1.アドベントを迎えて
今日からアドベントに入ります。クリスマス・リースやクリスマス・ツリーも飾られ、アドベント・クランツのローソクは1本目が灯りました。先週は、あいあいの会やノアの会のお母さんたちがクリスマス・リースを作られました。一階の会議室がクリスマス・リースを作る作業場になっているのですけれど、週報にありますように、いつでも解放しておりますので、自由に作りに来ていただきたいと思います。あいあいの会やノアの会のお母さんたちには、クリスマス・リースは必ず二つ以上作るようにと言っております。一つは自分の家のために、そしてもう一つ、二つでも三つでも良いのですが、それは友達でも両親でも良いですから愛する人のために作りましょうと言っております。自分の家のためだけに作らないようにという意味です。そのような決まりがあるわけではありません。しかし、神様の愛を心に刻むクリスマスの備えとしてリースを作るのに、自分の家のことしか考えないというのはまことに相応しくないと思うからです。あの人のため、この人のためにとリースを作る中で、クリスマスを迎える心が備えられていく。それもアドベントの一つの過ごし方なのだろうと思います。私共には自分のこと、自分の家族のことしか考えることが出来ないという狭さがあります。クリスマスは、その狭さから私共を解放し、あの人のこと、この人のことへと心を向けさせる。そのような時として神様が備えてくださったのではないかと思うのです。
教会のクリスマスのチラシもキャンドル・サービスの案内ハガキも出来ました。これらも、私共と一緒にクリスマスを喜び祝いましょうと友達や愛する人々をお誘いするためのものです。自分だけがクリスマスの喜びに与れば良いのではないのです。一人でも多くの人と主イエスの御降誕を喜び祝うために、このアドベントの時を過ごしていきたいと思うのです。
2.主イエスがわたしたちを自由にする
さて、今朝与えられた御言葉において、主イエスは「真理はあなたたちを自由にする。」と告げられました。この言葉は、聖書の言葉とは知られずに一般的に使われている言葉の一つではないかと思います。大学や図書館などにこの言葉が掲げられていることが多いようですが、日本の国会図書館の受付の所にもこの言葉が掲げられています。もっとも、国会図書館に掲げられている言葉は少し変えてあって、「真理はわたしたちを自由にする」となっています。この場合の真理というのは、自然科学の真理であったり、社会学的真理であったり、哲学的真理であったりするものでしょう。確かに、それらの真理によって迷信から自由になったり、社会の差別や偏見から自由になったり、生産手段が機械化されて貧困から自由になったりして来た人類の歴史があるわけです。「真理が人間を自由にする」ということは、確かにそうだと思うわけです。
しかし、主イエスがこの言葉を語られた時、この真理というのは、そのような一般的な諸々の真理を指していたのではないのです。主イエスは、ヨハネによる福音書14章6節において「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われました。実に主イエス・キリスト御自身が、ここで言われている真理そのものなのです。主イエス・キリストという真理そのものであられる方が、私共を自由にしてくださるということなのです。
3.罪の奴隷の状態からの自由
では、この主イエスが与えてくださる自由とは、どんな自由なのでしょうか。第一に、それは罪の奴隷の状態からの自由ということです。34節で主イエスは、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と言われます。この言葉を読んでドキッとしない人はいないでしょう。自分も罪の奴隷なのだろうか。そんな風に考えてしまう人もいるかもしれません。確かに、私共はキリスト者となってもなお、罪を犯すことが無くなるということはありません。しかしそれは、ここで罪の奴隷と言われていることとは少し違うと思います。主イエスと出合う前、私共は自分が罪人であるということを知りませんでした。罪の闇の中に生きていても、自分が闇の中にいるということも分かりませんでした。それは、一般的な真理が私共を自由にする前と同じです。医学が進んで、私共は何かのたたりで病気になったのではないということが分かるようになった。しかし、ついこの間まで、ハンセン氏病は天刑病などと呼ばれ、天からの刑罰によってこの病気になったなどと考えられておりました。当時の人々は病気の原因が分からないのでそのように考えていたわけですが、今はそのように考える人はいません。原因が分かって、そのような考えから自由になったのです。しかし、原因が分かるまではただ恐れるしかなかったし、その恐れに支配されていたわけです。それが奴隷の状態です。しかし、原因が分かった今、無闇に恐れることはなくなりました。それに対抗することが出来るようになったからです。病気が全く無くなったというわけではありません。しかし、これに対抗することが出来るようになった。これが奴隷の状態から自由にされたということなのです。
主イエスと出合う前、私共は自分が罪人であるということも分かりませんでしたし、自分の罪というものを知ることもありませんでした。ですから、「皆がやっている」、「当然のことではないか」、「そうするのが自然だ、何が悪いのか」という具合でした。自然であるから悪くない、罪ではない。そんなことはないのです。罪とは、まさにその自然のままの人間の状態のことなのです。しかし、主イエス・キリストという方と出会って、私共は自分の愛の無さに気付かされ、自分のことしか考えられない狭さに気付かされました。何と感謝することを知らない者であったかを知らされました。知らず知らずのうちに人を傷つけていたということを知らされました。私共は自分の弱さ、愚かさの故に、なおも罪を犯すことがあるでしょう。しかし、それが罪だということを知り、悔い改めるということ、神様に赦しを求めるということを知った。それは最早、罪の奴隷ではないのです。罪に抵抗し、これと戦い、神様の御心に適う歩みをしようと願っているなら、それは最早罪の奴隷という状態ではないのです。罪の奴隷とは、自らの罪を知ることもなく、それ故に神様に赦しを求めることも悔い改めることもない状態のことを言うのです。主イエス・キリストという真理そのものであられる方によって、私共はこの罪の奴隷の状態から解き放たれ、自由になったのです。自らの罪を知り、これに抵抗し、これと戦う者となったのです。
4.父なる神様との親しい交わりの中に生きる自由
第二に、主イエスが与えてくださる自由は、父なる神様との親しい交わりの中に生きる、神様の子として生きる、神の国に向かって生きるという道を私共に与えるということです。自由というものが、私共にとってなくてはならない、人間が人間として生きるために不可欠なものであることは、改めて言うまでもないでしょう。しかし、私共が自由ということを考える時、それは「○○からの自由」というものをイメージしているのではないかと思います。例えば不当な抑圧からの自由というものです。政治的・思想的な自由などはこれを指しているでしょう。これが大切なものであることは言うまでもありません。貧困からの自由というのも大切です。このような大きな価値のある自由を得るために人類は多くの血を流してきたことも事実です。しかし、自由というものにはもう一つの側面があるのです。それは、「○○からの自由」だけではない、「○○への自由」というものです。私共を抑圧する一切のものから自由になったとして、それだけで私共は本当に自由になれるのか、自由であり続けることが出来るのかということです。
私共が罪の奴隷の状態から解放され、自らの罪を知り、神様に赦しを求め、悔い改めることを知ったとして、その後どうするのかという問題が残るわけです。主イエスが与えてくださる自由というものは、自らの罪から自由になった者は、その後に神様との親しい交わりの中に生きる、神の子として生きる、神の国を求めて生きるという歩みへと繋がっていかなければならないし、そのような歩みへと導かれていくものなのです。もしそれがなければ、私共は再び罪の奴隷の状態へと墜ちていってしまうのではないでしょうか。
主イエスは、35〜36節で「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」と言われました。奴隷は売買の対象ですから、別の人に買われていくことがあるわけです。しかし、子は父といつまでも一緒にいることが出来ます。売られていくことはないのです。もっとも現代の日本においては、奴隷もおりませんし、子もいつまでも親元にいるようでは困ります。家を出て自立してもらわなくてはなりません。だから、このたとえはあまりピンと来ないかもしれませんけれど、言わんとしていることは分かるでしょう。父なる神様の本来の子である主イエス・キリストが私共を自由にしてくださるならば、私共はいつまでも父なる神様の子として、神様との親しい交わりの中に生きるようになるということです。この神様の自由の中に生きること、これが救われるということです。
5.主イエスの言葉にとどまる
このように、真理そのものである主イエス・キリストは、私共を罪の奴隷の状態から解放し、私共が父なる神様との親しい交わりの中に生きるようになると約束してくださいました。しかし、ここには一つの条件があるのです。それは、「わたしの言葉にとどまるならば」ということです。主イエスは言われました。31〜32節「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」主イエスの言葉にとどまる。それは、主イエスの言葉を受け入れ、主イエスの言葉に根を下ろし、主イエスの言葉を信じ続けるならばということです。一時主イエスの言葉を信じただけでは駄目なのです。この主イエスの言葉は、31節にありますように「御自分を信じたユダヤ人たち」に向かって語られたのです。主イエスを信じない人に向かって言われたのではないのです。彼らは主イエスを信じた。しかし、主イエスはここで、「信じ続けなければ、本当に主イエスの弟子となることは出来ないし、主イエスが真理そのものであることを知ることも出来ないし、主イエスによって罪から自由にされて父なる神様との親しい交わりの中に生きることも出来るようにはならない。」と言われたのです。ここで主イエスは、御自身を信じるということは一時のものであってはならない、生涯を通じてのものでなければならないことを明らかにされたのです。
今、お二人の方の洗礼と、お一人の転入のための準備の会をしております。この方たちが、生涯、主イエス・キリストの言葉の中に根を張り、主イエスを愛し、主イエスと共に歩んでくださることを心より願って、祈りつつ準備の時を持っています。洗礼を受けるということは素晴らしいことです。しかし、残念なことに、洗礼を受けた人すべてが、生涯忠実な主の僕としてその歩みを全うするわけではないということを私共は知っています。また、しばらく教会を離れていた人が戻って来て、その後忠実な歩みをすることがあることも知っています。洗礼を受けた後どうなるのか、それは誰にも分かりません。羊を飼うべき務めを主から与えられている牧師として、考えるべき所は多くあります。洗礼を授ける時に教理の学びや祈りの訓練をもっとしなければとか、教会での交わりの中で歩むように配慮するとか、日々聖書に親しむようにさせるとか、いろいろあります。しかし、詰まるところは本人の問題なのです。これは牧師としての務めを放棄して言っているのではありません。私共の人生には様々なことが起きるのです。そういう中で礼拝から足が遠のくのか、それでも主の御言葉にとどまり続けようとするのか、それは私共一人一人に任された責任なのです。誰のせいにも出来ないのです。
主イエスがここで御自身を信じた者たちに向かって、「わたしの言葉にとどまるならば」と言われたことを、よくよく心にとめたいと思うのです。信じていない者に言われたのではない。信じた者に向かって言われたのです。主イエスは、私共の信仰というものがいかに頼りないものであるかを、良く知っておられるのです。
「主イエスの言葉にとどまる。」それは難しいことではありません。主の日の礼拝を守る。聖餐に与る。朝の礼拝に集えないのなら、夕礼拝に集う。それも出来ないのなら、祈祷会に集う。一週間のうち、一度も聖書の解き明かしに与らないということがないようにする。そして、毎日聖書を読んで、祈りの時を持つ。そして、愛の業に励む。それを続ける以外にありません。その生活を保っていかなければ、私共は主イエスの御言葉の中に根を張り、そこにとどまり続けることが出来なくなってしまう、そういう弱い者なのです。放っておけば、いつの間にか罪の奴隷の状態に逆戻りしてしまう、そういう者なのです。誰も自分の力で信仰を保つことは出来ません。聖霊なる神様の守りと支えと導きがなければ、私共は自分の信仰を保つことが出来ないのです。そして、聖霊なる神様は、聖書の言葉と共に私共に働いてくださるのです。
最初に、クリスマス・リースを作ることの話をしました。これは直接聖書の言葉を読むということではありません。しかし、あの人この人に主イエスの愛を、クリスマスの喜びを伝えたいとの思いを持って為される業です。私は、これもまた「主イエスの言葉にとどまる」業だと思っています。クリスマスのチラシを配るのも同じです。自分の労力、時間、富をささげるところに、私共の心もあるからです。主イエスは、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイによる福音書6章21節)と言われました。主イエスの言葉にとどまるために、私共は具体的な自分の時間、労力をそこに向かって用いなければならないのだと思います。私共の信仰の歩みとは具体的なのです。今日から始まるアドベントの日々、主の言葉にとどまるために、主の御業にお仕えする業に時間と労力と富とをささげて歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。
[2011年11月27日]
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