富山鹿島町教会

礼拝説教

「五千人の給食」
列王記 上 17章8〜16節
ヨハネによる福音書 6章1〜15節

小堀 康彦牧師

1.主イエスによる奇跡
 聖書には、主イエスが為された不思議な奇跡がいくつも記されております。私共が今までヨハネによる福音書を読み進めてきました中でも、2章にはカナの婚礼において水がぶどう酒になるという奇跡がありました。4章には役人の息子がいやされるという奇跡があり、5章にはベトザタの池で38年間病気で苦しんでいた人がいやされるという奇跡がありました。そしてこの6章、今朝与えられております御言葉には五千人もの人々(正確には、この五千人というのは成人した男性の数ですから、女性や子供を加えれば一万人を超えていたでしょう)、そのおびただしい人々を五つのパンと二匹の魚で満腹にさせるという奇跡が記されております。主イエスの為されたこれらの奇跡をどのように理解すべきなのか。聖書はこれらを「奇跡」とは呼んでいません。何と言っているかと申しますと、「しるし」と言っています。6章2節「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」、6章14節「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」とあるとおりです。だったら、これらの奇跡は何の「しるし」なのか。それは、「主イエスがキリストであり神の子である」ことの「しるし」ということでありましょう。この「しるし」は、主イエス・キリストが天地を造られたただ独りの神様の御子であるという「しるし」なのであって、この様なことは起き得ないとか、この様なことは科学的に証明出来ないといった批判は意味がありません。起き得ないことが起きたから奇跡なのであり、起き得ないことを起こしたから主イエスは神の子、キリスト、救い主であられるということだからです。逆に言いますと、主イエスが為された奇跡は、主イエス以外の誰によっても為し得ないことでなければ意味がないのです。

2.主イエスは物質保存の法則を超えるのか?
 さて、そうは申しましても、今朝与えられております御言葉が告げる奇跡、「五千人の給食」と呼ばれている出来事は、他の奇跡と少し違うところがあるように思います。主イエスが為された奇跡の多くは、病人をいやしたり、嵐を静めたりと、そこで何が起きたのか想像することが出来るものです。しかし、この五つのパンと二匹の魚で一万人を超える人々を満腹にさせるというのは、そこで何が起きたのか、それを想像すること自体が難しいのです。私は長い間、この奇跡において何が起きたのか、よく分かりませんでした。イエス様が五つのパンと二匹の魚を前に、神様に感謝の祈りをささげる。そして、パンを裂き、魚を割いて、人々に分ける。多分、十二人の弟子たちに与えて、弟子たちが人々に配ったのでしょう。(他の福音書は皆そうなっていますから。)とうことは、弟子一人に与えられたのは、一つのパンの半分程度、そして魚は半身もないくらいでしょう。このパンだって、そんな大きなものであるはずがないのです。最近インドカレーのお店に行きますと、ナンというパンを出されることがありますが、あのようなものでもう少し小さな丸いものを想像してもらえば良いと思います。魚は、イワシかそれより少し大きいくらいの魚で、塩漬けにして干したものだと思います。これが当時のお弁当です。ですから、弟子一人に与えられた量は、一人の人間さえ満腹にすることは出来ない程度のものだったのです。それを、十二人の弟子で一万人以上に配るのですから、一人の弟子がパンと魚を配った人数は千人程度ということになるでしょうか。どうして千人もの人が半分ほどのパンと少しの魚で満腹になったのか。理由は二つしか考えられません。一つは、みんなパン屑程度しか配られなかったけれど満腹した。もう一つは、パンと魚が、弟子が配るそばから増えたということです。一つ目の、ほんの少量で満腹になったというのは、満腹になった気がしただけということで、それは奇跡でもありません。それに13節を見ると「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」とありますから、どうしても二つ目の理由、パンと魚が増えたということしか考えられないわけです。五つのパンでも一つの籠一杯にはならない位だと思いますので、どう考えても量がとてつもなく増えたとしか考えられないわけです。しかし、もしそうだとすると、ここで起きたことは自然界の大原則、「物質保存の法則」が破られたということになるのです。自然界にある物質は、その形をどんなに変えようと増えたり減ったりしない。その質量は変わらない。それが「物質保存の法則」です。中学・高校の理科の時間に習いました。病気の人がいやされる。それは何となくイメージすることも出来ますし、そういうことも起こるだろうと考えることにあまり抵抗はありません。しかし、パンや魚が増える、そんなことがあるのか。弟子たちがパンを配ると、籠の中にパンが増えている。本当にこんなことが起きえるのか。その様な思いが、私共の心に湧いてくるのではないでしょうか。
 実に、この五千人の給食の出来事は、私共の合理的な考え方に真っ向から挑戦してくるのです。主イエスはただの偉い人なのか、それとも天地を造られたただ独りの神の子なのか。この五千人の給食の出来事を私共に差し出して、聖書は私共に、あなたはこの主イエスというお方をどう信じるのか、そう問うているのです。物質保存の法則さえも超えて御業を行うことの出来るお方なのか、それとも自然の法則に縛られた存在なのか。主イエスに対しての根本的問いが、この五千人の給食という出来事を通して、私共に突きつけられているのです。実は、このことは、主イエスの復活をどのように受けとめるのかということとも繋がっていく問題でもあるのです。主イエスは、愛の人ではあったけれど時の権力者によって十字架の上で死んで終わりだったのか。それとも、死を打ち破られて永遠に生き給う神の独り子なのかということであります。

3.主イエスの奇跡の証人としての弟子
 実は、この五千人の給食の出来事は、主イエスの十字架と復活を除くと、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてが記している、ただ一つの奇跡です。病人をいやした奇跡はたくさん記されていますけれど、全く同じいやしが四つの福音書すべてに記されているものはありません。このことは、この五千人の給食という出来事が、それ程までに弟子たちの心に残ったし、また重大な奇跡であったということなのでしょう。
 私は、それも当然のことだろうと思つています。と申しますのは、主イエスが為された他の奇跡においては、弟子たちはいつも主イエスのそばで見ているだけでした。ところが、この奇跡においては、弟子たちは見ているだけではなかったのです。自分がパンと魚を配ると、パンも魚も次々に増えていったのです。パンと魚が自分の手元で増える。配っても配っても無くならない。弟子たちは、この奇跡の当事者、体験者だったのです。これは、実に強烈な印象を弟子たちに与えたに違いありません。だから、四つの福音書のすべてに記されているのだと思います。

4.奇跡の合理的な解釈は意味があるのか?
 9節に「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」とあります。ここから想像して、「少年だって五つのパンと二匹の魚を持っていたのだから、大人たちが弁当を持っていなかったはずがない。少年が自分のパンと魚を差し出したのを見て、他の大人たちも自分の弁当を差し出して皆で分け合い、結局全員が満腹したのだ。」と読む人がいます。なかなか美しい読み方ではありますが、これは全く間違った読み方だと思います。このように読みますと、物質保存の法則は主イエスによって破られていないことになります。この理解の仕方は、私共の常識を逆撫でしませんし、皆で分け合えば満腹になれるという教訓までもが付いてきます。まことに合理的です。そして、聖書の奇跡の記事に対してのこの合理的な読み方は、私共に信仰を求めません。信仰がなくても分かるのです。しかし、信仰がなくても分かる聖書の読み方というのは、やはり間違っているのだと思いますし、聖書が告げようとしていることではないと言わなければならないでしょう。
 聖書は、明確に「しるし」として告げているのですから、この記事は主イエスが神の子であることの「しるし」となる読み方をしなければならないのです。そして、この合理的な読み方では、主イエスが神の子であるという「しるし」になりません。この読み方ですと、互いに分け合うことの素晴らしさの「しるし」を語る出来事になってしまいます。そこでほめたたえられるのは主イエスではなく、私共人間の愛の素晴らしさということになるでしょう。そして、この聖書の読み方の行き着く先は、主イエスは復活したのではなくて、主イエスを愛する弟子たちが、主イエスの死を受け入れられず、復活したような気がして、幻を見て、復活したと言い広めたということになるのです。
 このように見ていくならば、主イエスの「しるし」を合理的に解釈し、私共の不信仰な理性が絶対という前提において、主イエス・キリストが為された奇跡の記事を読むという聖書の読み方は、根本的に間違いであることは明らかでしょう。

5.「五千人の給食→最後の晩餐→聖餐」という一繋がりの神様の救いの御業
 11節を見ますと、「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」とあります。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて」というこの言葉は、主イエスが最後の晩餐において、聖餐を制定したときにも用いられている言葉なのです(ルカによる福音書22章19節)。つまり、五千人の給食と最後の晩餐は繋がっている。そう言っても良いのです。特に、ヨハネによる福音書においては、最後の晩餐の時に聖餐の制定の場面がありません。それは、ヨハネによる福音書が聖餐を軽んじていたということではないのです。そうではなくて、最後の晩餐の時に聖餐の制定の場面がないヨハネによる福音書においては、この五千人の給食の出来事が、他の福音書では最後の晩餐において制定された聖餐を指し示しているということなのです。
 ヨハネによる福音書6章は、この五千人の給食の出来事から始まって、22節以下に、「永遠の命に至る食べ物」(6章27節)、「わたしが命のパンである」(6章35節、6章48節)という主イエスの言葉が続いていきます。つまり、この時主イエスが人々に与えたパンは、単に物質保存の法則を超えていたというだけではなくて、主イエスが与える永遠の命、主イエス御自身をも指し示しているということなのです。そして、主イエス御自身を食べ、主イエスの命に与るとは、まさに私共が現在与っており、キリストの教会が二千年の間与り続けてきた信仰による食卓である聖餐に他ならないでしょう。実に、五千人の給食の奇跡は、更に最後の晩餐そして聖餐へと繋がっていく、一繋がりの神様の救いの御業なのです。

6.主イエスに対する誤解、メシアに対する誤解
 先程、列王記上17章8節以下をお読みしました。ここには旧約最大の力の預言者であるエリヤの奇跡が記してあります。今年はCSの夏期学校でエリヤを学びました。幼稚科さんは、画用紙でパンをいくつも作って、それをひもでつないで輪にして、壺からそれを取り出して、いつまでも無くならないパンを見せてくれました。エリヤを養うために最後の小麦粉と最後の油でパンを作ったやもめの壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかったのです。エリヤのこの奇跡は、この主イエスの五千人の給食を指し示しています。エリヤはその奇跡によって、主イエスを指し示すという預言者だったのです。しかし、エリヤの奇跡は主イエスの奇跡と違うところもあります。それは、エリヤの場合、体を養うパンを作るための小麦粉と油は尽きることがなかったのですが、エリヤは自分自身の命をこのやもめに与えることはなかったということです。主イエスは、単に五千人に食事を与えたということではないのです。主イエスと共に生きる新しい命の道を与えたのです。
 しかし、残念ながら、この給食を受けた人々にはそのことが分かりませんでした。14〜15節「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とあります。ここには、人々の主イエスに対する誤解、メシア、キリストに対する誤解があります。人々は、自分たちに食事を与えてくれる主イエスの力だけを求めたのです。そして、ローマ帝国に支配されている現状を打破し、ローマに対抗しこれを打ち負かす王として、主イエスを立てようとしたのです。主イエスはそのことを知り、人々から離れて山に退かれました。主イエスがキリストであるというのは、奇跡さえ起こすその力をもってローマと対抗する王となるためではなく、十字架に架かり、私共の一切の罪を赦し、神様との交わりを回復し、私共に永遠の命を与えるためだったからです。主イエスは、人々の心に訴えて各々の弁当を差し出させて互いに満腹になる世界を造り、自分は十字架の上で死んでしまうという無力な愛の方でもなかったし、その奇跡を行う力をもってローマ帝国に対抗する方でもなかったのです。主イエスは、自らの命を与えて人々を養い、新しい命、永遠の命へと私共を導いてくださる神の独り子、キリストだったのです。

7.キリストの命を配るために建てられている教会
 さて、弟子たちは五千人の給食の時、主イエスが不思議に増やしてくださるパンと魚、配っても配っても無くなることのないパンと魚を配りました。この不思議は、当たり前のことですが、弟子たちに不思議な力が備わったから行われたのではありません。弟子たちは、主イエスが与えてくださったものを配ったに過ぎません。それは、今も変わることはありません。主イエスの弟子たちの集いである教会は、自らの中に不思議な力を持っているのではないのです。ただ主イエスが自らの命を、教会を通して人々に与えてくださるのです。それが主の日のたびごとに与えられる御言葉であり、聖餐です。このキリストの肉を、キリストの血潮を、キリストの命を、人々に配るために教会は建てられているのです。これ以外のものを配ることは教会には出来ません。これ以外のものを求められても、教会は与えるものを持っていないのです。しかし、この主イエスが与えてくださる御言葉と聖餐こそ、どのような困窮の中にある人にも生きる力と勇気とを与えることが出来る、まことの救いへと人々を導くことが出来る、万能薬なのです。
 一人でも多くの者がこのキリストの命に与るように、一人でも多くの者にこのキリストの命を配るように、私共は主イエスに命じられているのです。このキリストの恵みの命は、配っても配っても無くなりません。そして、配れば配るほど、主イエスの不思議さを私共は味わうことになるのです。主イエス・キリストが共にいてくださることを味わい知るのです。今も生きて働き給う主イエス・キリストの救いの御業の道具として、この一週もまた、主にこの務めを託された者として歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2011年8月21日]

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