1.ヨハネによる福音書を読むに当たって
今日からヨハネによる福音書を通して、神様の御言葉を受けてまいりたいと思います。このヨハネによる福音書は、他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカとは少し書き方が違います。福音書ですから、イエス様のなさったこと、お語りになったことが記されているのですけれど、その語り口が独特なのです。とても単純な表現で、しかも一つの言葉に幾つもの意味、イメージを重ね合わせるようにして語るのです。象徴的な言葉を用いた、まるで詩のような文章です。その文章自体は決して難しくないのです。聖書を原文で読むためにギリシャ語を学び始めた人が、最初に読むように勧められるのがこの福音書です。文法的にややこしいような難しい表現はありません。しかし、語られていることは実に奥深く、汲み尽くすことが出来ないほどです。特徴的なのは、その語り口だけではありません。マタイ・マルコ・ルカの各福音書に記されている記事が載っていなかったり、逆に他の三つの福音書には記されていない出来事が記されていたりもするのです。
特に今朝与えられております1章の1節〜5節の御言葉は、実にヨハネによる福音書の特徴が表れているところです。ここは、1節から18節までの、このヨハネによる福音書の序文と言われている所の冒頭の部分です。ここには「言(ことば)」「命」「光」「暗闇」という極めて象徴的な言葉が立て続けに出て来るのです。この一つ一つについて、当時どのような意味合いで使われていた言葉であったのか、或いは旧約聖書においてどのような使われ方をしているのか、そのようなことを調べ始めれば、きっとそれぞれ大きな本何冊かになってしまうだろうと思います。一つ一つの言葉の背後には、おびただしい文脈があり、これらの言葉は実に豊かなイメージを持ち、意味合いを持っています。それらがこの福音書の言葉に深みを醸し出しています。
その様なことを調べたり、弁えることは大切なことです。しかし、そういうことを全て踏まえないとここで何が語られているか分からない、そんなことはないはずなのです。この福音書を記した人は、当時の人々に主イエスというお方を紹介する、そのために記したのです。それは間違いないことです。ですから、普通の人がこの福音書を読み聞かされたなら分かる、そのことを目指して記されたはずなのです。当時の人々の常識、あるいは旧約聖書についてのある程度の常識、それがあれば分かる。そのように書かれているはずなのです。この福音書を読み進める上でどうしても必要な当時の人々の考え方、常識についてはその都度説明いたしますが、あまりそれに振り回されることなく、この福音書が告げ知らせたい主イエス・キリストというお方について何と言っているのか、そのことを聞き取ってまいりたいと思うのです。
順に見てみましょう。
2.始めに言葉があった
1節「初めに言(ことば)があった。」と、この福音書は語り始めます。実に印象的な書き出しです。マタイによる福音書が主イエスの系図という、名前をずらずらと書くことから始めたのに比べると、何と洗練された書き出しでしょう。「初めに言があった。」この言葉を聞いた人は、まるで有名な小説の書き出しを覚えてしまうように、きっとこの書き出しを覚えてしまうのではないかと思います。単純で、印象的で、それを聞いたら子どもであっても覚えてしまうほどの名文です。しかしだからといって、語られていることが子どもでも分かるというわけではありません。
この福音書は「初めに」と書き出すのですが、これは聖書の一番始めの書である創世記の書き出し「初めに、神は天地を創造された。」を下敷きにしていると言いますか、この創世記の書き出しを意識し、重ね合わせて読むことを求めるように書いたのだと思います。つまり、この「初めに」というのは、天地創造の初め、時間の初め、世界の初め、すべてがここから始まる初め、という意味なのです。そしてそこには「言」があった、と言うのです。この「言」というのは、ギリシャ語では「ロゴス」という単語です。「初めに言があった。」と告げられて、これを読む人・聞く人はこの「ことば」とは一体何を意味しているのか、何を指しているのか、当然そう思うわけです。しかし、この言が、ロゴスが、何を意味しているのかについての説明は何もなく、「言は神と共にあった。言は神であった。」と書き続けられるのです。実は、この言が何であるのかということは、14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と記されて初めて明らかにされるのです。既に信仰を与えられている者が、この14節を読めば、言とは神の子キリストのことであり、キリストが肉体をとって主イエスとしてお生まれになった、ということも分かるのです。そのまことの神の子にしてまことの人である主イエス・キリストについて、この書は記しているのです。
この福音書が記されたギリシャ・ローマの世界にあって、世界の原理、世界を生み出して世界を導く合理的な秩序、神様の知恵、それをロゴス、言葉と言っていたのです。ですから、キリストをロゴスとして語ったこの福音書の記者は、ギリシャ・ローマ社会に生きている人々に何とかして主イエス・キリストを知らせたい、紹介したい、その思いからこのような表現を用いたということなのでしょう。もちろん、ギリシャ・ローマ社会の文化からだけ、このような表現を用いたのではありません。詩編33編6節「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。」というように、すでに旧約聖書の中に、神様の言葉による創造という理解があったのです。そもそも創世記第1章3節において、神様は「光あれ。」との言葉を発し、その言葉によって光を造られたのです。創世記が語る神様の天地創造は、実に言葉によるものだったのです。そして、その言葉こそが神の子キリストである。そう聖書は告げているのです。言葉というのは、その人の考えや意思を表すものでしょう。つまり、神様の御心をはっきりと示されるお方、神様の愛がそこに現れ出ているお方、それがキリストであられるということなのです。
14節において、キリストが肉体をとってイエスとして生まれたことが記されるわけですが、そうすると、肉体をとる前からキリストはおられたということになります。では、それはいつからなのか。それは神様が天地を造られる前からだ。初めから言はあったのであって、言は神様によって造られたのではない。言は父なる神と共にあり、言は神であった。ですから、この「言」というところを、キリストと置き換えて読めばスッキリするわけです。ここには、父なる神とは別におり、父なる神と共におり、父なる神と同じ神であるロゴス、即ちキリストが語られているのです。このキリストは明らかに三位一体の神です。言は「神であった」のであって、「神のようなもの」とは告げられていないのです。
3.キリストの創造
3節を見ますと、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とあります。これは、ロゴス即ちキリストが、父なる神様と共に天地創造を行ったということです。この世界のすべてが、キリストによって存在するようになったということであります。これは、天地創造の時に一度だけ起きたことというのではありません。その後もずっと起き続けている、今も起きているのです。大切なことは、この「万物」の中には、私共自身が含まれているということです。私共は、自分が主イエス・キリストを信じようが信じまいが、この方の御手の中に造られ、生かされているということなのです。
この世界には秩序があります。太陽は東から昇り西に沈みます。秋の後には冬が来て、また春が来る。雪は天から降り、木々は土から生える。人は一年ずつ年をとり、若返ることはない。私共の体もこの秩序の中にあります。人類はその秩序・法則を見つけ、また宇宙の果てを極めようとロケットを打ち上げます。この世界の秩序・法則は自然科学によって多くが解明され、その結果私共はいろいろな知識が増え、世の中はどんどん便利になりました。しかし、それでも人はまだ、最も身近である自分という存在を捉えきることが出来ないのです。病気、老い、不安、悲しみ、嘆き、いらだち、私共は様々な問題・課題を持っている。しかし、どの一つも自分で解決することが出来ないのです。自分がどこから来てどこへ行くのか、自分は何者なのか、この根本的な問いに答えることが出来ないのです。そのような私共に向かって、聖書は、この世界もあなたも、キリストによって造られ、キリストによって保持されている、そう告げるのです。だから、このキリストの中にすべての課題・問題の解決の道筋がある。そう語っているのです。
聖書は、創造された世界の中で最も神秘に満ちた「命」というものに話を進めます。4節「言の内に命があった。」命とは何なのか。これもまた深遠な問いです。目に見える生きている生命体の持つ命についても、私共はその不思議さに戸惑います。しかし、ヨハネによる福音書が命と言う場合、それはこの目に見える生命体の命だけを指しているのではありません。目に見えず手で触れて確認することが出来ない永遠の命をも指しているのです。そして、その命は言の内に、つまりキリストの内にあったと言うのです。ここに命の源が示されています。私共の命はキリストと無関係に存在してはいないのです。キリストに命があり、そのキリストによって造られ、生かされている故に、私共には命があるのです。そして、神であられるキリストには永遠の命があり、それ故このキリストと結び合わされることによって、私共もまた永遠の命に与るようになるということなのです。
私共の命は、キリストの内にあり、キリストと結ばれており、キリストから与えられているものなのです。これは、人の目には隠されている知恵です。人間の命について、DNAをどんなに調べようと、病気をどんどん治せるようになろうと、私共は自分の命がキリストに結ばれていることも、永遠の命があることも分かることはないのです。それは、命がどこから来てどこへ行くのかを知ることが出来ないのと同じことです。このキリストというお方と結ばれる時、私共は自分が何者であり、自分の命が何であり、どこから来てどこへ行くのか、そのことが分かるのです。
4.人間を照らす光、キリスト
さらに聖書は、4節後半「命は人間を照らす光であった。」と告げます。これは、まことの命であるキリストは、人を照らす光であるということです。光とは、私共の足元を照らし出すものであり、私共の行くべき目当て、歩むべき方向を示すものであり、私共の目の前にあるものが何であるか、私共自身が何者であるかを明らかにするものです。そして光は、私共の希望であり、喜びであり、平安であります。このキリストの光に照らされなければ、私共は自分が何者であり、この世界がどうあらねばならないのか、何が正しく何が悪いことなのか、何も分からないということなのです。
キリストの光に照らし出されるまで、私共は暗闇の中を歩んでいました。しかも、それが暗闇であるということも分かりませんでした。キリストの光に照らし出されるまで、目の前にある損得で動き、己の欲を満たすために生きることしか知らなかった私共です。それが暗闇の中に生きていることであることも知らなかった。しかし、主イエス・キリストと出会って、私共は愛を知らされました。ささげるということ、神様に向かって神様の御前に生きるということ、神様の姿に似せて造られた本来の自分の姿を知らされました。神様に向かって「アバ父よ」と祈り、「我が子よ」と語りかけてくださる神様との交わりの中に生きる幸いを知りました。この地上の命が閉じられた後も、終わることのない永遠の命に生きることを知りました。それは、私共を照らし出してくださるキリストと共に、まことの光であるキリストに包まれて生きる者とされたからです。
聖書はさらに告げます。5節「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」暗闇とは、キリストの光を知らない、キリストの光を拒否する罪の世界です。罪の満ちたこの世界のただ中に、キリストは来られた。キリストの光は、この罪の世界のただ中で輝き続けているのです。光が来ると、暗闇は退かなければなりません。私はこのことを思う時、いつもクリスマスのキャンドル・サービスの光景を思い出すのです。明かりを落とした部屋の中に、キリストを象徴する光を灯したキャンドルが入ってくる。そして、講壇の所に掲げられる。そこから、一人一人の手元の蝋燭に灯が灯されていき、部屋全体が明るくなる。クリスマスを祝うために昔から行われてきた、蝋燭を用いた礼拝。ここに、まことの光、世の光であるキリストの到来とは何であったのかが象徴的に示されていると思います。暗闇とは光が来ない状態を意味しているのです。光が来れば、暗闇は光にその場を譲らなければならないのです。暗闇は光に対抗したり、光を消したりする力などないのです。キリストは来られた。この光を消すことは誰にも出来ないのです。私共の中に灯されたキリストの光も同じです。私共の中に次々と湧き上がる罪の思いも、キリストの光を消すことは出来ないのです。
さて、5節の訳は、口語訳に親しんでいた人は違和感を覚える所でしょう。口語訳ではこうなっていました。「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」「闇はこれに勝たなかった。」この方がキリストの勝利を明確に告げており、良い訳なのではないか。そう思われる人もいるかと思います。しかし、私はこの箇所の意味は、新共同訳と口語訳の二重の意味で受け取ったら良いと思っています。「勝つ」・「理解する」と訳されている言葉は、元のギリシャ語では「自分のものにするためにしっかり握る」というニュアンスの言葉です。そこから「心でつかむ」つまり「理解する」と新共同訳は訳したのです。また、この暗闇の世界は、確かにキリストを理解することはありません。だから、主イエスを十字架につけたのです。しかしその十字架においてこそ、闇は光に打ち勝たなかったのです。むしろキリストは、十字架においてこそまことの光を放ち、神の愛の勝利を告げたのであります。主イエスの十字架は、我が子・キリストさえも私共の罪を赦すために惜しまないという、神様の愛の勝利でした。ですから、「闇は光を理解せず、これに勝つことも出来なかった」ということなのです。
私共はこのヨハネによる福音書の冒頭の所を読みながら、実にキリストというお方が、二千年前におとめマリアから生まれる前から、天地創造の以前から神様と共におられ、神様と共にすべてを造られた神様であるということを知らされました。そのことによって私共は、あの十字架にお架かりになったイエス・キリストというお方が、すべての人と、つまりこの富山に住む一人一人と無関係ではないのだ、その一人一人の命と深く関わっているのだということを知らされました。本人がどう思っていようと、そういうことなのです。キリストは、私共個人や自分の家とだけ、あるいは一つの国とだけ関わる小さな神ではないのです。闇は光を理解しないのであって、人々はこの真理をすぐには受け入れないかもしれません。しかし、私共は知ってしまった。知ってしまった以上、私共は世の光として、まことの光であるキリストを高く掲げていくしかないのであります。光が闇に勝つことはない。私共を襲う様々な不安、嘆き、老い、死の恐れ、それらはすべて闇の力です。キリストの光が、そのすべてを打ち払うのです。
私共は今から聖餐に与ります。神の言であるキリストが私共の中に入り、私共を永遠の命へと導いてくださる。キリストの内にある命が、この聖餐を通して私共の中に注がれるのです。ありがたいことです。このキリストの命に与った者として、キリストの光を高く掲げて、この一週も歩んでまいりましょう。
[2011年2月6日]
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