1.はじめに
私共は今、毎週ヨハネによる福音書を通して御言葉を受けています。ここに記されている主イエスの歩み、主イエスの言葉によって、神様からのメッセージを受け取り、神様を誉め讃えているわけです。その歩みの中で思わされることは、主イエスの歩みが、私共の歩みと不思議に重なるということです。主イエスの歩みの中に、私共の何気ない日常の出来事があり、そこには私共自身が気付かなかった自分の人生の秘密や本当の意味が示されているということです。私共の中でぼんやりしていたものが、主イエスの歩みを示されることによってはっきりしてくるということが起きるのです。それは、主イエスに出会った人の中に自分の姿を見出すということもありますし、主イエスの歩みが私共の歩みの意味を教えてくれるということもあります。
2.神の必然としての出会い
今日与えられた御言葉において、主イエスはサマリアの女性と出会うわけですが、主イエスがこの女性と出会うということの中には、偶然では済まされない、神の必然と言うべきものがあることを知らされるのです。主イエスがユダヤからガリラヤに戻られるときにサマリアを通り、そこで一人の女性と出会った。それは偶然、たまたまというように私共には見える。しかし聖書は、それは偶然ではない、神の必然、つまり神様の側から見ればそうなるために為された出来事だった、と記しているのです。
私共の人生を決定付けているものの一つとして、人との出会いがあります。友人との出会い、恩師との出会い、妻や夫との出会い。そもそも自分の両親との出会いがある。これらが自分の人生に決定的な影響を与えたものであることは、誰も否定出来ないでしょう。そして、この出会いはどれ一つとして、自分でこの人と出会おうと思って出会ったのではないのでしょう。両親や兄弟というのはその最たるものです。気が付けば、この人が自分の父であり、母だったのです。自分の子にしても同じです。そこには自分の思いを超えた、神様の御手の中にある必然と言うべきものがあった。そう言わざるを得ないのだと思うのです。
主イエスと出会ったこのサマリアの女性にすれば、この日主イエスに出会ったのは偶然以外の何ものでもなかったでしょう。しかし、神様の側から見れば、主イエスはこの女性に出会うために、この女性を目指して、この時この場所に来られたということなのです。
では、そもそも主イエスは、どうしてこのサマリアのシカルという町に来たのでしょうか。1節と3節を見ますと、「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」とあります。主イエスが洗礼者ヨハネと同じように洗礼を授けられ始めた。すると、大勢の人が主イエスのもとに来るようになった。ファリサイ派の人々、ユダヤ教の当局者たちの耳にも、そのことが入った。それで主イエスはユダヤからガリラヤに行くことになったというのです。主イエスは、ユダヤで洗礼を授け続けるならば捕らえられることになると知っておられたからでしょう。実際、洗礼者ヨハネは、この後ヘロデに捕らえられ、首をはねられてしまいます。主イエスは確かに十字架にお架かりにならなければなりませんが、今ではない。まだ、その時ではない。だから、エルサレムから遠いガリラヤへ退かれたのです。
3.弟子たちによる洗礼
ちなみに、2節には「−洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである−」という言葉がひょいと入っていますけれど、これもなかなか意味深いものがあります。3章22節で「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。」と語っておきながら、ここでわざわざ「−洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである−」と書き加えているのは何故か。それは、洗礼というものは、誰が授けようとも、共に主イエスがいてくださって為されるものであるということを示しており、それはまさに教会で為されている洗礼と同じだということを示しているのだと思います。私は○○牧師から洗礼を受けた、私は△△牧師から受けた。それは、何も違わない、全く同じ洗礼だということを告げているのです。
4.サマリアを通る必然
戻りますと、このガリラヤに退かれるということ自体、「まだ時が来ていない」という、神様の御計画の中にあることであったということなのですが、では何故主イエスはサマリアを通ったのかということです。と言いますのは、当時のユダヤ人は、サマリア人の住む所を通るということは原則としてなかったからです。聖書の後ろに付いている地図の6を見てみましょう。ユダヤからガリラヤまで真っ直ぐ向かえば、サマリアを通らざるを得ません。このルートなら三日ほどでガリラヤに着けます。ところが、当時のユダヤ人たちは、エリコを抜けてヨルダン川に出て、そこから北上するというルートを使っていたのです。これだと一日か二日余計に時間がかかります。どうして、そうまでしてサマリアの地を避けたのか。それには長い歴史的背景があったのです。紀元前722年、北イスラエル王国(これが後のサマリアです)はアッシリア帝国によって滅びます。アッシリア帝国はこの時、北イスラエルの人々を別の土地に移住させ、逆に帝国中からいろいろな人々をこの土地に移住させたのです。当然、この土地では混血が進みます。いろいろな神様もやって来て、唯一の聖書の神様を拝むという信仰ではなくなってしまいました。その後、南のユダ王国がバビロンに滅ぼされ、バビロン補囚が起きた。そしてバビロン捕囚から戻って来た人々がエルサレムの神殿を再建する時、サマリアの人々は援助を申し出ますが、ユダの人々はそれを断ったのです。唯一の神への信仰に生きていないと見なしたからです。その後、紀元前400年頃にサマリア人たちは自分たちの礼拝所としてゲリジム山に神殿を建てました。それから、決定的なことが起きました。紀元前128年頃です。ユダヤ人たちがそのゲリジム山の神殿を焼き払ったのです。ユダヤ人とサマリア人は、もとをたどれば同じイスラエルの民族でしたけれど、長い歴史の中で、外国人に対する以上に敵対する関係になってしまったのです。主イエスの時代、「サマリア人の土地を通るユダヤ人は唾を吐きかけられるのを覚悟しなければならない。」と言われているほどでした。そしてユダヤ人たちもまた、サマリア人を外国人以上に汚れた人たちと見なしていたのです。
しかし、この時主イエスはサマリアを通ったのです。4節には「しかし、サマリアを通らねばならなかった。」とあります。ここで聖書は「サマリアを通らねばならなかった」と記しています。どうして通らねばならなかったのか。それは、この女性に出会うためです。そして、これをきっかけにこの町のユダヤ人もまた、主イエスを信じ救われるためです。4章40〜41節を見ると「そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」とあります。主イエスの福音がサマリア地方全体に広まっていくのは、使徒言行録8章4節以下にあるフィリポによる伝道そしてペトロとヨハネによる伝道によってですが、この時既に主イエスによって種は蒔かれていたのです。ユダヤ人たちが忌み嫌い、軽蔑していたサマリア人もまた救われなければならない。それが、主イエスに与えられていた神様の御心だったのです。この神様の御心の中で、主イエスはサマリアの町シカルに来たのです。ユダヤ教当局者たちの目を逃れるためにという実際的な理由はあったでしょう。私共は多くの場合、このような実際的な理由しか考えないものです。しかし、この主イエスのサマリアの町を通るという歩みには、その実際的理由の他にもっと大切な、神様の救いの御計画という、神の必然と言うべきものがあったのです。私共の人生もまた、このような神の必然とでも言うべき、大きな神様の御計画の中に生かされているということを知らなければなりません。
5.水をください
さて、主イエスはシカルというサマリアの町に入られました。主イエスは疲れて、井戸のそばに座っていました。時は昼の十二時頃です。そこに、一人のサマリアの女性が水を汲みに来ました。運命の出会いとでも言うべき瞬間でした。この女性は、18節を見ると分かるように、今まで五人の夫と連れ添い、分かれ、今は六人目の男性と同棲している、そういう女性でした。何でこの女性が五人もの夫と別れたのかは分かりません。死別だったのか、離婚だったのか。いずれにせよ、相当事情があったのだと思います。昼に水を汲みに来るというのも普通ではありません。水が必要なのは朝、あるいは夕方です。通常ならば、女性の朝一番の仕事として水汲みがあるものです。この井戸が町の真ん中にあると考えない方が良いと思います。蛇口をひねれば水が出る生活をしている私共にはなかなか分からないのですが、井戸は大変貴重なもので、場合によっては1km、2km先の町からも水を汲みに来るものなのです。そしてそれは女性の仕事です。大きな水瓶を頭に乗せて運ぶのです。水を汲むのもすぐには出来ません。深い井戸に水を入れる容器を投げ込んで引き揚げ、水瓶に入れる。その時間は、女性には楽しい井戸端会議の時でもありました。しかし、この女性は、そのような時間帯をあえて避けて、昼に水を汲みに来たのでしょう。五人の元夫、六人目の男との同棲。これは、当時の小さな町では、人々から冷たい目で見られるには十分な経歴でした。人を避けるようにして水を汲みに来た一人の女性。しかし、そこにこの女性を待っていた方がいたのです。主イエス・キリストです。
主イエスは言いました。7節「水を飲ませてください。」主イエスは、この女性を救いに来たのです。しかしその態度は、自分の方が低くなっています。自分の方から一杯の水を請うのです。この姿勢に、私は本当に教えられます。自分の伝道者としての姿勢です。偉そうにしていないか、自らの姿を顧みさせられるのです。
この女性も驚きます。9節「すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」とあります。先程申しましたように、当時のユダヤ人はサマリア人を汚れた者として軽蔑していました。それは具体的に言えば、食べる器を共にしないということです。水を求めるということは、この女性の器を用いることになります。主イエスはここで、ユダヤ人対サマリア人という対立を超えておられます。そして、器を共にしないという、人を見下すような習慣からも自由な方なのです。それは、この女性にとって衝撃と言えるほどの驚きの出来事でした。
6.生きた水
驚いている女性に、主イエスは救いへと導く言葉をたたみかけます。10節「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」ここで主イエスは、「神の賜物」「わたしはだれか」「生きた水」という言葉を投げかけます。しかし、女性の頭には単なる飲み水のことしかありませんから、主イエスが言われることが何なのか、さっぱり分からなかったでしょう。女性は答えます。11〜12節「主よ、あなたはくむ物ををお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」この答えは、主イエスの言葉と少しもかみ合っていません。「生きた水」を与えると言っても、この井戸から水を汲むには器が必要なのに、あなたはそれを持っていないではありませんか。どうやって私にその「生きた水」をくれるというのですか。そう女性は言うのです。女性が言うことはもっともです。
この「生きた水」というのにはいくつもの意味があります。一つは、泉や川のように流れを持った水です。井戸の水は溜まった水です。溜まった水より、流れる水の方がきれいで上等です。そんな水は、水の少ないこの地方では目にすることも少ない水なのです。また、そのような水は清めの儀式などに用いられるものです。そしてまた、この「生きた水」とは、人をいきいきと生かす水ということでもあります。この女性は、このヤコブの水だけが自分の命をつなぐ水だと思っていました。そして、この井戸はヤコブ以来、みんながその命を保ってきた水なのです。その水より良い水があるのか。それを私にくれるというのか。あり得ない。そうこの女性は考えたのです。
7.渇かぬ水は魔法の水?
主イエスの言葉は遂に核心に入ります。13〜14節「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」というのは、当たり前です。主イエスは続けます。「しかし、わたしが与える水、生きた水を飲む者は決して渇かない。渇かないどころか、その人の内で泉となって、永遠の命に至る水がわき出る。」というのです。これではまるで「魔法の水」です。主イエスのこの言葉は、何かインチキ商法の口上のように聞こえたかもしれません。この水を飲めば渇かないのですから、もう水を汲みに来ることもないし、水が泉となってわき上がってくるのですから、使っても使っても無くならない。しかも、この水を飲めば永遠の命に至るというのだから、不老不死の水ということになる。そんな良い水なら、だれでも欲しいに決まっています。
この女性は、15節「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言うのです。この女性は、主イエスが与える「生きた水」が何であるのか分かっていません。もう渇くこともない、水を汲みに来なくてもいい、魔法の水だと思っているのです。しかし、ここで大切なことは、この女性がどれほど主イエスの言葉を理解していたか、していなかったかではないのです。主イエスがこの女性を救おうとして、言葉をかけ、出会ってくださったということが大切なのです。この女性はやがて、「生きた水」が何であり、自分に水を求めた人が誰であるかを知ることになります。今朝、ここに集っておられる方の中にも、この水が何であるのかがまだ分からないという方もおられるでしょう。しかし、心配はいりません。この女性が分からせていただいたように、必ず分かるようにされるのです。そうでなければ、今ここにいるということさえも起き得なかったことだからです。主イエスが、この女性に出会うためにこの町を訪れ、水を求められたように、主イエスは私共一人一人を救わんがために、この場へと導き、聖書の言葉に触れさせ、御自身と出会わせようとしてくださっているからです。
この「生きた水」とは、7章37〜39節「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」とありますように、聖霊です。主イエスが私共に聖霊を与えてくださり、もう決して渇かない者にしてくださり、永遠の命へと導いてくださるのです。
8.私に与えられる出会い
私共は多くのものを求めます。それを手に入れさえすれば渇きを癒されると思っています。それは富であったり、社会的地位であったり、生きがいであったり、恋人であったりします。若い人から老人まで、人はだれでも何かを求めています。そして、それを手に入れれば幸せになると思っています。しかし、それは錯覚なのです。それは、手に入れればすぐに次のものが欲しくなるという渇きを覚えるのです。人は、目に見える何かを手に入れることによって渇きを癒すことは出来ないのです。私共が求めているのは幸せでしょう。この幸せというものは、主イエスによって聖霊を与えられ、主イエスが誰であり、自分が誰であるかを知って、自分に与えられている一日一日を、神様が与えてくださる永遠の命に向かって歩む中で与えられるものなのです。それは、私共に人生の本当の意味を教え、何のために、何に向かって生きているかを教えるのです。日常の一人一人との出会いが、偶然という無意味の中に飲み込まれることなく、神様が与えてくださったかけがえのない出会い、かけがえのない一時一時であることを知るのです。
最初に、主イエスの歩みが自分の歩みと重なると申しました。それは、主イエスが御自身の救いに与らせるために一人一人に出会われたように、私共に与えられる出会いも、その人が神様の救いに与るために、私共が神様の救いを携えた者として出会うために、神様の大きな御計画の中で与えられたものであるということなのです。主イエスがこの女性と出会うためにサマリアの町へ行かれたように、私共が出会う一人一人は、私共がその人と出会うようにと神様が導いてくださった、そういう人であるということです。今までに既に出会った人、今週新しく出会う人、そのお一人お一人に対して、主イエスの福音を携えた者として出会ってまいりたい。主イエスの福音の証人として歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。
[2011年6月5日]
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