富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「主イエスが真ん中に」
詩編 16編1〜11節
ヨハネによる福音書 20章1〜10節、19〜23節

小堀 康彦牧師

1.空の墓
 主イエスの御復活を喜び祝うイースターを迎えております。主イエスは金曜日の午前九時に十字架に架けられ、午後三時に息を引き取られたとマルコによる福音書は記します。金曜日の日没からは安息日に入ります。安息日に入ってしまえば遺体を葬ることさえ出来ません。時間がない中、主イエスの遺体はアリマタヤのヨセフによってあわただしく葬られたことが、四つの福音書全てに記されております。そして安息日が終わって、週の初めの日、つまり日曜日ですが、まだ暗いうちにマグダラのマリアと数人の婦人たちが主イエスの墓に行きました。今の季節ですから朝の四時頃のことでしょうか。慌ただしい葬り方でしたし、彼女たちは葬りの時に関わることは出来ず、遺体に香料を塗ることさえ出来ませんでした。彼女たちは、せめて人並みの葬り方をしてあげたいと思ったのでしょう。しかし、墓に着いてみると、墓の蓋をしてあった大きな石が取り除けてあり、主イエスの遺体が墓の中になかったのです。マグダラのマリアたちは、主イエスの遺体が誰かによって持ち去られた、そう思いました。復活されたとは少しも思わなかったのです。そのことは、弟子たちの所にこのことを知らせに行ったときの言葉から、はっきり分かります。3節で彼女はこう言うのです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

2.見て、信じた。しかし、まだ理解していなかった。
 知らせを受けて、主イエスの弟子であるシモン・ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」、これはヨハネによる福音書の中にしばしば出て来る表現ですが、多分この福音書を書いた弟子のヨハネと考えて良いでしょう、この二人が主イエスの墓に走りました。二人が到着してみると、マグダラのマリアの言った通り、墓の中に主イエスの遺体はありませんでした。しかし、ペトロともう一人の弟子は、墓の中に「あるもの」を発見しました。それは、主イエスを包んでいた亜麻布と、主イエスの頭を包んでいた布です。これを見て、ペトロともう一人の弟子には、主イエスの遺体は誰かに運び去られたのではないということが分かりました。何故なら、死体を運ぶのに、わざわざ死体を包んでいる布を外す人がいるはずがないからです。そんな面倒なことは、誰もしません。彼らは、この二つの布が墓の中に置いてあるのを見て、信じたのです。主イエスが復活されたということを信じたのです。しかしこの時、この主イエスの復活という出来事が何を意味しているのか、それはまだ分かりませんでした。8〜9節「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とあります。「見て、信じた。」のです。しかし、「まだ、理解していなかった。」のです。
 主イエスの御復活という出来事は、歴史的な事実です。誰かが考え出したというようなことではありません。しかし、この主イエスの御復活という出来事は、その意味、自分との関わり、このことがはっきりと分かりませんと、単なる不思議な出来事であって、少しもありがたくもないし、喜びでもないし、私共を生かす力、希望にもならないのです。

3.弟子たちの恐れ
 それは、この二人の弟子のその後の姿を見れば明らかです。10節「それから、この弟子たちは家に帰って行った。」、そして19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。主イエスの空になった墓、そこに落ちていた亜麻布、それを見て主イエスの復活を信じたペトロももう一人の弟子でした。しかし、彼らはすぐに喜びに溢れたわけではなかったのです。彼らはそのまま家に帰り、他の弟子たちと一緒にユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていたのです。彼らは、主イエスが十字架に架けられて殺された。主イエスを殺したユダヤ人たちの迫害の手が、主イエスの弟子である自分たちにも及ぶのではないか。弟子たちはそのことを恐れて、家の戸に鍵をかけ、じっと部屋の中に閉じこもっていたのです。彼らは、復活の主イエスと出会ったマグダラのマリアから、主イエスが復活されたという報告も受けていたのです。しかし、彼らは恐れ、戸に鍵をかけて閉じこもっていたのです。弟子たちのユダヤ人たちへの恐れ、これは具体的であり現実的です。自分の命が危ないのです。マグダラのマリアの報告を受けても、弟子たちはこの恐れをぬぐい去ることが出来ないでいたのです。
 こう言っても良いでしょう。十字架の上で私共の一切の罪を担ってくださった主イエスが、その死に勝利されることにより、私共の罪と裁きと滅びのすべてを打ち破ってくださった、それが主イエスの十字架であり復活なのだということを私共は知っています。しかし、この時の弟子たちは、まだ主イエスの十字架の意味も分かっておりませんでした。十字架が分からないのですから、復活の意味は分かるはずがないのです。この時弟子たちにとって、復活とは、死んだ人が生き返ったということでしかなかったのではないかと思うのです。
 もしそうだとするならば、主イエスの復活の知らせは、弟子たちを単純に喜ばせるものではなかったと思います。何故なら、弟子たちは主イエスを裏切っているのです。直接主イエスを裏切ったのはイスカリオテのユダであったとしても、ペトロは主イエスを三度知らないと否認しましたし、他の弟子たちも主イエスが捕らえられると蜘蛛の子を散らすように主イエスを見捨てて逃げたのです。弟子たちは、主イエスを見捨てたのです。それは木曜日の夜のことです。あれからまだ三日しか経っていないのです。「たとえ死んでもついて行きます。」と言っていたのにもかかわらず、彼らは主イエスを見捨てて逃げたのです。そして主イエスは、そのすぐ後で十字架の上で死んだのです。ところが、その主イエスが生き返ったというのです。主イエスを裏切った自分が、どういう顔をしてまた主イエスに会うことが出来るのか。単純に、「イエス様、生き返られたのですか。良かった、良かった。」そんな風に会えるでしょうか。そもそも、復活した主イエスは自分たちを赦してくれるのだろうか。そんな思いさえ、弟子たちの中にはあったのではないでしょうか。ひょっとすると、この「家の戸に鍵をかけていた」のは、ユダヤ人を恐れるだけではなくて、生き返った主イエスさえ恐れていたからなのではないでしょうか。

4.復活の主イエス
 しかし、そのような弟子たちの真ん中に復活された主イエスが立って、「あなたがたに平和があるように。」と言われたのです。どうやって主イエスはこの部屋の中に入って来たのでしょうか。それは分かりません。主イエスの復活は、単に生き返るということではないのです。確かに、復活された主イエスは肉体を持っておられました。その手とわき腹には十字架に架けられた傷跡がありました。しかし、その体が復活前の体、つまりこの私共の体と同じであったということではないと思います。タンパク質で出来ているこの肉体は、永遠の命を受けることは出来ません。しかし主イエスの復活された体は、まさに復活された体、復活体とでも言うべきものだったのだと思います。だから、戸に鍵をかけてあっても入ってこられたのでしょう。
 そして、言われました。「あなたがたに平和があるように。」恐れにとらえられていた弟子たちに、その恐れを打ち破るように主イエスは平和を告げられたのです。「あなたがたに平和があるように。」これは、「シャローム」という言葉だったでしょう。この「シャローム」は挨拶の言葉ですので、「今晩は」とか「ごきげんよう」という訳をする人もいますが、そうではない。この言葉は、19節、21節、26節と三度も繰り返し告げられています。単なる挨拶ではなくて、明確に復活された主イエスが、弟子たちに向けて平和を告げられたのです。
 復活された主イエスは、もちろんここで自分を裏切った弟子たちに対して恨み言などは言われません。主イエスは、弟子たちが自分を裏切ることは分かっておられましたし、その罪のすべてを赦すために十字架にお架かりになったからです。主イエスはここで、「わたしはあなたがたのすべての罪を担い、十字架に架けられ死んだ。しかし、この様に復活し、あなたがたの受ける裁きを完全に滅ぼした。あなたがたの恐れも、わたしはすべて担い、滅ぼしたのだ。だからもうあなたがたは恐れることはない。恐れなくても良いのだ。」そう告げられたのです。そして、そのしるしとして、主イエスは弟子たちに手とわき腹をお見せになりました。これは、自分は確かにあの十字架の上で死んだイエスだということを示すためでありましたが、それだけではなかったと思います。この十字架のしるしは、「あなたがたの一切の罪も裁きも終わった。だから安心しなさい。」そういう意味でもあったのです。
 弟子たちはこの時、主イエスの御復活が、単に死人が生き返ったというようなことではないことをはっきり知ったのです。今まで、弟子たちは主イエスによって甦らされた人を何人も見てきました。会堂長ヤイロの娘であり、ナインの町のやもめの息子であり、ラザロです。しかし、復活された主イエスは、そのどの場合とも違っていました。死の陰さえない、命の息吹が溢れているお姿でした。そして、弟子たちは主イエスが死を滅ぼし、死に勝利された神であることが分かったのです。この復活された主イエスには、少しも暗いところがなかった。死の影さえなかったのです。単に死人が生き返ったというようなことならば、それはうれしいことではあっても、どこか気味が悪いことではないですか。何故ならそれは、生き返った人が尚も死の縄目の中にあるからです。死の影を引きずっているからです。幽霊だとか、ゾンビがそうです。それらは、決して越えてはならない境を越えて、死が命のこちら側に来た。だから不気味なのです。しかし、主イエスの御復活はそんなことではなかったのです。復活の主イエスは、完全に罪に打ち勝ち、死に勝利したのです。ここには、死の暗さは微塵もなかったのです。

5.弟子たちの再召命
 主イエスの御復活は、弟子たちにとって、主イエスを裏切った過去の清算であり、恐れとの決別であり、新しい命に生きるということを意味したのです。だから喜びの出来事であり、うれしくて仕方のない出来事だったのです。主イエスを見て喜ぶ弟子たちに向かって、主イエスはこう言われました。21節「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主イエスは弟子たちに平和を告げ、そして弟子たちを再びお召しになって遣わされたのです。ここに弟子たちの裏切りは完全に精算されたのです。この時、彼らは新しく主イエスの弟子として生きる者とされました。この復活の主イエスによって再び召された弟子たちに与えられた召命は、主イエスの罪の赦しの福音を宣べ伝えることでした。そして、主イエスは「聖霊を受けなさい。」と弟子たちに聖霊を与えられました。そして、遣わされたのです。ここにキリストの教会の歩みが始まりました。キリストの教会は、この日以来、主イエスの罪の赦しを宣べ伝え続けて来たのです。

6.聖霊によって、主イエスの御復活が「私のため」であることを知る
 今日、一人の姉妹が洗礼を受けられ、神の子、神の僕として新しい歩みを与えられます。これは聖霊なる神様によって与えられるものです。聖霊なる神様御自身がここに臨んでくださり、信仰を言い表して洗礼を受けられるこの姉妹の一切の罪を赦してくださり、キリストの命、新しい復活の命に生きる者にしてくださるのです。これは、主イエスの御復活以来、キリストの教会において起き続けている救いの出来事です。この救いに与る者は、主イエスの御復活の出来事が、単に遠い国で遠い昔に起きたことではなくて、私のために、私の上に起きたことであることを知るのです。そして、復活の主が私と共にいてくださることを知るのであります。
 主イエスの御復活は二千年前の出来事です。しかしそれは私のために起きたのです。この「私のために」ということがはっきりと分かるように、主イエスは聖霊を与えてくださったのです。主イエスの御復活の出来事は、聖霊によらなければ、私の喜び、私の希望、私の力にはなりません。
 この聖霊に、私共はこの主の日の礼拝の度ごとに与っていくのです。御復活の主イエスは弟子たちの真ん中に立たれました。今朝も、主イエスは聖霊として、私共のこの礼拝の真ん中に立ってくださり、「平和があるように」「聖霊を受けよ」と告げておられるのです。不安も恐れも嘆きもある私共です。しかし、この主の平和に与った私共は、どんな不安や恐れや嘆きにも支配されることはありません。不安はある。しかし最早私共はそれに支配されないのです。恐れもある。しかし最早私共はそれに支配されないのです。嘆きもある。しかし最早私共はそれに支配されないのです。何故なら、復活された主イエスが私共を支配してくださるからです。復活の主イエスが共にいてくださるからです。死も恐れも不安も嘆きも、最早私共を支配することは許されていないのです。何故なら、主イエスがそれらを打ち滅ぼして復活されたからです。それらが私共を支配する時代は終わったのです。
 今この日本を覆っている不安や恐れ、それは本当に深刻なものです。東日本大震災の被災地の方々のことを思うと、本当に心が痛みます。しかし、主イエスは復活されました。どんな不安も恐れも嘆きも、最早私共を支配することは出来ないのです。この主イエスの御復活の福音が、この教会の壁を突き抜けて、被災地の人々に、この世界に生きるすべての人々に届いていくことを心から願うものです。

[2011年4月24日]

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