1.キリスト者の自由
私共が用いております新共同訳聖書には小見出しが付いておりますが、今朝与えられております御言葉の所には「キリスト者の自由」という小見出しが付いています。この「キリスト者の自由」という言葉を聞けば、すぐに宗教改革者マルティン・ルターが記した同名の本を思い出す方も多いと思います。ルターはこの『キリスト者の自由』という本の中で、「キリスト者は全ての者の上に立つ自由な主人であって誰にも服しない」(第一命題)、しかし「キリスト者は全ての者に仕える僕であって誰にでも服する」(第二命題)と語ります。主イエス以外に主人を持たない完全な自由を与えられたキリスト者。しかし、その自由をキリスト者は自分の欲を満たすために用いるのではなくて、神様に仕え、隣人に仕えるために用いる。それがキリスト者に与えられている自由なのだとルターは語ったのです。もちろん、それはルターが語ったというよりも、聖書が私共にそのように告げているのです。そして、このキリスト者に与えられている自由こそが、キリスト者とは何者であるかということを明確に教えているのです。
2.聖霊なる神様によって与えられる信仰
私共は主イエス・キリストを信じています。それは主イエスを愛しているということであり、主イエスと結ばれているということです。私共に主イエスへの信仰を与え、主イエスとの愛の交わりを与え、私共を主イエスと一つに結びつけてくださったのは、聖霊なる神様です。聖霊なる神様は見えませんし、父なる神様や御子イエス・キリストに比べて、何ともイメージしにくいところがあるかもしれません。しかし、私共の信仰生活の全ては、この聖霊なる神様の導きにかかっているのです。私共は、神様の御支配の中に生き切ることを良しとせず、神様の御心よりも自分の計画、自分の願い、自分の欲を満たすことの方に引きずられてしまうところがあります。これが罪というものです。しかしそうであるにも関わらず、なおそれに抵抗し、神様の言葉に従って生きていこうとする思いもまた私共の中にはあるのです。この自らの罪と戦おうとする思いはどこから来るのか。それが聖霊なのです。聖霊なる神様が働いてくださって、私共に信仰を与え、罪と戦う志を与えてくださるのです。実に、その様な思いが与えられるということが、聖霊なる神様の働きの中に私共が置かれているということの確かな「しるし」なのです。私共が神様・イエス様を愛し、これに従って生きていこうとするのは、聖霊なる神様のお働きによるのです。
私共は信仰というものを、「私が」信じ、「私が」良き業に励み、「私が」努力して精進していくものだと考えてしまうところがあります。そうなりますと、信仰によって救われるという「信仰義認」の教えさえも、私が一生懸命信じることによって神様に義しとしていただくという風に受け取られてしまうということが起きてしまいます。神様が与えてくださる「信仰」というものさえも「私の業」になってしまい、結局「私の業」「私の力」によって救われるということになってしまうわけです。これは全くの間違いです。私共はガラテヤの信徒への手紙を共に読み進めているわけですが、ここでパウロが激しく戦っているガラテヤの教会の人々が陥ってしまった誤り、「主イエスを信じるだけでは救われるに十分ではなく、律法も守らなければ救われない」という教え、その誤りの根本はここにあったのだと思います。ガラテヤの教会の人々が陥った根本的な誤り、それは、信仰さえも自分の業にしてしまうということだったのです。
この誤りは人間の罪に根ざしたものですから、時代を問わず、洋の東西を問わずに、教会の中に顔を出します。顔を出すどころか、多くの教会を飲み込んで、この誤った教えが教会の主流になってしまうということだってあるのです。信仰だけでは救われない、信仰と行いがなければ救われない、と教えた中世のカトリック教会はその典型でしょう。だから宗教改革が必要だったのです。この誤りは、いつでもどこでもキリストの教会の中に忍び込んでくるものなのです。9節「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」とありますように、この自分の業によって救われようとする誤り「律法主義」は、パン種が練り粉全体を膨らませるように、しばしば教会全体に広まって、教会もろともダメにする、そういう感染力があるものなのです。律法主義は人間の罪に根ざしますから、すぐ人と共感します。誰だって、これこれもしなければ救われないという主張の方が真面目に聞こえますし、本当のように思える。だから気をつけなければならないのです。律法主義というのは、本当の所で信仰が分かっていない、主イエスの十字架が分かっていない、主イエスと出会っていない、そういうところで力を持つものなのです。こう言っても良いでしょう。信仰が本当に分からないと律法主義になってしまう。主イエスの十字架が本当に分からないと律法主義になってしまう。主イエスと人格的に出会っていないと律法主義になってしまう。実に、律法主義は私共の隣に何時でも口を開けているものなのです。
3.義とされた者の希望
さて、ガラテヤの教会の人々は信仰によってのみ救われるという福音から外れて、律法も守らなければ救われないという教えに引き込まれていってしまったのですけれど、パウロはそのガラテヤの教会の人々に対して、だったら割礼を受けるだけでは済まないのであって、律法全体を守らなければならない、そうでなければ律法を守ったことにはならないし、救われないと告げます。そして、そのような業によって救われようとするならば主イエスの十字架はいらないでしょう、主イエスとは縁もゆかりもない者となる、それで良いのですね、と言うのです。主イエスと縁もゆかりもない者となれば、あなたがたはどうして救われるのですか。だから、そんなバカな教えからは足を洗いなさい、とパウロは語っているのです。
そして、主イエスと縁もゆかりもない者になっても律法によって救われようとする者たちに対して、自分たちの与えられている希望を語るのです。5節「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、”霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」とあります。ここで告げられている「義とされた者の希望」でありますが、これは信仰によって義とされた者が、やがてキリストのように全き義を体現する者となる、その日を待ち望む希望です。私共は主イエスによって罪赦され、神様によって義と認めていただいた。しかし、未だに罪を犯すわけです。完全に義なる人となってはいない。しかしそのような私共が、やがて神様の御前に全き義の人となる、キリストに似た者に完全に造り変えられる日が来る。それは主イエスが再び来られる日です。私共はその日が来ることを信じ、そして待ち望んでいるのです。これもまた、聖霊なる神様のお働きよるのです。信仰がなければ、そんな日は来るかどうか分からないし、そんな日を待っても無駄だということになるのでしょう。あるいは、ちょっと良いことをしては、自分もなかなか良い人ではないか、そう言って自分を慰める。しかし、キリストによって救われ、聖霊によって導かれている者の歩みはそういうものではないのです。主イエスが再び来たり給う日を待ち望みながら、その日に自分の中で義の人が完成されるのを待ち望みつつ、愛の業に励むのです。
4.愛によって互いに仕える
さて、6節において「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と言われます。私共が信仰によって救われるのは、その信仰が主イエス・キリストと私共を一つに結び合わせる信仰だからです。神様を愛し、人を愛された主イエス・キリストと一つにされるのですから、私共は信仰において神様を愛し、人を愛するということに必ずなるのです。「私は主イエスを信じる。しかし神様を愛さないし、人も愛さない。」そのような信仰はあり得ないのです。それは、信じているつもりになっているに過ぎません。「主イエスを信じる」という信仰は、聖霊なる神様によって与えられるものでありますから、その信仰は必ず神様を愛し、人を愛すということと一つになっているものなのです。神様を愛すること、そして人を愛すること。主イエスが再び来られる日を待ち望みつつ、この二つの愛に生きるのが私共に与えられている道なのです。
では、この愛とはいかなるものなのか。13節に「愛によって互いに仕えなさい。」とあります。この「愛する」ということは、「仕える」ということです。これは聖書に親しんでいる人にはどうということのない表現かもしれません。しかし、これは実に驚くべき言葉だと思います。「愛する」ということが「仕える」ことであるとは、キリストの教会以外の所で教えられることはないでしょう。
ここで思い起こさせられるのは、主イエス・キリストのお姿です。主イエスは御自身の命を十字架の上でお捨てになるというあり方で、私共への愛を全うしてくださったのです。そしてこの主イエスの愛は、父なる神様への愛の表れでもありました。その愛は、僕の姿をとって十字架の死に至るまで従順であられるというあり方で表されたのです。このキリスト・イエスに結ばれた私共の愛、それは仕えるというあり方においてしか現れようがない愛なのであります。愛する者のために、自分の大切なもの−−それは富であり、勢力であり、時間であり、心であり、祈りでありましょう−−それらを献げるというあり方において、私共の愛は表されるのです。
しかし一方、私共は相手を支配しようとする愛もあることを知っています。この世の愛は、しばしばそのようなものではないかと思います。相手のことを思いやっているようなつもりになって、相手を自分のコントロール、支配の中に置こうとする。それを愛と思っている場合は少なくありません。親子の関係において、あるいは夫婦の関係において、それはしばしば見られるものです。
今二つの結婚の準備会が行われています。そこで私がお話しすることの一つは、この「愛し合うということは仕え合うということ」です。私は準備会ではこのことをいつもお話しします。皆さんも新婚時代のことを思い出して欲しいのですが、二人の、全く違った環境の中で育った者同士が生活を共にする、それはなかなか大変なことです。生活習慣も考え方もいろんなところが違う。そこで必ず起きることは、言葉は悪いかもしれませんが、主導権争いです。5年、10年すれば折り合いが付くのでしょうけれど、それまでは結構厳しい主導権争いがあるものなのです。しかし、それで本当に良いのかということです。主導権を握った方は良いでしょうが、屈服させられた方はどこまでも納得しない、そういうことだって起きかねません。私は、「愛することは仕えること。そして仕えるためには、相手とよく話をすること。」そう勧めています。
私がよく使うたとえ話にこういうものがあります。……二人の恋人がいた。男の人はパチンコが好きで、デートの時に女の人をパチンコに誘った。女の人は、私は行きたくないと断った。二人は海に行った。次のデートの時、男の人はまたパチンコに誘った。女の人はイヤと断り、二人は山へ行った。次のデートの時、男の人はまたパチンコに誘った。女の人はイヤだと断り、二人は川に行った。四回目のデートの時、男の人はパチンコにまた誘った。女の人はイヤと断り、二人は喫茶店へ行った。五回目のデートの時、男の人はパチンコに誘った。女の人はやはりイヤと言った。男の人は遂に怒った。「自分は四回、あなたがイヤと言うから、海へ、山へ、川へ、喫茶店へと行った。そろそろ自分と一緒にパチンコに行ってもいいだろう。」女の人は言い返した。「四回も断ったら、いいかげんパチンコは嫌いだということが分かるだろう。何で五回目までパチンコに誘うのか。」こうして、二人はケンカになりました。……ここで欠けているのは、二人の会話です。二人は自分の意志は伝えています。しかし、その心、その理由を相手に伝えていないのです。男の人は、「どうしてパチンコに行きたいのか。この女の人と行きたいのか。」その理由を伝えていません。また女の人は、「どうして自分はパチンコに行きたくないのか。」その理由が少しも語られていないのです。ひょっとすると、この女の人には、「幼い時、お父さんがパチンコが大好きでよく連れて行かれた。ある日、お父さんはパチンコに行くと言ったきり、帰って来なかった。だから、彼女はパチンコ屋さんの前を通るだけで、いなくなってしまったお父さんのことを思い出して悲しくなる。」こんな理由があったのかもしれません。そうであるならば、この理由をちゃんと相手に伝えていたならば、この男の人は彼女を二度とパチンコに誘わなかったのではないでしょうか。
愛するということは仕えることです。しかしこの仕えるというのは、一方的な自分の思い込みだけで仕えることは出来ないのです。実際に仕えるということは、ちゃんと相手の話を聞いて、相手の思いを受け止め理解した上でなければ、仕えるということにならないのでしょう。このコミュニケーションがない所では、本人は相手に仕えたつもりでも、相手には迷惑なだけということだって起きるのです。まことに難しいものです。愛とはまことに難しい。それは、愛には相手があるからです。律法は、こういう場合はこうすると決まっているわけですから、律法を守る場合にこのような難しさはありません。しかし、私共はたとえ難しくても、愛の実践へと向かっていくのです。何故なら、私共の信仰は、聖霊なる神様の働きの中で、主イエス・キリストと一つにされた所で与えられたものだからです。主イエスの愛が十字架において全うされたことを知らされている私共は、難しいからやめたというわけにはいかないのです。主イエスの十字架によって与えられた自由を、神と人とを愛し、神と人とに仕えるというあり方において用いる者として召されているからです。
5.愛の交わりを形作る
私共は主イエスによって、何にも縛られない全き自由を与えられました。誰にも命じられず、誰の支配も受けません。誇り高き自由人です。しかし、私共はこの自由を主イエス・キリストと一つにされた者として、主イエス・キリストに倣う者として用いるのです。つまり、神と人とを愛し、神と人とに仕えるというあり方で用いるのです。そうでなければ、私共はキリストと関係のない者になってしまうのです。確かに、この地上において、私共の歩みが主イエス・キリストの歩みと完全に重なることはないでしょう。罪人であるからです。しかしやがて、この弱く愚かな罪人である自分が、完全にキリストと似た者となる。私共はそのことを信じ、その日を目指して、愛に生きるのです。この歩みは、私共の歩みではありますが、私共に働いてくださる聖霊なる神様の導きの中での歩みです。だから、落胆しないし、失望しないし、投げやりにならないし、何度でもやり直していくのです。
そしてこの歩みは、「ここにまことに神様がおられる」との告白へと人々を導くことが出来る程の愛の交わりを形作っていこうとするのです。その愛の交わりとは、各々の家庭であり、地域であり、そして何よりこの教会です。この教会にいれば愛が分かる。自らの自由を互いに仕えるために献げ切っている者がここには居るからです。私共の教会は、その様な者たちの群れとして建ち上がっていくのです。そのためには、何よりまず私共一人一人が献げることの喜びの中に生きるということなのでしょう。喜んで献げている人の周りには風が吹きます。聖霊の風です。この風が渦を巻き、周りの人を巻き込んでいく。そして、さらに喜び献げる者の交わりが大きく広がっていくのです。一人で良いのです。一人が献げることの喜びに生き、仕える愛に生き切るならば、風が吹き渡り始めるからです。この聖霊の風と共に愛の交わりは広がり、形作られていくのです。
この愛の交わりと正反対なのが、互いに咬み合い、共食いする交わり。つまり、互いに自己主張ばかりしていて、相手を支配し、コントロールしようとする交わりです。そこには自由はありません。自らの罪の奴隷となったままの交わりがあるだけです。私共は、そのような交わりを聖化する、キリストの愛によって新しくする、そのような者として召されているのです。私共が居る所では、喜んで献げ、仕える者が起こされていくのです。聖霊なる神様の導きの中で、そのような証人として私共が立てられていくことを願い、祈りを合わせたいと思います。
[2011年1月9日]
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