という時を懸命に生きておりますが、それがどういう意味を持つことになるのか、よく分かりません。しかし、今朝私共がこの御言葉から示されておりますことは、私共は知らなくても、主イエスは、神様は御存知であるということです。そして、それさえはっきり分かれば、私共はそれで十分なのではないでしょうか。本当にそう思うのです。たから、占いなど私共には全く必要がないのです。更に言えば、よく分からないが故に誤解もする私共ですが、その誤解さえも神様は御自身の御計画の中で意味を持たせ、用いられるということです。この時、群衆が叫んだ言葉の一つ一つは、本人の意図を超えて、主イエスに対してまことにふさわしいものでありました。また、全くの誤解の上でのことであったとしても、主イエスがまことの王としてエルサレムにおいて十字架に架かり、死んで三日目によみがえるという栄光をお受けになる時に、「イスラエルの王」、神の民の王として迎えられるのは、まことにふさわしいことでありました。
 神様は、人々の誤解さえも用いて、御心を成就させられるのです。人々が「万歳」の意味で用いたであろう「ホサナ」という言葉は、元々「さあ、お救いください。」という意味です。ここでは「万歳」というニュアンスで人々は叫んだのでしょう。しかし、「さあ、お救いください。」と主イエスに叫ぶというのは、人々の意志を超えてまことにふさわしい言葉でありました。「イスラエルの王」もそうです。この「イスラエル」を、人々はイスラエル民族という意味で用いたのでしょうけれど、神様は神の民という意味で用いて、全世界に広がる新しい神の民、キリストの教会の王としての称号とされた。
 この時既に、ファリサイ派の人々は主イエスを殺すことを決めておりましたけれど、人々があまりに熱狂的に主イエスを迎え、取り巻いたものですから、手を出すことが出来なくなり、19節「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」と言ったというのです。もう自分たちの手に負えない、もう自分たちは何も出来ないと言ったわけですが、これもまた彼らの意図を超えて、主イエスの十字架というものが、彼らの手によって下されたのではなく、神様の御手の中で起こされたということを暗に示すことになってしまっているのです。
 私共の神様の御心にふれての誤解、無理解、無知、そういうものさえも用いて、神様は御計画を成就されるのです。この神様の絶対的な御支配を信じ、信頼して、私共は自分の為すべきことをしていけば良いのです。

6.私の誤解
 私は現在、長老教会の牧師という自覚の中で歩んでいる者ですが、実は、その出発は全くの誤解と無知から始まったのです。18才で初めて教会に行きましたのは日曜日の午後でした。すべての集会は既に終わっており、呼び鈴を鳴らすと牧師が出て来られました。その時私は、日曜日の午前に礼拝をしているということさえも知りませんでした。ただドストエフスキーの本を読んだりして、教会という所へ行ってみたい、キリスト教というものを知りたい、そんな軽い気持ちでした。その時の牧師との話の中で、この教会は長老教会ですよと言われたのです。長老と言えば、『カラマーゾフの兄弟』に出て来る長老ゾシマしか知らなかったものですから、長老というのは偉い人ですねと言うと、そうですと言う。何人ですかと言うと、8人ですと言う。長老ゾシマのような人が8人もいる。これは大変な教会だ!この教会に来週から来よう。そう思ったのが始まりです。今になれば笑い話です。しかし、神様はそのような無知、誤解さえ用いて、私を導かれたということなのだと思うのです。

7.主を信頼して
 私共は自分の弱さや愚かさにばかり目が向きがちです。しかし、それは私共の信仰のまなざしではありません。この主イエスのエルサレム入城において示されていることは、その人間の愚かさや罪さえも用いて、神様は御心を成就されるということなのです。主イエスの十字架という出来事自体がそういうものなのです。主イエスを信じるということは、この人間の弱さや愚かさや罪さえも用いて、救いの御心を成就される神様の御支配、主イエスの知恵と力と憐れみに信頼するということなのです。この神様に対しての信頼の眼差しをもって生きる。それがキリスト者なのです。私共はこの神様の御手の中に生かされているのです。私共は弱い。しかし主イエスは強い。私共は愚かで、何も知りません。しかし主イエスは賢く、すべてを知っておられる。私共に愛はない。しかし主イエスは愛に満ちておられる。私共はこの方の御手の中にあるのです。そのことを知らされた私共は、今、私共をそしてこの世界を、御支配しておられる神様を心からほめたたえつつ生きる者とされているのです。 

[2012年3月11日]

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