富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしはある」
出エジプト記 3章11〜20節
ヨハネによる福音書 8章21〜30節

小堀 康彦牧師

1.私はある?
 今朝の説教の題は「わたしはある」としました。教会の案内板に貼ってあります今朝の説教題を見まして、自分で付けた題なのですけれども、何とも分からない、変な題を付けてしまったと思いました。「わたしはある」という題を見て、皆さんはどんなイメージを持たれたでしょうか。イメージを持つことも出来ないほどに分からない、そういう方もおられたかもしれません。しかし、今朝与えられております聖書の箇所を読んでこの説教題を見た方は、主イエスが8章24節で言われた「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」との御言葉から採ったということがすぐにおわかりになったのではないかと思います。この「わたしはある」という言葉は、28節においても繰り返されております。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ……が分かるだろう。」今朝与えられております御言葉を理解するためには、どうしてもこの主イエスが言われた「わたしはある」という言葉が何を意味しているのかが分からないとチンプンカンプンになってしまう、そういう重要な言葉だと思います。
 それにしても、「わたしはある」というのは日本語としてよく分からない言葉です。ですから、口語訳では「もしわたしが『そういう者であること』を信じなければ」と訳しておりました。「わたしはある」もよく分かりませんが、「そういう者である」というのも分かりませんね。「そういう者である」とはどういう者なのだ、と言いたくなってしまいます。新共同訳において、口語訳の「そういう者である」を、あえて『 』付きで「わたしはある」と訳し変えたのには理由があります。それは、この「わたしはある」と訳した方が原文に忠実であるということが第一の理由です。ギリシャ語の本文では、「エゴー・エイミー」となっています。英語で言えば、「I am」です。このヨハネによる福音書では、「わたしは○○である」という言い方がいくつも出て来ます。その場合「I am ○○」となるわけです。しかし、ここでは「わたしは○○である」の「○○」がないのです。どうしてないのか。「○○」が欠落しているので、それを補って読まなければならないと考える人がいます。しかし、そうではないと思います。それは、この言い方が、旧訳以来の非常に大切な、神様が御自身を言い表す時の言い方を受け継いでいるものだからです。口語訳の「そういう者である」では、そのことが全く表れていません。それで、新共同訳では、日本語としては分かりにくいけれど、あえて『 』を付けて、これは特別な言い方だということを示して、「わたしはある」と訳したのです。  この「わたしはある」というのがどこに由来するのかと言いますと、先程お読みしました出エジプト記3章14節に「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」とありまして、神様がモーセに御自身の名を告げられた時に「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と言われたわけです。神様がモーセに告げられた「わたしはある」という名を、主イエスが御自身に当てはめられた。それがこの「わたしはある」という言葉なのです。この「わたしはある」という言葉の意味は、「わたしはずっとあり続ける。天地が造られる前からわたしはおり、今もおり、これから後も天地が滅びるまでずっとあり続ける」という意味であると考えられます。或いは「わたしは全てのものをあらしめる、存在させる、造り出す者だ」とも考えられます。そしてまた12節において、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と言われておりますように、「わたしはどんな時にも、どんな状況の中でも、あなたと共にいる」という意味でもあるでしょう。
 主イエスは、「わたしはある」と自ら告げることによって、「わたしはあのモーセが出合った神と一つであり、わたしは神と共にずっとあり続ける者であり、あなたがたとずっと共にある者なのだ。」と宣言されたということなのです。
 今、「わたしは○○である」という言い方がヨハネによる福音書にはいくつもあると申しました。これはヨハネによる福音書独特の言い方と言っても良いものですが、全部で7つあります。聖書の箇所はいちいち挙げませんけれど、「わたしは命のパンである」「わたしは世の光である」「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは復活であり、命である」「わたしは道であり、真理であり、命である」そして「わたしはまことのぶどうの木」とあります。この7つの言い方はどれも、それぞれニュアンスや強調点は違いますけれど、主イエスが御自身を信じる者に命を与える方であるということを示しております。命を与えることが出来る方とは、天地を造られた神様以外におられません。ですから、この「わたしは○○である」というのは、「わたしはある」という神宣言のバリエーションと考えて良いのだと思います。

2.自分の罪のうちに死ぬ
 主イエスは「わたしはある」という方である、モーセが出合ったあの神様である、ということを信じる。そうすれば、私共は自分の罪のうちに死なない。しかし、信じないならば、自分の罪のうちに死ぬことになる。そう主イエスは言われました。「自分の罪のうちに死ぬことになる」という言い方は、今朝の短い御言葉の中に3回も繰り返し出て来ます。繰り返し語られるということは、それが大変重要なことだからです。人は必ず死ぬのです。この肉体は必ず滅びなければならないのです。問題は、その肉体の死ですべてが終わるかどうかということです。罪のうちに死ぬというのは、罪に対する神様の裁きとして死ぬことになるということですから、救いはありません。しかし、「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と主イエスは言われたのですから、主イエスを「わたしはある」という方であると信じるならば、主イエスをまことに神と一つであられる方だと信じるならば、私共は自分の罪のうちに死ぬことはない、救われるのだということになるでしょう。それは、私共の罪がなくなるということではありません。罪はある。罪を消すことは出来ません。なかったことにすることは出来ないのです。しかし、救われる。それは、私共に代わって、私共のために十字架にお架かりになってくださった主イエス・キリストの救いの御業が、私共を神様の永遠の裁きから守ってくださるからです。

3.主イエスが分かる
 28節を見ますと、「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。』」とあります。「人の子」とは、主イエスのことです。主イエスは、御自分のことを言われる時には「人の子」と言われます。「人の子を上げたとき」とは、どの時か。それは十字架の上に上げた時ということです。つまり、人は主イエスを十字架に架けた時に初めて、主イエスが「わたしはある」という方であることが分かると言われるのです。
 主イエスが誰であるのか。それは、主イエスが為された数々の奇跡を見れば分かる。また、主イエスがお語りになったことを聞けば分かる。そう思われるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。しかしそれは、主イエスがまことに神と一つであり、神であられるということが分かった者が、主イエスの為された業と言葉を見聞きして分かることであって、主イエスの業と言葉だけでは、主イエスがまことに神様と一つであり、神であられるということは本当には分からないのではないでしょうか。主イエスの数々の奇跡と知恵に満ちた言葉だけでは、この方はただ者ではない、素晴らしい方だ、神様に遣わされた方だというところまでは分かり、そう信じることは出来るかもしれません。しかし、主イエスが「わたしはある」という方であるということまでは信じられないということではないでしょうか。
 では、主イエスを「ただ者ではない」「素晴らしい方だ」「知恵に満ちた方だ」「神様に遣わされた方だ」そのように信じるだけではダメなのでしょうか。ダメだとするなら、このように主イエスを信じることと、主イエスを「わたしはある」という方として信じることとは、何が違うのでしょうか。それは、一言で言えば、悔い改めがあるかないかということなのだろうと思います。
 主イエスは素晴らしいことを言われている。主イエスの力はすごい。そのように受け止めることは、主イエスに敵対するよりもずっと良いことであるには違いありません。しかし、そのように主イエスを受け止める時、人は自分の中に、何が素晴らしいのか、その基準を持っています。そしてその基準に照らして、主イエスの言葉や業を見て、素晴らしいと言っているのでしょう。このような受け止め方ですと、主イエスと出合うことによってその人は少しも変えられないのです。このような主イエスとの関わり方の特徴は、主イエスの業や主イエスの言葉の中から自分の考え方と合ったところだけを受け取って、自分の考え方と合わないところは受け取らないということです。基準はどこまでも自分であって、主イエスでもなければ、聖書でもないのです。自分を明け渡すことが出来ないのです。そのような人にとって、主イエスは師ではあるかもしれませんが、主ではないのです。自分の人生のすべてを委ね、この方の御支配のもとに生きようとするまでには至らないということです。
 しかし、主イエスが私共に求めておられるのは、主イエスを「わたしはある」「エゴー・エイミー」として、まことの神として受け入れることです。天地が造られる前からおられ、今もおられ、とこしえにおられる唯一の神と一つであられるただ独りの神の子として信じることです。「主イエスもなかなか良いことを言っている。」ではないのです。そうではなくて、主イエスの言葉に打たれ、「私こそ罪人です。滅びるしかない者です。主よ、憐れんでください。」と主イエスの前に額ずくことです。これは、私のために、私に代わって十字架にお架かりになった主イエスの御前に立つ時、十字架の主イエスと出合う時にしか私共の中に生じることのない出来事なのでしょう。これが悔い改めということです。この悔い改めという契機がなければ、私共は主イエスを「私はある」という方として受け取めようがないのです。
 主イエスの言葉は、「なかなか良いことを言っている」で済ますことは出来ません。その言葉に私共は自らの罪を知らされ、打たれ、主イエスの前に額ずくしかないのです。それが、「人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かる」ということなのです。

4.主イエスの十字架
 主イエスの十字架というものは、主イエスがユダヤ人たちに殺されてしまったということを示している、単なる敗北のしるしというようなものではないのです。もし、教会が主イエスの十字架をそのようなものとして受け止めていたのなら、教会はどうして十字架を高く掲げ、教会のしるしとしたでしょうか。そうではなくて、キリストの教会は、主イエスの十字架を勝利のしるしとして初めから受け止めて来たのです。この十字架によって、私の救いは成った。この主イエスの十字架こそ、主イエスが「わたしはある」という方であることを最も明らかに示したものとして受け止めて来たのです。だから、教会のシンボルとして高く掲げてきたのです。
 確かに歴史的に言うならば、この主イエスの十字架は、当時のユダヤ教の当局者たちが、ローマ帝国の権力を用いて一人の人間を殺したということなのでしょう。しかし、そのようなことをいくら詮索しても、主イエスの十字架の意味は分かりません。主イエスの十字架という神様の業を、人間の権力抗争という次元でしか見ないのならば、何も見ていないのと同じなのです。そして、主イエスの十字架の中に自分の罪を見ないのならば、神様に敵対した私の罪を見ないのならば、その私のために私に代わって苦しまれた神の御子を見ないのならば、それは何も見ていないのと同じなのです。
 21節で、主イエスは「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と言われました。この主イエスが去って行くというのは、どこに去って行くのか。それは、十字架の上に去って行くのです。そして三日目に復活し、四十日後に天に去って行くということです。「わたしはある」という方として主イエスを受け入れないのなら、十字架の出来事から始まる主イエスが神の子として受けられる栄光を、あなたがたは見ることは出来ない。捜しても見いだすことは出来ない。そしてそれは救われないということだ。そう主イエスは言われたのです。下のもの、この世のものとして主イエスを見ていたのでは、主イエスの十字架を見ていたのでは、主イエスは分からないのです。何故なら、主イエスは上からの方、神様のもとから来られた方だからです。

5.あなたは誰ですか
 25節で「彼らが、『あなたは、いったい、どなたですか』と言うと、イエスは言われた。『それは初めから話しているではないか。』」とあります。まさに、主イエスは誰なのか、そのことをこの福音書は最初から最後まで語っているのです。主イエスは誰か。「わたしはある」というお方、「エゴー・エイミー」、天地を造られる前からおられ、天地を造られた方であり、天地が滅びるまで、否、滅びても尚おられる方であります。そして、どんな時にも私共と共にいてくださる方なのです。
 このことを信じるなら、この方に助けを求め、この方の前に額ずくなら、私共は罪のうちに死ぬことはないのです。これが主イエスが与えられた約束です。主イエスは、その約束が確かなことであることを、御自身の復活の出来事をもって示してくださいました。たとえこの肉体は朽ち果てようと、私共はやがて時が来るならば復活の命に与り、共々に父なる神様をほめたたえることになるのです。そして、そのことの「しるし」として、私共は今朝、神の国の救いを先取りして、主をほめたたえているのです。良いですか皆さん。私共が主イエスをほめたたえることが出来るということは、私共が主イエスを「わたしはある」という方として受け入れている、信じているからであり、それはすでに主イエスの救いの中に入れられていることなのです。そのことをしっかり受け止めて、今、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主をほめたたえたいと思います。

[2011年11月20日]

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