富山鹿島町教会

礼拝説教

「パウロの弁明」
ハバクク書 2章2〜4節
使徒言行録 24章1〜27節

小堀 康彦牧師

1.神の御前で
 エルサレムで捕らえられたパウロは、ユダヤ人たちによる暗殺計画がローマの千人隊長の知るところとなって、総督のいるカイサリアへと護送されました。そして、大祭司アナニアたちが総督にパウロを訴えるためにカイサリアにやって来ました。この時、彼らは弁護士テルティロという人を連れていました。当時のローマの裁判には、現代の裁判と制度は違いますけれど、既に弁護士という存在があったのです。その弁論によって判決を有利に導いていく専門家です。当時は、現代のように物的証拠によって判決が決まっていくという時代ではありません。何人かの証人によって、また弁護人の論述によって裁判が進められていくというものでした。このテルティロという弁護士は多分、ローマの法律も知り、弁論術も学んだユダヤ人だったのではないかと思います。
 彼はこう語り出します。2〜4節「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。」これは明らかに総督フェリクスに対しての社交辞令、おべっかです。総督の機嫌を取って裁判を有利に進めようとする常套手段だったのでしょう。しかし、歴史的に言うと、ここで弁護士テルティロが語ったことは全くの嘘だったようです。この総督フェリクスという人は、ユダヤ人に対して大変厳しく傲慢に接し、そのためユダヤ人からの評判が大変悪く、皇帝によって更迭されたという記録が残っているのです。ただここで思わされますことは、弁護士テルティロ、と言うよりも大祭司たちと言った方が良いかと思いますが、彼らはこの裁判を、総督フェリクスの前における裁判、この世の裁判としか理解していないということです。この裁判において自分たちの主張を通し、パウロを断罪し、主イエスを信じる者たちを一掃したい。その一念で彼らはここに来ているということです。何が言いたいかと申しますと、彼らはただ一人のまことの神を信じるユダヤ人でありながら、この裁判は神の御前におけるものであるということが意識されていないということなのです。
 このことは、パウロの弁明と比べると分かることです。パウロも、これが総督フェリクスによって為される裁判であることはよく分かっています。しかし、それだけではなくて、ここで語ることは神様が御存知である、だから神様の御前に恥ずかしくない言葉を語り、証しを立てようとしているのです。
 今朝、私共がこの御言葉から与えられるメッセージは、このことなのです。神様の御前に生きていくということです。私共の生涯のすべては神様の知るところであり、そして私共は、そのすべてをご存じである神様の御前に立たされる時が来るのです。この神様の審判というものがあることを私共は知っているのです。それを知っている者として、神の御前に生きる。それがこの時のパウロの明確な立場なのです。これは、もちろんパウロだけのあり様ではありません。私共キリスト者に与えられております最も基本的な、この世を生きていく上での歩み方なのであります。「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)のです。この生き方は、私共の中に、変わることのない堅い一本の筋を与えてくれるものなのでしょう。私共は、その場その場でうまく立ち回るということが出来なくても良いのです。そうではなくて、神様の御前に生きている、生かされているのです。
 主イエスは言われました。ルカによる福音書12章4〜5節「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」パウロは、総督フェリクスの前に立たされた時、この主イエスの御言葉を心に刻んでいたのではないでしょうか。

2.大祭司たちの訴え
 さて、大祭司たちのパウロを訴える論点は二つありました。一つは、5節「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者」であるということ。具体的には、6節にあります「神殿を汚そうとした」ということです。この「騒動を引き起こす者だ」という点は、ローマが決して認めない、ローマが絶対に取り締まらなければならないものでした。ここで「疫病のような人間」という表現は、図らずもパウロの伝道が大変力のあるものであり、主イエスの福音がどんどん広がっていった様子を伝えています。
 第二に、「『ナザレ人の分派』の主謀者」であるということでした。この「ナザレ人の分派」というのは、主イエスがナザレで育ったことから、当時キリスト教徒たちを呼ぶ時に用いられた言い方です。ナザレ人の分派、あるいはナザレ派と言われました。当時、ユダヤ教はローマ帝国によって公認されていた宗教でした。しかし、このナザレ派はユダヤ教の異端であり、ローマが公認している宗教ではない、だから取り締まらなければならないというのが、大祭司たちの主張であったと思います。ローマに支配されていることを良しとしていない人々が、パウロを断罪しキリスト者を弾圧するためにはローマの権力を用いようとする。何とも都合の良い話です。

3.パウロの弁明
 パウロは、この二つの点について弁明します。第一の点、ユダヤ人の間で騒動を引き起こしている者だという点について、11〜12節「確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。」と反論します。この日はパウロがカイサリアに護送されて5日後のことなのですから、パウロがエルサレムにいたのはたったの一週間ほどであったということでしょう。パウロがここで語っていることはその通りで、パウロが異邦人伝道した時にも、騒動を起こしたのはパウロではなく、異邦人伝道を良しとしないユダヤ人たちでした。パウロが論争したり、騒動を起こしたことを証言できる人はいませんでした。
 パウロは、エルサレムの神殿において起きた騒動についても17節以下で語ります。自分は神殿で供え物を献げていただけで、別に何もしなかった。ところが、アジア州から来たユダヤ人がいて、彼らが騒動を起こしたのであって、最高法院もこれについて何の不正も見つけられなかったではないか。その通りなのです。ですから、第一の論点はパウロの勝ちです。この第一の論点においてパウロを訴えることが出来なければ、ローマの法律によってパウロを断罪することは出来ません。ここでもう、この裁判は決まったと見て良いと思います。
 そして、パウロは第二の論点に移ります。14節以下です。14節「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」とパウロは語ります。自分がキリスト者であるということについて、パウロは少しも言い逃れようとしません。そして、キリスト者は他の神を拝んでいるのではなく、ユダヤ教と同じ神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、先祖と同じ神を拝んでいるのだと告げるのです。そして、律法や預言書に記されていることを信じていると言うのです。これに嘘はありません。だったら、キリスト教とユダヤ教と何が違うのか。あのナザレ人イエスが救い主・メシアであると信じるかどうか、この一点なのです。

4.終末のリアリティー
 私は、このパウロの弁明の中で注目すべきなのは15〜16節であると思います。15節「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。」この15節は、少し違和感があるかもしれません。私共も復活を信じますが、それは主イエスの救いに与った者が永遠の命を与えられて復活する、救いの完成としての復活です。しかしここでは、「正しい者も正しくない者もやがて復活する」と言っています。これはどういうことかと申しますと、正しい者も正しくない者も復活して神様の御前で審判を受けなければならない、いわゆる最後の審判です。その後に、私共が普通に信じている救いの完成、永遠の命の成就としての復活と、永遠の滅びとしての第二の死というものがあるということでありましょう。パウロは、この終末における神様の御前における裁きを信じる者としてここに立っているのです。
 ファリサイ派は、復活を信じていました。しかし、大祭司たちサドカイ派は信じていません。この違いが、最高法院における混乱を生じさせた原因です。キリスト教は、その意味ではファリサイ派に近いわけです。ただこの復活が、主イエス・キリストを信じ、主イエスと結ばれた者が与ることが出来るという点が違うわけです。
 そして、16節「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」とパウロは告げるのです。パウロは、神に対しても人に対しても「責められることのない良心」に従って生きていると言うのです。このパウロの良心は、やがて神様の御前に立つことになる、それを知っている者として今を生きるというものです。パウロはここで、大祭司たちや総督フェリクスの前に立っているのですけれど、自分が何を語るかは神様も見ておられる。この方の前に、自分は責められるところのない者として語っている。そうパウロは宣言しているのだろうと思います。
 主イエスは、「『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカによる福音書17章10節)と言われました。パウロは、まさにこの一言を主の御前に立たされた時に言えるようにと、この時も天におられる父なる神様と、神様の右におられる主イエス・キリストを見上げつつ語ったに違いないと思うのです。この終末のリアリティーこそ、キリスト者をキリスト者として立たせていく力なのです。

5.人を恐れる総督、神を恐れるパウロ 
 総督フェリクスの前での双方の弁論は終わりました。フェリクスはパウロに対して、ローマの法律に従うならば、有罪とすることが出来るものは何も見出せなかったと思います。ですから、パウロに対して23節「パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。」という措置を取ったのでしょう。しかし彼は、パウロに無罪判決を下すことはしませんでした。それは、そのような判決を下せば、大祭司たちが騒動を起こすのではないか、そのことを恐れたからだと思います。総督フェリクスにとって、それは何よりも困ることでした。ユダヤの治安が乱れれば、それは総督としての責任になるからです。そこで彼は、判決を引き延ばすという道を選んだのです。いつの時代でも政治家が困った時にすることです。この時フェリクスは、明らかに人を恐れたのです。このあり様に、私は、主イエスを十字架に架けたポンテオ・ピラトと同じものを感じます。ここで、パウロだけが、真に恐れるべき方を恐れ、それ故、恐れる必要のない者を恐れないという態度を一貫していると思います。

6.二年間の牢獄生活
 パウロは、何と二年もの間、この総督フェリクスのもとで監禁されることとなったのです。歴史に「もし」はありませんけれど、もしこの時パウロが直接ローマに行って伝道していたのならば、さらにイスパニアにまで伝道していたならばどうであったろうかと、つい考えたくなってしまいます。大変なロスではなかったでしょうか。しかし、これもまた神様の御計画の中では意味があったことなのでしょう。
 ここで思い起こすのは、創世記にあるヨセフの話です。ヨセフが、牢獄の中でファラオの給仕役の夢を解いてやって、牢から出されるのを待ったのも二年でした。この二年間は、ヨセフにとって何の意味があったのか分かりません。しかし二年の後、ヨセフはファラオの前に出て、ファラオの夢を解き、ヤコブたちイスラエルの民を救うことになったのです。この二年間は、神様の御計画の中で大きな意味のある二年間だったのです。しかし、私共は目の前のことしか分かりません。ですから、ヨセフの二年間の牢獄も、パウロのこの二年間の牢獄も、全く無駄のようにしか思えないのです。しかし、神様の救いの御計画の中では無駄なことは何もないのです。ですから、私共は与えられたこの時と場所の中で、為せることを精一杯やれば良いのだと思うのです。
 パウロは、この二年の間、彼のもとに来る人々と会い、相談を受け、助言を与え、キリストの教会を支えたのだと思います。そして、この牢獄の中でも、総督フェリクスとその妻ドルシラとに対して、機会があるごとに伝道したのです。フェリクスの妻ドルシラは、ヘロデ・アグリッパの娘でした。つまり、ヘロデ大王の孫娘に当たります。大変美しい女性であったようで、フェリクスは他の人の妻であったドルシラを自分の妻に迎えたのです。ヘロデ・アグリッパにしてみれば、ユダヤの総督と娘を結婚させれば自分も安泰と思ったでしょうし、フェリクスにしても、ユダヤ統治には都合が良いとも考えたでしょう。総督フェリクスと妻のドルシラの二人は、パウロからキリスト教の話を何度も聞いたようです。しかし、彼らは残念ながら、回心してキリスト者になるということはありませんでした。大伝道者パウロの話を個人的に何度も聞いても、回心しない人はしないのです。
 パウロがこの時話をしたのは、「正義、節制、来るべき裁き」についてでした。フェリクス夫妻にとって耳の痛い話ばかりだったと思います。「正義、節制」ということで言うならば、26節に「パウロから金をもらおうとする下心もあった」と記されているように、フェリクスは私腹を肥やすことに精を出す総督であったようですから、パウロの話を受け入れるということは、回心してそのような歩みをやめるということを意味したのです。しかし、彼らにそれは出来なかったのでしょう。
 彼らは悔い改めて回心しなければ、神様の御前に立つ日、来るべき裁きにおいて滅ぶしかないことが語られたのです。二人はこれを聞いて恐ろしくなりましたが、回心はしませんでした。「聞いて恐ろしくなり」ということは、彼らはパウロの話をある程度受け入れたのでしょう。頭から信じないのであれば、恐ろしくなることもないからです。しかし、回心はしませんでした。つまり、聞かなかったことにしたのです。パウロの判決と同様、先延ばしにしたのでしょう。これはとても残念なことです。総督フェリクス夫妻は、この二年間が自分たちの人生の中でどんなに特別な意味を持つ時であったのか、分からなかったのでしょう。私共が御言葉を聞くチャンスは、いつでもあるというものではないのです。信仰とは、今日御言葉を聞けたのなら、「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」(詩編95編7節)のです。先延ばしにしていたのでは、時を逃してしまうのです。主が備えてくださったこの時を、私共も大切にしたいと思います。御言葉を今朝聞いた者として、御言葉に従い、主の裁きの座を見上げ、この一週も歩んでまいりましょう。

[2010年5月16日]

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