1.愛していても、主イエスは動かれない時がある
「ある病人がいた。」と聖書は告げます。病人の名はラザロ。彼は主イエスが愛していた者でした。多分、ラザロもまた主イエスを愛し、主イエスを信じていた者であったと思います。主イエスとラザロとの間には愛の交わりがあった。主イエスが愛している者も、主イエスを信じ愛している者も、病気になるのです。重い病気にかかって死ぬ。そういうことが起きるのです。私共もそうです。主イエスを信じ愛していれば病気にならない。事故にも遭わない。そんなことはないのです。私共は愛する者が重い病気になれば動揺します。どうすれば良いのか、困り果てます。主イエスに、何とかしてくださいと祈ります。ラザロの場合も同じでした。ラザロにはマルタとマリアという二人の姉妹がいました。彼女たちは主イエスのもとに使いを出して、こう伝えました。3節「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」でも、使いの者は、「だから来てください。すぐに来て助けてください。」とは言いませんでした。それは言わなくても分かっている、当然のことなので言わなかったのでしょう。しかし、主イエスは、この知らせを受け、「分かった。今助けに行く。」と言って、すぐにラザロの所に駆けつけたのではありませんでした。二日間も同じ所に滞在されたままだったのです。主イエスがおられた所からラザロの所まで、歩いて一日か二日かかるほどの距離がありました。17節を見ますと「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」とありますから、主イエスが知らせを受けてすぐに出発されたとしても、二日早く着くだけで、ラザロが死ぬ前に着くことはなかったと思われます。主イエスはそれを知っておられたので、知らせを受けても、今すぐに行ってもどうせ死ぬのには間に合わない、それで二日間動かれなかったのでしょうか。
聖書は、主イエスが、ラザロもその姉妹のマルタとマリアも愛しておられたことを記しております。5節「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」これほどはっきりと、主イエスはこの兄弟姉妹を愛しておられたと聖書は告げているのです。主イエスはラザロのことも、マルタのことも、マリアのことも愛しておられた。それにもかかわらず、主イエスは二日の間動こうとはされなかったのです。
私共は、このことを良く考え、しっかり受けとめなくてはなりません。私共もこの姉妹と同じように、愛する者のために主イエスに願い、祈り、求めることがあります。しかし、ちっとも神様は働いてくださらない。事態は少しも変わらない。どんどん悪くなる。そして結局、自分が願い、祈り、求めていたのとは違う結果になってしまう。そういうことがあるのです。そのような時、その祈りが真剣であればあるほど、神様・イエス様に対しての信頼が揺らぐのです。神様は、イエス様は、本当に私の祈りを聞いてくださっているのだろうか、私を愛してくださっているのだろうか。そんな疑念が生まれてくるのです。しかし、この時も主イエスは愛しておられたし、主イエスはラザロの病気の知らせを聞かれなかったのではないのです。ちゃんと聞いておられた。しかし動かれなかったのです。同様に、私共の祈りも聞かれていないのではない。ちゃんと聞かれているのです。主イエスは、ラザロとマルタとマリアを愛しておられたように、私共をも愛しておられる。このことは少しも変わらないのです。しかし、働かないことがあるのです。いや、そうではなくて、働かないように見えるだけです。この時もイエス様は働いておられた。しかし肉体の死が来ることをお止めにならなかったと言うべきでしょう。この肉体が死ぬということは、誰も変えることは出来ません。私共も必ず死ぬのです。そして、その時は、神様の御手の中にあることです。医学の進歩でその時を多少遅らせることが出来るように見えたとしても、必ず死ぬことに変わりはありません。神様が定められた時がある。これを変えることは出来ないし、私共はこれを受け入れるしかないのです。
2.神の栄光のために
問題は、ここで何故主イエスは二日間動かれなかったかということです。主イエスは4節で「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」と告げられました。この言葉は、9章において、生まれつき目の見えない人が主イエスによって見えるようにしていただく奇跡が行われる前にも語られました。この時主イエスは、生まれつき目の見えない人をいやされただけではなくて、そのことを通して、この人に御自身を信じる信仰を与えられました。とするならば、このラザロの病気を通しても、主イエスは奇跡を行い、信仰を与えるという出来事を起こそうとされていたということなのではないでしょうか。そのために主イエスは二日間動かれなかったのです。
主イエスは、「この病気は死で終わるものではない。」と告げられました。口語訳では、「この病気は死ぬほどのものではない。」と訳されておりましたが、これですと、ラザロの病気が死ぬほどの重大な病気ではないと言われているように誤解されかねません。そうではなくて、主イエスはここで、「死で終わるものではない」と告げられたのです。ラザロは死ぬのです。しかし、死で終わらないのです。何故なら、主イエスが復活させられるからです。主イエスは、この復活させるという奇跡を行うために、二日間その場から動かれなかったということなのです。死んで三日以上たたなければ、本当に死んだかどうか分からない。死んで二日なら、仮死状態であったのが息を吹き返したのだということになりかねない。主イエスは、本当に死んだラザロを復活させるために、二日間そこに留まったということなのです。
3.死で終わらせないことが出来るお方
弟子たちにはそのことが分かりません。ですから、主イエスが11節で「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われると、弟子たちは12節「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう。」と言うのです。
眠っているのであれば助かる。その通りです。しかし逆に言えば、弟子たちも、眠っているのであれば助かるけれど、死んでしまえば助からないと思っていたということです。弟子たちばかりではありません。私共もまた、そうなのではないでしょうか。しかし、主イエスは「死で終わらない」ことを知っておられたし、「死で終わらせない」力をお持ちでした。私共は今朝、このことに目を向けなければならないのです。主イエスに愛された者は、死では終わらない命に生きているということです。
主イエスは、ラザロが死んだことを御承知でした。その上で、11節「ラザロが眠っている。」と言われ、「わたしは彼を起こしに行く。」と言われたのです。私共のこの肉体の死は、主イエスから見れば、眠っているのと同じことなのです。何故なら、主イエスは死んだ者を復活させることがお出来になるからです。主イエスはラザロを起こされます。既に死んで四日たち、墓に葬られ、におい始めていたラザロに向かって、大声で叫ばれた。「ラザロ、出て来なさい。」すると、ラザロは復活したのです。
肉体の死はすべての終わりではないのです。確かに、人間の業はここで終わります。何をやっても無駄です。しかし、神の業は終わりません。復活させるのです。良いですか皆さん。私共の活動も、理解も、知恵も、肉体の死を超えることは出来ません。ですから、誰もが「死んだら終わりだ。」と思うのです。確かに、私共の出来ることは何もありません。しかし、主イエスにあってはそうではないのです。主イエスにあっては、この肉体の死を超えた命があるのです。それは、信仰によってのみ信じることが出来、信仰によってのみ受け取ることが出来る命です。私共が主イエスを信じ、主イエスを愛するということは、このラザロが肉体の死の後に主イエスによって復活させられたように、私共もまた、主イエスによって復活させられる道が与えられているということなのです。主イエスが愛し、主イエスを愛していたラザロは、肉体の死では終わらなかったのです。「ラザロ、出て来なさい。」と主イエスが叫ばれると、墓から出て来たのです。これとおなじことが私共にも備えられているのです。死がすべての終わりでないということ、このことを私共はしっかり受けとめなければなりません。人間の一切の希望が失われた所で、ただ神による希望、主イエスによる希望がはっきりと姿を現すのです。
4.東日本大震災のこと
東日本大震災で約2万人もの方々が亡くなりました。その一人一人にその方を愛する者がいた。その結果、何十万という方々が、愛する者の死を前にして打ちひしがれたようになった。今もその状態は続いています。キリストの教会は、この現実に向かって何を語れるのか。これは実に重大な問題です。キリスト教の神は愛の神ではなかったのか?厳しい問いです。キリスト教の学校の教師たちは、皆この問いの前に立たされた。生徒たちから、父兄から、声にならぬ声で問われ続けた。「何故、神様はこのようなことを起こされたのか?」この問いに答えることは誰も出来ません。私も分かりません。しかし私共は、「神様は、イエス様は、被災された方々を愛しておられたし、今も愛しておられる。このことは少しも揺らいでいない。」とはっきり言うことが出来ますし、このことを語り続けなければならないのだと思います。
人間の目に見える希望がすべて失われた、家も土地も財産も愛する人までも。しかし、私共の命が死で終わらないとするならば、その主イエスにあっての希望は、この時も変わらずに備えられているはずなのです。主イエスが必ず起こしてくださるのです。死んだ者さえ起こしてくださる主イエスは、どんな困窮の中にいる者さえも起こし続けて来られたし、今も起こすことがお出来になるし、これからも起こし続けてくださるのです。この二千年の間、国を失い、家を失い、愛する者を失った人々に、主イエスは「起きよ。」と告げ、起こし続けて来られた。私共は、この主イエスの肉体の死を超えた命の声を告げる者として、この主イエスの希望の力に生きる者として、困窮の中にある人々に仕えていかなければならないのでしょう。
5.御自身の十字架を見据えながら
さて、主イエスはこの時、ヨルダン川の向こう側におられたのですが、その理由はエルサレムにおいて人々が主イエスを捕らえようとし、石を投げようとしたからです。主イエスはそれを逃れて来たのです。ラザロがいた所は、エルサレムから3kmほどのベタニアの村でした。エルサレムの近くに戻るということは、再び殺されそうになるかもしれないということを意味していました。ですから、7節で、主イエスがラザロの所に行くために「もう一度、ユダヤに行こう。」と言われると、弟子たちは8節「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言ったのです。それに対しての主イエスの答えは、9〜10節「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」でした。これは、少し分かりにくい言葉ですが、9章で生まれつき目の見えない人をいやされた時に、9章4〜5節で言われた言葉と同じ意味だと思います。つまり、昼間のうちにやらなければならないことは、昼間のうちにやっておくのだ。自分はもう少しで十字架に架けられることになる。そうなる前に、これはやっておかなければならないことだ。主イエスがここで言われたのは、そういう意味だと思います。
主イエスはここで、御自身の十字架を見ておられるのです。ラザロのことだけを見ているのではないのです。それが、4節で「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言われた折の、「神の子がそれによって栄光を受けるのである。」という言葉の意味です。ヨハネによる福音書では、主イエスが栄光を受けるとは、十字架にお架かりになることです。実際、ヨハネによる福音書においては、このラザロを復活させるという奇跡が、主イエスが十字架に架けられることになる直接のきっかけであったと、11章45節以下に記されております。主イエスは、十字架にお架かりになることを御承知の上で、否、そうなるために、ラザロを復活させられたとも言えると思います。ラザロの復活は、それまでことごとく対立していたファリサイ派の人々との対立を決定的なものとするほどの重大な奇跡でありました。それはこの奇跡が、主イエスが誰であるかということを、否定出来ないあり方で人々に示したからです。
6.御自身の復活を見据えて
それと同時に、このラザロの復活の出来事は、十字架に架かり、三日目に復活される主イエスに対しての信仰を弟子たちの中に確かなものとする、弟子教育の最終プログラムという意味もありました。それが、14〜15節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」と主イエスが言われていることの意味だと思います。
主イエスの御復活という出来事は、そうそう信じられることではありません。主イエスの弟子たちは、実際に復活の主イエスに出会うまで、信じることが出来ませんでした。しかし、このラザロの復活の出来事は、復活された主イエスと出会った弟子たちが、本当に主イエスというお方は死に支配されない、死を破り、死を超えた方であると信じることが出来るようにし、また、ラザロのように自分たちも主イエスによって復活する、肉体が死んでも主イエスによって起こしていただける、そのことを信じることが出来るようにした出来事だったのです。
この時は、弟子たちにはそれが分かりません。ですから、トマスは16節「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」と言ったりしているのです。命を狙われるエルサレムにまた行くということはそれほど危険であったし、トマスはそれを覚悟したということなのです。もっとも、それがどれほどの覚悟であったかは、別の問題です。いずれにせよ、弟子たちはこの時まだ、肉体の死を超えた、主イエスに起こしていただける永遠の命というものに目を向けることは出来ませんでした。死というものは、それほど決定的な力をもって私共を支配しているものなのです。しかし、主イエスにあってはそうでないことを、天地を造られたただ独りの神の御子からすればそうではないことを、私共は今朝示されました。
ただ今から与る聖餐は、この死を超えた、主イエスにある命に向かって目を向けさせます。私共は、この聖餐に与ることによって、主イエスと一つにされていることを味わい知るのです。主イエスの復活の命が、このパンと杯と共に私共に与えられます。私共は、ラザロ以上に主イエスと一つであり、主イエスとの愛の交わりに生かされていることを知るのです。この聖餐によって私共に示される命は、何によっても奪われることはありません。私共はこのことをしっかり受け止めて、この一週も歩んでまいりたいと願うものです。
[2012年2月5日]
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