1.わたしの身の上に起きた神様の御業を伝える
主イエス・キリストによる救いの福音は、その救いに与った者が、自分に何が起きたのかを語ることによって伝えられてきました。これを、証言あるいは証しといいます。私共がよく誤解してしまうのは、キリスト教を伝えようとする時に、キリスト教の教理、教え、思想、考え方、そういうものを伝えることだと思ってしまうことです。そして、自分はそのようなまとまった学びをきちんとしたことがないので、自分には出来ないと考えてしまうことです。もちろん、キリスト教の教えを伝えるということが無意味だということではありません。それが必要な時もあるでしょう。しかし、その教えというものも、自分がそれによってこのように生きている、生かされているということと無関係ならば、それは力のないものであり、決して相手に伝わることはないのです。
私共が伝えたいのは神様御自身であり、主イエス・キリスト御自身なのです。とするならば、それは、車やテレビがどんなものかと伝えるようには伝えることは出来ません。車やテレビなら、その性能がどうか、値段はいくらか、そういう情報を伝えれば済むことです。しかし、人格のある方を伝えようとする時は、そうはいかないのです。私共が誰かを紹介しようとする時、その人の出身地や学歴や職業を伝えても、その人そのものを紹介することにはならないでしょう。その人そのものを伝えようとすれば、会ってもらうのが一番良い。しかし、それがかなわないのなら、この人はこういう時にこんなことをした、こんなことを言った、そんなエピソードを幾つも語ることによって、その人の人となりを伝えるのではないでしょうか。
今、詩編の139編をお読みいたしました。この詩編は神様の創造の御業・神様の御支配というものを告げているのですが、17〜18節に「あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。」とあります。詩編の詩人は、神様の御手による御業がどんなに憐れみに満ち、どんなに多いかを告白しています。この神様の御計らいというものを、私共は誰でも経験しているのでしょう。憐れみに満ちた、数えられないほど多くの神様の御計らいです。それはみんな違うのです。キリスト者の家庭に育った者もあり、年老いてから主イエスの救いに与った者もいます。100人いれば100通りの神様の御計らいの中に生かされているのが私共であります。私共が証しを語るということは、これを語ることなのです。
キリスト教を伝えるということは、まさに神様が、主イエス・キリストが、この私に何をしてくださったのか、それによって自分はどうなったのか、そのことを伝えることによってしか伝わらないのだと思うのです。この私というものを抜きにして、キリスト教の教えをいくら語っても、「ああ、そうですか。」ということで終わりでしょう。いや、そもそも聞いてもらえないのではないかと思います。私の上に起きた神様の救いの御業、それは私にしか語れません。そこには喜びがあり、感謝があり、熱があるでしょう。そして力があるのです。
2.パウロが証しをしようとした理由
使徒パウロは、第三次伝道旅行の最後にエルサレムに上り、そこでローマ兵に保護されました。エルサレム神殿において、パウロが、ユダヤ人しか入れない所に異邦人を連れ込んだという誤解が元で、騒動になったからです。ユダヤ人たちは、パウロを神殿の外に連れ出して殺そうとしましたが、間一髪、ローマの守備隊が駆けつけ、パウロを保護したのです。ローマの千人隊長は、パウロの身の安全を思って、兵営に連れて行くことにしました。そのローマ兵に連れられていくパウロの後を群衆はついて行き、「その男を殺してしまえ。」と叫んだのです。
パウロとローマ兵たちが兵営に入ろうとした時、パウロは自分について来る群衆に向かって話をしたいと千人隊長に申し出ました。パウロはこの時、千人隊長に対してギリシャ語で話しかけました。すると、千人隊長はパウロのことを最近反乱を起こしたエジプト出身のユダヤ人だと思っていたらしく、そうでないのが分かると、パウロが群衆に向かって話すことを許可しました。22章に記されているのは、この時パウロが語った回心の証しです。なぜ自分はキリスト者になったのか、なぜ主イエス・キリストの福音を宣べ伝える者となったのか、それを語ったのです。
どうしてパウロはここで群衆に向かって語りたかったのでしょうか。自分に向かって「殺してしまえ。」と叫ぶ人々を避けて兵営に入ってしまえば安全なのですから、早く兵営の中に入りたい、私ならそう思うのではないかと思います。しかし、彼はそこで止まり、彼らに話したいと言うのです。彼は、自分がユダヤ人たちから裏切り者、異端者と思われていることを知っていました。その直接の原因が、異邦人を神殿に連れ込んだというデマであったとしても、本当の原因は、自分がただ主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われると伝道していることだということを知っていました。そして、パウロは、自分を殺そうとしている目の前のユダヤ人たちも主イエスの救いに与らなければならない人だ、そう信じていたのです。彼らは滅びる人で、私は救われる人。そんな風には少しも思わなかった。自分を殺そうとしている人々の中に、パウロは主イエス・キリストの救いに与る前の自分の姿を見ていたのです。そして、自分が救われた以上、この人たちもまた神様の愛の中におり、救いに与らないはずがない、そう信じたのです。だから何としても、この人たちに主イエス・キリストを伝えなければならない。そう思ったのです。だから、ここでパウロは彼らに向かって語り出したのでしょう。
さらに言えば、十字架の上で自分を十字架に架けた者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られた主イエスの霊、聖霊に、パウロはこの時導かれていたのでしょう。自分を十字架に架けた者たちの救いを祈る主イエスと、自分に向かって「あの男を殺してしまえ。」と叫ぶ群衆に向かって証しをするパウロは重なります。同じ神様のほとばしる愛を覚えるのです。
3.パウロの証し
彼は群衆に向かってヘブライ語で話します。「兄弟であり父である皆さん。」そう語りかけるのです。自分を殺そうとしている人々です。しかし、パウロにとって、彼らは断じて敵ではないのです。神様に愛され、救いに与らなければならない、自分の兄弟であり父なのです。
彼は自分の今までの歩みを語ります。3〜4節「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。」彼は主イエスに出会うまで、ファリサイ派の一人として教育を受け、律法を守り、キリスト教徒たちを迫害する者だったのです。パウロは、「私はあなたたちと同じ歩みをしてきた者だ。」そう語るのです。しかし、今では違う。どうしてか。主イエス・キリストに出会ってしまったからです。
パウロは次に、自分の回心の出来事を語るのです。これは使徒言行録9章に記されており、皆さんの良く知っている話です。「私は、ダマスコにいるキリスト者を縛り上げてエルサレムに連行するために出かけたその時、ダマスコに入ろうとして突然強い光に照らされた。そして、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。』という声を聞いた。その声の主は、ナザレのイエスだった。私は目が見えなくなり、その声に従ってダマスコに入って、アナニアという人の所へ行った。アナニアが『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』と言うと、私は目が見えるようになった。アナニアは言った。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。』『あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる。』『その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』そして、エルサレムに来て神殿で祈っていた時に主にお会いし、主によって、『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』と命ぜられ、私は異邦人に主イエスの福音を伝える者となった。」とパウロは語ったのです。主とはイエス・キリストのことです。彼は、神殿においても主イエスと出会ったのです。
4.パウロがこの証しで語りたかったこと
ここでパウロが語りたかったことは、第一に、パウロが宣べ伝えている主イエスの福音は、ユダヤ教の伝統やユダヤ人が拝んできたただ一人の神様と相反するものではない、ということでした。だから、彼は「兄弟であり父である皆さん。」と呼びかけたのです。そして、自分もガマリエルの弟子であり、キリスト者を迫害するほどに律法に熱心だった。と告げました。自分も、主イエスを信じる者も、律法を蔑ろにするような者ではない。そして、自分の目を見えるようにしてくれたアナニアも律法に従う信仰深い人であり、神様に反する者ではないのだ、とパウロは告げたのです。更にパウロは、アナニアが「『わたしたちの先祖の神が』あなたを選んだ。」と告げたと語ります。自分を選んだのは、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、代々イスラエルの民が崇めてきた神様なのだと言おうとしたのです。そして、主イエスによって異邦人に伝えるように命じられた場所は、エルサレム神殿においてだったと告げます。神様が神の民に言葉を与えられる場であり、神の民の祈りに耳を傾けられる場であるエルサレム神殿。ここにおいて、主イエスは私に命じられたのだ。つまり、主イエスは、このエルサレム神殿で自らを現される神様であり、旧約において自らを示された神様なのだと言いたかったのです。主イエスの福音は、天地を造られた神様の御心と別のことではないのだと告げたかったのでです。
そして第二にパウロが語りたかったことは、自分もあなたがたと同じようにキリスト者を迫害していたけれど、今はその一切の罪を赦されて主イエスに仕える者となった、だからあなたがたも赦される、ということでした。19〜20節でパウロは「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。」と主イエスに告げるのです。パウロはここで、「私はステファノを殺すために石を投げた人たちの上着の番もしていた。エルサレムの人々はそのことを知っている。その私が、主イエスの証人とされたのだから、エルサレムの人々もきっと分かってくれるはずだ。」そう思って語っているのではないでしょうか。旧約において自らを示された神様が、新しく主イエス・キリストとして現れ、新しい救いの地平を拓いてくださったのだ。私もこのことが判らずに主イエスを信じる者たちを迫害していた。しかし、私はこの様に主イエスを信じ、この救いに与った。だから、あなたがたもこの救いに与ることが出来るし、そうであって欲しい。そのことを告げたかったのでありましょう。
第三にパウロが語りたかったことは、主イエスが異邦人へと私を遣わしたのであって、主イエスはアブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神の御心を現された方なのだから、異邦人の救いは聖書の神様の御心なのだということでした。旧約に自らを啓示されている神が、主イエスによって異邦人にまでその救いを広げられたのだ。だから、割礼を受けていない異邦人は救われないなどというところにとどまらないで、神様が新しくされた主イエスの救いに共に与ろう。そう語りたかったのだと思うのです。
5.全てを失っても後悔なし
このパウロの証しは、パウロを殺そうとしていた人々に受け入れられたわけではありませんでした。22節に、「パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。『こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。』」とあるとおりです。しかし、パウロはこのことを語らないではいられなかったし、そう語るように聖霊によって促されたのでしょう。パウロは、ここで難しい議論をしているのではありません。自分の身に起きた出来事を通して、主イエスこそ神であり、主イエスの赦しは私に与えられ、私はこの主イエスによって召命を受けて、今日がある。この事実をパウロは語っただけなのです。主イエス・キリストにパウロは出会ってしまったのです。ダマスコ途上において、エルサレム神殿において、出会ってしまった。そして変わった。変えられてしまった。パウロはそのことを語っただけなのです。
パウロにしてみれば、ユダヤ人の家庭に生まれ、律法に従い、ファリサイ人としての教育を受け、キリスト者を迫害することまでしていたのです。その時のパウロは、自分は正しい人で、異邦人でないことを誇りに思い、ユダヤ人社会の中で若きエリートとして生きていたのです。しかし、主イエスに出会って変わってしまった。何が大切で、何が喜びで、何が真実なのか、その価値観がまるっきり変わってしまったのです。そして何よりも、自分は正しい人と思っていたけれど、本当は自分は罪人の頭であるということが分かってしまったのです。しかしパウロは、そのことを少しも後悔していません。ユダヤ人社会のエリートであった自分が、ユダヤ人たちから「その男を殺してしまえ。」と叫ばれるようになってしまったことも、少しも後悔していないのです。パウロは、フィリピの信徒への手紙3章5〜9節でこう語っています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」このパウロの言葉は、すべてのキリスト者に同じ思いを抱かせるものでしょう。
キリスト者になって、私共は何が変わったのでしょうか。人の話が聞けるようになった。人に優しく出来るようになった。そういうこともあるでしょう。しかし、何よりも神様を愛し、主イエスを愛し、神様の御心に従うことを喜びとするようになったのではないでしょうか。神様に愛され、神の子、神の僕とされていることを喜びとする者になったのでしょう。このことを語ればよいのです。
今日、礼拝後に2010年度の定期総会が開かれます。2010年度の教会聖句は、使徒言行録18章9〜10節の御言葉です。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。…この町には、わたしの民が大勢いる。」この御言葉に導かれて、2010年度の歩みを為していきたいと思います。私共は語り続けるのです。自分が新しくされ、変えられた喜びを。そのために神様が何をしてくださったのかを。自分にしか語れない証しを語っていくのです。パウロのように、自分に敵対している者も、神様に愛されている者だと信じ、語っていくのです。神ならぬ偶像を拝み、この世の富や名誉ばかりを求めていた私共です。しかし、今は違う。まことの神を知り、自分が生かされている意味と目的を知らされた。それがどんなに幸いなことか。この町に住む、神様によって救いに与る者とされている、まだ見ぬ人々に語り続けていきたいと思うのです。
[2010年4月25日]
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