富山鹿島町教会

礼拝説教

「霊の導きに従って」
申命記 26章16〜19節
ガラテヤの信徒への手紙 5章16〜26節

小堀 康彦牧師

1.何代目のクリスチャン?
 先週、富山地区の一泊教師会に行ってまいりました。今回は地区の○○先生と○○先生の送別会を兼ねるということで、牧師夫人も何人か参加されました。その食事の時に、クリスチャン何代目かという話が出ました。富山地区の9人の牧師の内、初代のクリスチャンは私ともう一人だけでした。二代目、三代目という中に、四代目という牧師がいて「ホーッ」と感心しておりましたら、スイスからの宣教師として来られている○○先生が「私、何代目と数えたことはありません。16世紀からずっとであることは確かです。」と言われて、改めて日本の教会の歴史の短さを思わされました。やがて日本でも、何代目などということを数えることもなくなるのでしょう。そう思うと、初代であるということは、自分からキリスト者の家の歴史が始まるわけで、少し誇らしい気分になりました。と言いますのも、私はそれまで自分が初代のキリスト者であるということに対して、自分にはクリスチャンらしさが身についていないのではないかという、負い目のようなものを感じていたからです。
 私が献身して神学校に入るということになりましたとき、教会の青年会の何人もの仲間から「イメージじゃないね」と言われました。私が牧師になるというのは、どうもピンと来ないというのです。笑いながら、口を揃えて牧師らしくないというのです。そんな私が神学校に入ると、牧師の息子という神学生に何人も出会いました。生まれた時から教会に育っている人です。こういう人と接しながら、どこか自分と違うと感じることが何度もありました。彼らは、生まれた時から教会におり、教会外のことを知りませんから、ブレようがありません。私などは、こんなことをしたら救いから漏れてしまうのではないかとすぐに思ってしまうところがあったのですが、彼らの中には「救われないのではないか?」という感覚、そういう発想そのものが無いのです。これには本当に驚きました。それ故に、まことに自由なのです。私などは、初詣には行かない、占いはしないから始まりまして、日曜日には教会に行く、食前にお祈りをする、聖書を読む、といちいち意識しないと出来なかったのです。少し極端な言い方かもしれませんが、若いときの私の中には「自分はクリスチャンになって、日本人であることを半分やめた」という感覚がありました。この歳になって、これではイカンと思い始めて、改めて「日本人としてのキリスト者」ということを考えるようになってきていますけれど、若い頃はそうではありませんでした。キリストによって救われて新しくされた私は、古い自分と決別したのだ。その思いが強く、いつでも肩に力が入ったキリスト者であったと思います。ところが、神学校に入って、肩に力の入っていない何人もの牧師の息子の神学生に出会って、本当に驚いた。そして、驚くと共に、いつか私もこんな風に肩の力を抜くことが出来るのだろうか、そんな憧れのようなものを感じたのです。この憧れは、自分の中にはクリスチャン・パーソナリティーとでも言うべきものが身についていないという、初代クリスチャンの負い目のようなものの裏返しでもあったと思うのです。今でも四代目の牧師なんていう人に会いますと、「やっぱりどこか違うな」なんて思ってしまうところがありますけれど、今では自分は初代であることによって、回心ということがはっきりしている、キリストを知る前と後がはっきり分かる、そのことのありがたさを思うわけです。

2.霊の実
 私共が肩に力を入れないで、自由に、身に付いたパーソナリティーとして、寛容であり、親切であり、誠実であるということになるならば、まことにありがたいことだと思います。しかし、それが生まれや育ちによって決まってしまうということならば、私共にはどうしようもないということになってしまうでしょう。しかし聖書は、それは「霊が結ぶ実」だと告げるのです。つまり、霊の導きに従って歩んだ結果、その人に身についてくる、そういうものだと言うのです。もちろん、幼い時から祈りの中で育まれ、神様に向かって心を開くように促されて育てられたなら、霊が結ぶ実もきっと豊かになることでしょう。しかし、私共は生まれも育ちも選ぶことは出来ません。そのような家庭に育たなかったなら「霊の実」を結ぶことが出来ないというのなら、私共には手がありません。しかし聖書は、そうではないと言うのです。霊の導きに従って歩むなら、私共には必ず霊の実が結ばれるというのです。
 霊の実とは、22〜23節にあります「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。この霊の結ぶ実のリストは、最初にあります「愛」が展開したものと見て良いと思います。つまり、神様への愛、人への愛が満たされる中で、神様との間に「喜びと平和」が与えられ、人との間に「寛容、親切、善意」が与えられ、自分との間には「誠実、柔和、節制」が与えられる。そのように読むことも出来るかと思います。私共はこのような愛、このような良きものを備えた人となるようにと召されているということなのです。
 しかし、このような徳目リストを見て、自分には十分備わっているという人はいないでしょう。とても自分は程遠いと思うのが普通だと思います。このような完全な愛を身につけた方は主イエス・キリストしかおられません。つまり霊の実としてこのような良きものを身につけるということは、私共が主イエス・キリストに似た者となるようになるということなのです。この地上においては、どこまでも欠けのある私共です。しかし、たとえ欠けがあろうとも、キリストに向かって変えられ続けている、成長させていただけるということなのであります。
 この変えられ続ける歩み、それが「霊の導きに従って歩む」ということなのです。では、「霊の導きに従う」とはどういうことなのでしょうか。聖霊が、私共の耳元で「ああしろ」「こうしろ」と命令するわけではないでしょう。ここで「霊の導き」と「肉の欲望」というものが対比されていることに注目しましょう。霊の導きとは、聖霊の導きと読んでも良いでしょうし、聖霊によって目覚めさせられた新しい人としての霊の導きということです。「霊」というのは、信仰が与えられるところであり、「霊の導き」とは、信仰による導きと言っても良いだろうと思います。

3.肉の業
 一方、肉の欲というのは、救いに与る前の古い自分の欲ということです。ここで誤解してはいけないのは、霊と肉という対立を、精神と肉体という区分で理解してはいけないということです。精神も肉体も含めて、主イエスによって救われる前の私の中にある欲は、肉の欲なのです。ここでいう肉とは、罪という言葉と置き換えてもよいものです。肉の業、すなわち罪の業なのです。
 19〜21節に「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」とあります。この悪のリストですが、これは四つに分類出来ます。第一に性的な悪「姦淫、わいせつ、好色」、第二に神様との関係での悪「偶像礼拝、魔術」、第三に人間関係での悪「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」、そして第四に自分をダメにする生活習慣としての悪「泥酔、酒宴」です。悪のリストは、これだけではありません。ここに示されていることに代表されることです。これには、いくらでも追加することが出来るでしょう。当時はなかったけれど、現代では入れなければならないものもあるでしょう。例えば、「偶像礼拝、魔術」のところには占いも入るでしょうし、口寄せも入るでしょう。また「泥酔、酒宴」のところには、麻薬、薬物も入るでしょう。これらの外から見ても明らかなものは、誰が見ても「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことは出来ない」ということに同意するでしょう。しかし問題は、第三のグループにある、人と人との関係におけるものです。「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」これらは人の心の中にあって、外から見て分かるというものではありません。だから難しい。しかし、これが罪の業であることは誰でも分かります。そして、この罪の業は、霊の導きと対立することも分かるかと思います。つまり、霊の導きと肉の業・罪の業は対立するのであり、この対立を自らの内に抱えているのが、私共キリスト者なのです。

4.霊と肉との戦い
 私共は、キリストに出会い、キリストに救われるまで、このような対立を我が内に抱え込むことはありませんでした。何故なら、私共は全く罪に染まっておりましたので、罪の業に引きずり回されていても、これを憎み、これと対決し、これを抑えようとはしなかったのです。罪を罪として認識出来なければ、これと戦うこともないのは当たり前のことです。しかし、主イエス・キリストと出会い、この方によって救われ、神の子・神の僕とされた私共は、新しく生まれ変わった者として、それまでの肉の業に対して戦い、これを退けようとする、そのような歩みが始まったのです。この戦いは生涯続くものですけれど、戦う場所と言いますか、戦うステージと言いますか、それはどんどん変わっていくと思います。一つの山を乗り越えたら、次の山が見えて来るようなものです。例えば、初詣をやめる、占いをしない、食前の祈りをする、主の日の礼拝を守るといった習慣は、最初に身につけなければならない戦いでありましょう。この戦いは、確かに、自分が意識してそれを行うということで為されるのですけれど、それをやろうとする思い、志というものは、主イエスによって新しくされた私共の霊が願い望むところから出発しているのです。これが、霊の導きに従って歩むということなのです。 
 今、この霊の導きと肉の業との戦いを私共は自分の内に抱え込むと申しました。それはそのとおりなのです。その戦いがなくなるということはないのです。しかし、この戦いのステージは霊的成長と共に変わっていくのです。例えば、主の日の礼拝を守ることは、初めの頃は、それこそ日曜日の朝が来る度ごとに大変な戦いだったでしょうが、一度習慣化してしまえば、主の日の礼拝を守ることは当たり前のことになるのであって、改めてこれを戦いとして意識することは無くなってきます。食前の祈りにしても同じことです。しかし、すべてがこのような生活上の習慣によって解決するわけではないのです。13節に「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」とあります。私共は自由でありますが、この自由は肉の欲を満たすために用いることも出来るものなのです。肉の欲を満たす。それは何も食欲、性欲といった肉体の欲だけではないのです。もっと根本的には「神様の御前にひれ伏そうとしない」というものがあり、神様の言葉に従おうとしない罪があるわけです。それは、隣り人を愛そうとしない、仕えようとしない、自分が主であって相手を仕えさせようとする、自分がほめたたえられたい、神様の栄光ではなく自分の栄光を求めてしまう、このような肉の欲があるわけです。そこには、当然のこととして「ねたみ」や「仲間争い」といったことが起きてくるのです。

5.キリストに似た者へと造り変えられ続けていく
 この世界は神の国、天国ではありませんから、この肉の欲によって引き起こされる仲間争いといったものが無くなることはありません。新聞を開けば、連日のように政治家たちの権力闘争の話が報道されています。このままで日本はどうなるのかという不安さえ、多くの日本人が持っている。しかし、程度の差こそあれ、このような争いが無くなることはないのです。しかし、キリスト者同士がそうであってはならない。教会においてはそうであってはならない。そうパウロは願い、勧めているのです。26節で「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」と告げられているのは、そういうことだと思います。教会の中が、教会の外と同じようなことであるならば、証人にならないのです。ここには救いがある、罪に対しての勝利がある、その証にならないということなのです。
 私共は主イエス・キリストに救われました。神の子となりました。子は父の愛の中で育まれ、父が喜ぶこと、望むことを行おうとするのです。それが、霊の導きに従うということなのです。私共は、自分を喜ばせることよりも、神様が喜ばれることを望むのです。それが、神の子として新しくされた私共の感性なのでしょう。これは、無理をして、歯を食いしばって、やりたくもないことを神様が喜ばれると思うからやる、というのは少し違うと思います。私共は自由なのです。この自由の中で、霊の導きに従うのです。それは、そうすることがキリストに救われた自分としては嬉しいことであり、そうすることが気分が良いからです。そのような者として成長出来るように、私共は召されているのです。私共は、「自由の中で」神様の喜ばれることを、つまり神様を愛し、神様に仕え、人を愛し、人に仕えるということ、これが出来るようになるのです。何故なら、24節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」とあるとおり、古き私は既に十字架の上で死んだからです。もちろん、時には自分の思いや自分の欲に引きずられることもあるでしょう。しかし私共は、その一つ一つのステージを乗り越えていって、少しずつ少しずつキリストに似た者へと造り変えられ続けていく、そういう営みの中を歩む者とされているのです。
 「自分はちっとも変わらない。」そのような言葉を古くからの信徒の方の口から聞くことがあります。私はこのような言葉を聞く度に、「それは間違っています。」そう思うのです。「何にも分からないままに50年前に洗礼を受けて、それ以来、ちっとも成長していない。」そんな言葉を聞くと、「ちっとも変わっていない、成長していない、そう自分では感じているかもしれないけれど、そんなことは決してない。50年前の自分を忘れてしまっただけですよ。大いに変わっているはずです。」そう思うのです。私共が霊の導きに従って歩んでいくことを祈り願い続けるならば、私共は必ず変えられていくのです。天地を造られた神様が、その全能の御腕をもって私共を変えていってくださるからです。私共は、この神様のあわれみと神様の御力を信じて良いのです。
 私共がこの歩みを為し続けていく上で、どうしても必要なこと。それは、御言葉の養いを受け続けることであり、霊の導きに従っていけるように祈り求め続けることです。そして、この教会に集い続けることです。この教会の中で育まれていく時、私共はいつの間にか霊の実を結ぶ者となっていくのです。私共の中に必ず「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の霊の実が実っていくのです。私共が心から愛し、憧れている主イエス・キリストに似た者に少しずつされていく。それが私共に備えられている道なのです。まことにありがたいことであります。ここから始まる新しい一週の歩みもそのようなものとして、神様の御前にささげていきたいと心から願うのです。

[2011年1月16日]

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