富山鹿島町教会

礼拝説教

「神から遣わされたヨハネ」
イザヤ書 40章1〜11節
ヨハネによる福音書 1章6〜13節

小堀 康彦牧師

1.アドベント第4の主の日を迎えて
 アドベント第四の主の日を迎えております。いつもの年ですと、私共の教会は今日がクリスマス記念礼拝となるのですが、今年はちょうど25日が主の日ですので、アドベント第四の主の日の礼拝を守っているわけです。アドベント・クランツの4本のロウソクすべてに火が灯されましたが、まだクリスマスではありません。今年のアドベントが始まります時に、執事の方たちが、「今年は25日が主の日だから、4本のロウソクすべてに火が灯されるのはアドベントの第四の主の日の18日だ。25日はどうするのだろう。」と話しておられました。いつも第四の主の日にクリスマス礼拝をしてしまうので、25日が主の日でクリスマス礼拝をする場合はどうするのか忘れてしまったということなのでしょう。気付いた方もあると思いますが、玄関のアドベント・クランツには、4本のロウソクの他に大きく太いロウソクがあります。25日のクリスマスには、この太いロウソクにも火が灯されるのです。アドベントの4本のロウソクは、この太いロウソクが灯されるまでの時を示しているものなのです。
 さて、昨夜、富山市内の三つの教会の中学生・高校生が私共の教会に集まりまして、中高生クリスマス会が行われました。礼拝を守り、食事をし、それぞれの教会から出し物があり、プレゼント交換をしました。生徒たちの人数は多くはありませんでしたけれど、皆、夏の中高生修養会に参加している子たちであり、毎年このクリスマス会にも来て、何度も顔を合わせている子たちばかりでした。私共の教会の中高生の出し物は、最近は生徒たちが台本を書いて演じる劇と言いますか、コントと言いますか、大変優れたもので、笑いが止まりませんでした。25日のクリスマス祝会でも演じるということですので、楽しみにしていただいたら良いと思います。そして帰り際に玄関で、富山新庄教会の高三の女の子が「来週洗礼を受けます。」と報告してくれました。小学6年生の時からお姉さんについてこの中高生クリスマス会に参加していた子です。「夏の中高生修養会に参加したのがきっかけだった。」と言っていました。とても嬉しく思いました。他の教会の教会学校の子の洗礼の知らせを受けて喜べる。これも、このような交わりがあればこそのことです。神様の救いの御業は、自分の目の届く所をはるかに超えて、広く大きく進んでいることを思わされるのです。

2.神様の御業は広く大きく
 神様の救いの御業は、私共の目に見える身近な所を超えて、広く大きく展開している。それは当たり前のことです。しかし、そのことを私共は改めて心に刻みたいと思うのです。この広がり、この大きさは、神様の御業が今も全世界において展開しているという空間的な広がり、大きさだけのことではありません。時間の広がりにおいてもそうなのです。私共が何才の時に主イエスと出会って救われたか、それは大切なことです。しかし、その私の救いの出来事は、もっと長く大きな神様の救いの御業、天地創造から終末に至る、実に壮大な神様の御計画の中での出来事であるということなのです。
 私が救われた。それは二千年前に主イエスが来られたからです。主イエスが私のために、私に代わって十字架にお架かりになってくださったからです。そして、弟子たちによって、二千年にわたって全世界にその救いが宣べ伝えられ続けて来たからです。125年前にこの教会が建てられ、主の日の礼拝が守られ続けて来たからです。そして、主イエスがお生まれになったのも、そのずっとずっと前から神様が御計画され、預言者たちを通して語って来られたことの成就だったのです。アドベントのこの時、私共はこの神様の壮大な救いの御業というものに心を向けるのです。そして、私共に与えられた救いというものが、どれほど揺るぎない確かな神様の御業であるかということを心に刻むのです。

3.福音書が洗礼者ヨハネを語る理由
 今朝与えられております御言葉は、ヨハネによる福音書1章6節「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」です。今朝は、この一句に集中して御言葉を受けたいと思っています。四つの福音書は、主イエスについて語ります前に、洗礼者ヨハネについて記します。マタイもマルコもルカもヨハネも、皆そうです。クリスマスを迎えようとしているこの時、私共はマタイやルカが記すクリスマスの出来事の話を何度も聞きます。そこには、聖霊によって身ごもることになると告げられたマリアの話や、マリアと離縁しようとしていたヨセフの話があります。不思議な星に導かれた東方の博士たちの話、救い主の誕生を知らされた羊飼いたちの話など、おなじみの話が記されています。しかし、マルコによる福音書は、クリスマスの出来事については何も記しておりません。また、ヨハネによる福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」という言い方で、主イエスの誕生を語るだけです。しかし、洗礼者ヨハネについては、四つの福音書のすべてが、主イエスについて語り出す前に必ず記しているのです。ルカによる福音書などは、主イエスの誕生の物語に先立って、洗礼者ヨハネの誕生の次第が記されているほどです。
 どうして、四つの福音書はどれも、主イエスについて語り出す前に洗礼者ヨハネについて語っているのでしょうか。理由は二つあると思います。一つは、福音書が記された当時、紀元後1世紀の末の頃のことですが、洗礼者ヨハネの弟子たちが、ヨハネ教団とでも言うべき集団を作って存在していたのです。しかも、洗礼者ヨハネは、人々が全ユダヤからやって来てヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたほどに、強い影響力を持った人であった。だから、ヨハネについて記さないわけにはいかなかったというのです。簡単に言えば、この頃洗礼者ヨハネは、とても無視出来ない大きな存在であったということです。それも理由の一つなのだろうと思いますけれど、しかし、もっと重大な理由があったのです。それは、各福音書は洗礼者ヨハネを記すことによって、主イエス・キリストというお方こそ預言者たちが預言していたまことの救い主、メシアであるということを示そうとしたということです。つまり、主イエスというお方は、何の前ぶれもなく突然やって来たというようなお方ではなく、何百年も前から預言者たちによって預言されたお方であり、その証拠に、洗礼者ヨハネが主イエスより先に遣わされて、救い主イエスの道を備え、整えたのだということなのです。主イエス・キリストというお方は、永遠の神様の救いの御計画の中で誕生され、救いの御業を遂行された方だ。そのことを証しする者として、洗礼者ヨハネが神様から遣わされたのだということなのです。このことは、主イエス・キリストと旧約聖書の繋がり、連続性を示しているわけです。旧約聖書に示された神様の救いの御計画が、主イエスによって成就した。その証拠として、洗礼者ヨハネが遣わされたということなのです。

4.イザヤ書40章の預言「慰めよ、わたしの民を慰めよ」
 ここで改めて、洗礼者ヨハネと、それによってもたらされる救い主イエスによる救いを指し示している預言の一つであるイザヤ書40章を見てみましょう。このイザヤ書40章が記されたのはバビロン捕囚の時代であったと考えられています。主イエスが生まれるより600年ほど前です。すでにユダ王国は世界帝国バビロンによって滅ぼされており、ユダの民の主だった人たちはエルサレムから1000km以上離れたバビロンに連れて来られていました。祖国を失い、異国に連れて来られたユダの人々。もうこれですべては終わった。アブラハム・イサク・ヤコブの神によって選ばれ、神の民とされた自分たちの歴史は終わった。そう皆が思っていた。そういう時代です。
 しかし、神様はそうは思っておられなかったのです。40章1〜2節「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」と預言者イザヤは告げたのです。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」です。もうダメだ。すべては終わった。自分たちに明日はない。神様から自分達は見捨てられた。そう思っていた神の民に向かって、「慰めよ。慰めよ。」との御言葉が与えられた。どう慰めるのか。2節「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」ユダの民は、神の民でありながら神様に従わず、神様をないがしろにし、その結果、国は滅んだ。人々はバビロンに連れて来られた。しかし、その神様の懲らしめの時は終わった。懲役の期間は終わった。刑期は満了した。だから、解放されるのだ。これから新しい救いの時が始まるのだ。そのように慰めよと、イザヤは神様から御言葉を頂いたのです。

5.イザヤ書40章の預言「荒れ野に道を備えよ」
 3〜5節「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」
 この「呼びかける声」これが洗礼者ヨハネのことなのです。というのは、ヨハネによる福音書1章22〜23節において「そこで、彼らは言った。『それではいったい、だれなのですか。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。』ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と。』」とありますように、洗礼者ヨハネ自身が、自分のことをこの「呼びかける声」だと言ったのです。  そして、この声が告げることが、「荒れ野に広い道を通せ。主の栄光が現れる。」ということでした。この荒れ野に通される広い道というのは、バビロンからエルサレムに向けてまっすぐに延びる道です。谷は埋められ、山はけずられ、ただただまっすぐに伸びる、一本の広い道です。バビロンからエルサレムまで1000km以上あるのですから、富山から青森よりもっと先です。そこに一本の真っ直ぐな広い道が通される。そんな大工事は今だって出来ないだろう。まして、イザヤが預言をした今から2600年も前に出来るはずがない。それはそうなのです。しかし、これは実際に土木工事をしてこのような道を造ろうと言っているのではないのです。この預言は、ユダの人々のバビロン補囚からの解放のイメージを告げているのです。つまり、ユダの人々は、神様によってバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還する。バビロンからまっすぐエルサレムに向かって、隊列を組んで、堂々と行進していく。それを誰も邪魔することは出来ない。その列の先頭には主がおられる。主が勝利の王として、凱旋パレードのようにユダの人々の先頭に立ち、人々を連れて、エルサレムに戻っていく。そのための道を備えよというのです。
 そして、このバビロン捕囚からの解放の預言は、まことの救い主の到来をも預言していました。だから、洗礼者ヨハネは、自分がこの荒れ野で呼ばわる者の声だと告げ、その後に来る方すなわち主イエス・キリストこそ、一切の罪の縄目から人々を解放し、全き救いへと伴ってくださる方。サタンに勝利し、凱旋パレードに私共を伴ってくださる方。この方の歩む道はまっすぐな広い道で、この方の進み行くのを誰も止めることは出来ない。そのことを知らせる者として、洗礼者ヨハネは主イエスの前に神様から遣わされて来たということなのです。

6.イザヤ書40章の預言「神の言葉はとこしえに立つ」
 さらに声は言います。6〜8節「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
 「肉なる者は皆、草に等しい」「草は枯れ、花はしぼむ」のです。多分、バビロン捕囚によって連れて来られた第一世代の多くがすでに世を去っていたのではないかと思います。確かに、人は草のように枯れます。主の裁きとしてのバビロン補囚という現実の中で多くの者がこの世を去っていったのです。しかし、「神の言葉はとこしえに立つ」のです。神様が語られた言葉は、必ず実現するのです。ここに神の民の希望があります。私共の希望は、ここにしかないのです。私共も時が来れば、この地上の生涯を閉じなければならない。しかし、神様の言葉は決して反古になることなく、実現していくのです。
 この草と言われた肉なる者の中には、ユダを支配していたバビロンという巨大な国家もまた含まれていたにちがいありません。バビロンも滅びるのです。そして、ユダの民は解放される。主がそのように語られたからです。神様がそのようにお決めになったからです。「神の言葉はとこしえに立つ」のです。事実、バビロンはペルシャによって滅ぼされ、ユダの民はバビロン補囚から解放されたのです。
そして、この「とこしえに立つ神の言葉」こそ、人となりたる神の言葉、主イエス・キリストに他なりません。神様が永遠の救いのご計画を成就するために送られた神の独り子、救い主。この方によって実現される神様の救いの御業を止めることは誰にも出来ません。そのことを証しするために、ヨハネは来たのです。ヨハネがこの荒れ野で呼ばわる声であることを明らかにし、その声によって示される神様の救いが主イエス・キリストによって実現されることを語るために、福音書は洗礼者ヨハネのことを記さないわけにはいかなかったということなのです。

7.神様の御手の中にある自分の明日を信じて、今を生きる
 旧約聖書に記されている神様の救いの御業の繋がりの中で、救いの御計画の成就として主イエス・キリストは来られました。主イエス・キリストの誕生、そして十字架・復活・昇天の出来事は、天地創造から終末に至る神様の御支配の中で与えられた出来事なのです。神様の救いの御業は、ずっと継続しているのです。この神様の御支配の中で、私共一人一人はこの世での命を受け、主イエスと出会い、救われ、永遠の命に与る者とされたのです。主イエスの御降誕が神様の御計画の中でのことであるとするならば、それによってもたらされた私共の救いもまた、永遠の神様の救いの御計画の中での出来事なのです。そして、私共の救いが神様の御業であるとするならば、その後に続く一日一日もまた、神様の救いの御手の中にあるはずであります。アドベントの日々、私共が心に刻むべきはこのことなのです。主イエスは再び来られる。神様が預言されたように、神の民はバビロン捕囚から解放され、救い主を送られた。そして、私共は救われた。とするならば、私共のこの地上での歩みは、主イエスが再び来られる日に与えられる全き救い、体のよみがえり、永遠の命へと続いているはずなのです。神様がそのように約束してくださったからです。この約束の中で、私共は、神様の御手の中にある自分の明日を信じて、今を生きるのです。自分の見通しや自分の計画としてある明日ではありません。そのような明日は必ず破れる。必ずです。しかし、主の言葉はとこしえに立つのです。私共に希望と勇気を与える、神様の御手の中にある私共の明日は、決して破れることはないのです。ここに私共の希望があります。

[2011年12月18日]

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