富山鹿島町教会

花の日礼拝説教

「主との交わりに生きる幸い」
ヘブライ人への手紙 4章14〜16節

小堀 康彦牧師

1.花の日
 今日は花の日の礼拝として、教会学校の子供たちと一緒に礼拝を守っています。この花の日の礼拝というのは、今から150年ほど前にアメリカのマサチューセッツ州の教会で「子共の日の礼拝」として守られたのが最初です。ちょうど日本にキリスト教が伝わってきた頃ですね。子供たちが、この花のように健やかに育つように、そしてこの花のように私たちの周りにあふれている神様の恵みに感謝して、神様の愛に生きるようにと願って守られてきました。ですから、この礼拝の後には、子供たちと焼きそばを食べたり、遊んだりもしますけれど、それだけではないのです。このお花を持って、お隣の逓信病院にお見舞いにも行くのです。私たちは、子供たちが神様の愛の業に仕える人になること、そのことを何より祈り願っているからです。この花の日にお花を届けるという行事はキリスト教の幼稚園や学校でも行われ、交番や消防署など、日頃お世話になっているところにも花が届けられます。もちろん、子供たちだけが神様の愛の業に仕えるわけではありません。子供たちは大人を見て育つのですから、私たち大人が実践していなければ、そのように育っていくことは期待出来ません。ですから、今日は大人の人もこのお花を持って、病気の人たちのところにお見舞いに行くのです。

2.大祭司イエス様
 さて、今朝与えられている聖書には、イエス様が「偉大な大祭司」であると書かれています。大祭司というのは、旧約聖書の時代、神殿の一番奥の誰も入ることの出来ない聖なる場所に年に一回入って、すべての人の罪の赦しを神様にお祈りする人でした。神様と人間との間に立って、すべての人のために、すべての人に代わって、神様に執り成しの祈りをささげる、それが大祭司でした。ですから大祭司は、大変重い、大切な役割を持った人だったのです。しかし、イエス様はそのような大祭司とは比べものにならないほど偉い大祭司なのだ、と聖書は言うのです。それは、大祭司は動物の犠牲をささげて、私たちの身代わりとしていました。「私たちは神様に対して罪を犯しましたが、私たちに代わってこの動物をささげますからお赦しください。」そう祈っていたわけです。ところが、イエス様は動物をささげるのではなくて、自分自身を、私たちのために、私たちに代わってささげてくださいました。それが十字架です。神様に向かって、「わたしがこの人たちの代わりに十字架の裁きを受けますから、どうかこの人たちの一切の罪を赦してください。」そう言って、十字架にお架かりになってくださったのです。
 イエス様は神様の子です。イエス様は、神様に向かって「アバ、父よ」と呼びかけて祈ることが出来る方でした。神様と親しい交わりの中にあり、神様の心を自分の心としている方でした。しかし、私たちはどうでしょうか。神様のことなど考えもしないで、自分のことばかり考えているのではないでしょうか。私はこれがしたい。あれはイヤだ。そんなことばかり言っています。神様はどうお考えなのか、そんなことは少しも考えないで生きています。それを罪と言うのです。イエス様は、そのような私たちが神様と親しい交わりに生きることが出来るように、神様と私たちの間に橋を架けてくださったのです。その橋が十字架です。

3.「アバ、父よ」と祈れる幸い
 このイエス様の十字架によって、私たちは神様と親しく交わることが出来るようになりました。それがこの礼拝であり、お祈りです。私たちは、お祈りする時に神様に向かって「天におられる父なる神様」とか「全能の父なる神様」と言って呼びかけます。神様に向かって「父」「お父さん」と言って呼びかける、それは私たちが神様の子供とされたからです。神様が、イエス様の十字架の故に、私たちを「我が子よ」と言ってくださったからです。これは本当に素敵なことです。天地を造られた神様が、私たちのお父さんなのです。だったら、どんな力も私たちを踏みつけ潰すことは出来ません。天地を造られた全能の神様が、私たちを守ってくださるからです。そのことを信じて、神様を信頼して、私たちは何でも神様にお祈りしたら良いのです。
 でも本当に神様は私の祈りを聞いてくれるのかな、そんな心配をする人もいるでしょう。大丈夫です。何故なら、私たちはお祈りの最後に、「このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と言って終わります。これは、私たちが祈る祈りは、すべてまことの神の子である主イエス・キリストを通して、イエス様の祈りとして父なる神様に聞いていただけるということなのです。私の祈りなんて、神様は聞いてくれるかな。そんな風に思う人もいるかもしれません。しかし大丈夫なのです。私たちの祈りは、「主イエス・キリストの御名によって」祈られるのですから、この祈りはイエス様の祈りとして神様の元に届けられます。ですから、神様は必ず聞いてくださるのです。私たちと神様との間にイエス様がいて下さって、しっかり神様に伝えてくださるのです。イエス様が間にいてくださるのですから、私たちは何も恐れる必要はないのです。大胆に祈ったら良いのです。

4.私たちと共に苦しむイエス様
 でも、ここまで言ってもまだ、本当に私の祈りが神様に届くのかな、と疑う人がいるかもしれません。イエス様は神様の子だから、神様はイエス様の言うことは聞いてくれるだろう。でも、イエス様は本当に私の祈りを神様に届けてくれるだろうか。私の苦しさ、悲しさをイエス様は本当に分かってくださるだろうか。そう思う人がいるかもしれません。
 私たちはここで、イエス様がどんな方であったかを思い出しましょう。イエス様が生まれたのは馬小屋でした。飼い葉桶がイエス様のベッドでした。イエス様のお父さんは大工のヨセフでした。ですから、イエス様は貧しさを知っているのです。イエス様が十字架に架けられたのは、律法学者や祭司長たちが妬んだためでした。イエス様は人の妬みを受ける苦しみを知っているのです。イエス様が十字架に架けられる時、弟子の一人のユダが裏切りました。また、他の弟子たちも皆イエス様を捨てて逃げてしまいました。イエス様は人に裏切られる悲しみを知っているのです。そして、イエス様は十字架の上で、朝の9時から息を引き取る午後の3時まで死の苦しみを味わいました。イエス様は、肉体の痛みも死の苦しみも知り尽くしておられるのです。イエス様は神の子でありながら、馬小屋で生まれ、罪人と共に十字架の上で死なれました。天の高きにおられたイエス様が、地上に降り、しかも十字架の苦しみまで我が身に負われた。それは、誰も「イエス様は私の苦しみを知らない。」と言うことがないためでした。
 15節「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」とあります。この「同情する」という言葉は、「共に」「苦しむ」という言葉なのです。イエス様は、上から「かわいそうに」と見ている方ではなくて、私たち一人一人の弱さ、悲しみ、苦しみを、一緒になって味わわれ、一緒に背負ってくださり、私たちの祈りを御自分の祈りとして一緒に神様に祈ってくださる、そういうお方なのです。天におられたキリストが、肉体をとってイエス様としてお生まれになってこの地上を歩まれたということは、私たちと共に苦しむため、私たちの苦しみを御自分の苦しみとして引き受けるためだったということなです。

5.どんな時も祈りましょう
 良いですか、皆さん。私たちはどんな苦しみの中にあっても、一人で苦しんでいるのではないのです。主イエスが共に苦しんでおられるのです。そして、私たちがその苦しみの中から祈り叫ぶ時、イエス様はその祈りを御自分の祈りとして祈ってくださっているのです。だからどんな時も絶望せず、「父なる神様」と言って祈りましょう。そして、「主イエス・キリストの御名によって」祈りましょう。神様は必ず私たちを憐れんでくださり、恵みを与えてくださり、その時に適った助けを与えてくださいます。これが、私たちに与えられている神様からの約束だからです。

[2010年6月13日]

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