1.伝道者を慰め、励ます言葉
今朝私共に与えられております御言葉には、パウロの第二次伝道旅行におけるコリントでの伝道の姿が記されています。彼は、このコリントの町に一年半とどまって伝道いたしました。この一年半という期間は、町から町へと伝道していく彼のスタイルからすれば、ほかの町での滞在と比べて大変長かったと言って良いと思います。現在の牧師のように定住型伝道と申しますか、一つの教会にとどまって伝道する者から言えば一年半というのは大変短いと感じるのですけれど、伝道旅行というような形での伝道者にとっては大変長かったと思います。しかし、パウロたちはこのコリントの町に長くいようと思ってとどまったわけではないのです。それこそ神様の御心の中でそういうことになったということなのです。これはとても大切な点です。伝道者、牧師のその教会にとどまる期間というものは、実に神様の召命によって定まるものだからです。転任したいと思ってもとどまらなければならない時があり、とどまりたいと思っても転任しなければならない時があるのです。それはただ神様の召命、神様の促しによるものなのです。
パウロが、一年半に及ぶ期間このコリントの町にとどまることになった理由は、ある夜主の幻を見て、主の言葉を受けたからであると考えて良いと思います。その言葉とは、9〜10節に記されています。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」このパウロが与えられた御言葉は大変有名なものです。どれほど多くの伝道者たちがこの言葉によって、慰められ、励まされてきたことでしょう。すべての伝道者は、この言葉を自分が遣わされた任地において、自分に告げられた言葉として聞いてきたと言って良いほどです。この言葉を、自分に語られた主の言葉として聞かなかったような伝道者は、きっと一人もいないと思います。伝道がうまく行かない、挫けそうになる。そういう時、この御言葉によって励まされ、立ち上がり、伝道の歩みへと押し出されて来たのです。
今朝、私共はこの言葉を、私共に告げられた言葉として聞いていきたいと思います。
2.パウロの恐れ
最初に主は、「恐れるな。」とパウロは告げられました。ということは、この時パウロの中に恐れがあったということでしょう。パウロは何を恐れていたのでしょうか。この言葉は、「語り続けよ。黙っているな。」と続くのですから、この時のパウロは主イエスの福音を語ること、伝道することに対しての恐れがあったということなのでしょう。私共は、使徒パウロといえば勇敢で、どんな困難や迫害にも屈することなく、いつでもどこでも大胆に主イエスの福音を宣べ伝えた伝道者であったと考えがちです。確かに、彼の伝道はいつも迫害を受けましたし、それでも彼は伝道をやめるようなことはありませんでした。しかし、「だからパウロには恐れはなかった」と考えるならば、それは間違いでしょう。彼は恐れたのです。福音を語り続けることが出来ないほどに恐れたのです。
その理由として、前回見ましたアテネの町での伝道のことを考える人もいます。つまり、アテネでの伝道を失敗と見て、その失敗がパウロに言葉を失わせた、どう語れば良いか分からなくなっていたと考えるわけです。しかし、私はもっと単純だと思います。10節には「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。」と続いているのですから、この時のパウロの恐れは妨害・迫害に対するものではなかったかと思うのです。彼は、今まで死にそうな目に何度も遭っています。第一次伝道旅行の時はピシディア州のアンティオキアで、イコニオンで、リストラで。特にリストラでは、石を投げつけられてほとんど死んだようになってしまったほどです。第二次伝道旅行では、フィリピの町で鞭打たれ投獄されました。テサロニケではユダヤ人たちに襲われそうになり、彼らは90kmも離れた次のベレアの町にまで追いかけて来たのです。ベレアから遠路アテネに来て、もうテサロニケからのユダヤ人たちによる妨害はなくなりました。しかし、このコリントにおいて再びユダヤ人たちの反抗にあったのです。この町でも今までのような肉体的痛みを伴うひどい目に遭うのか、それともこの町から逃れるようにして出て行かねばならないのか。パウロの中に不安や恐れが生じたとしても当然だったと思います。しかし神様は、その恐れるパウロを励まし、命じたのです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。」聖書において神様が「恐れるな」と告げられるとき、その理由はいつも「わたしが共にいる」です。神様は、恐れるパウロに向かって「恐れるな。わたしが共にいる。あなたに危害を加える者はいない。」そのように励まし、そして命じられたのです。「語り続けよ。黙っているな。」
私共は、このパウロの恐れが良く分かるのではないでしょうか。自分の子や夫や妻や友人にイエス様のことを語っても、少しも分かってくれない。これ以上話しても反感を買い、気まずくなるだけだろう。だから黙っていよう。あるいは、自分がキリスト者であることを明かすと、白い目で見られそうだ。だから黙っていよう。そのような私共に向かって、今日、神様は、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」そう告げておられるのです。
3.御言葉に伴う「しるし」
さて、パウロがこの主の言葉を受けた時、パウロはいつものように、ユダヤ人の会堂で、主イエスはメシア、キリストであると証ししておりました。しかし、6節に「しかし、彼らが反抗し、口汚くののしった」とありますように、このコリントにおいてもパウロはユダヤ人の反感を買っていたのです。そして、パウロはそのユダヤ人たちに対して、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」と宣言しました。ユダヤ人に対しての決別宣言です。パウロはユダヤ人の会堂での伝道をやめ、異邦人に伝道することにしたのです。しかも、何と彼は、ユダヤ人の会堂の隣の家、これはティティオ・ユストという、パウロによって主イエスを信じるようになった異邦人の家でしたが、ここで主イエスの福音を宣べ伝えることにしたのです。ユダヤ人との関係は、今までの中で最悪の状況になったと言って良いでしょう。そうであればこそ、これから起きることに対して、パウロは予想することが出来ました。そしてそれは、「自分の命が狙われることになるだろう」というようなものだったと思うのです。ですから、パウロが恐れるのももっともなことだったのです。
そういう中で、神様は幻による御言葉を与えたのです。私は、この御言葉には「しるし」が伴っていたと思います。それが、アキラとプリスキラというキリスト者の夫妻との出会いであり、会堂長クリスポの一家を挙げての回心であり、会堂の隣の家の主人ティティオ・ユストの回心であったと思うのです。異邦人キリスト者ティティオ・ユストによって伝道の場所が与えられました。そして、会堂長、これはユダヤ人社会の世話人、町内会長のような存在ですが、この様な人がキリスト者になったということは、コリントにあるユダヤ人社会に対して大きな足掛かりが出来たということになったのではないかと思います。そして、アキラとプリスキラというキリスト者夫妻との出会いです。この夫妻とパウロの交わりは、生涯を通じてのものとなりました。彼らの名前は、パウロの手紙の中に何度も出て来ます。神様が、パウロに「恐れるな。語り続けよ。」と告げられた時、神様は、パウロが恐れずに語り続けることが出来る具体的な出会いを与えてくださっていたのです。
私共もそうだと思うのです。私共に「恐れるな。語り続けよ。」との御言葉が与えられる時、恐れずに語り続けることが出来る具体的な状況、助け手、同労者との出会いというものが、神様から与えられるのです。神様は、私共にただ、「歯を食いしばって、たった一人で、とにかく恐れずに語り続けよ。」そう言われるのではないのです。神様は、「わたしが共におり、わたしがすべてを備えているから、安心して、恐れずに語り続けよ。」そう言われるのであります。
私共は、恐れと共に、多くの場合悪い予想を抱きます。もうこの人は自分に口をきいてくれないのではないかとか、周りから白い目で見られるのではないかとか。しかし、私共の周りを良く見てみると、アキラとプリスキラ、クリスポやユストといった人との出会いも与えられているのではないでしょうか。会社で、学校で、ご近所で、親類の中で、信仰において一つとなれる親しい交わりをすることが出来る人が与えられたなら、私共はこれを神様からの「語り続けよ。」との促しとして受け取らなければならないのではないでしょうか。福音を語ることに対しての私共の恐れは、この主の言葉によって退けられなければならないのでしょう。
4.神様が備えた神の民
次に、主は「この町には、わたしの民が大勢いる」との約束をも与えてくださいました。パウロが語り続けることは無駄にはならず、この町の多くの者が主イエスを信じるようになる。そう約束してくださったのです。この主の約束は、伝道の成果というものが、伝道者の能力とか熱心とかによって実を結ぶというようなものではないということを示しているのでしょう。伝道とは、主が既に備えてくださっている神の民と出会い、福音を伝えていくことなのだ。そのことを示しているのです。既に、神様が救いに与るように定めておられる主の民がいるのです。私共はその人が誰なのか分かりません。私共には分かりませんけれど、神様は知っておられる。その神の民、主の民に出会い、その人に福音が伝えられるならば、その人は福音を受け入れ、主を信じる者となるのです。神様の選びが先にあるのです。ですから、私共はこのことを信じて、一人でも多くの人に主の福音を伝えていくのです。私共の力がキリスト者を生むのではありません。既に定められているキリスト者が、伝道の営みの中でただ顕在化するだけなのです。
主はここで「大勢いる」と言われました。では何人なら大勢ということになるのでしょうか。5人、10人で大勢とは言わないでしょう。それなら100人ならどうか?1000人では?1万人なら確かに大勢でしょうか。主はここで、このコリントの町に神の民を何人くらい備えてくださったのか、私共には分かりません。私共には分かりませんけれど、「大勢」「たくさんの人」と言えるほどの人を備えてくださったのです。この大勢の人と出会うために、パウロはコリントに一年半とどまって伝道することになったのです。大勢の人と出会うためには、何度も何度も福音を告げなければならないからです。もう、この町には福音を聞いたことがないという人はいない。そう思えるほどに、パウロはコリントの町で福音を語り続けることになった。それが一年半この町にとどまることになった理由なのだと思います。
私共もこの富山の地に建てられている教会として、主の福音を知らない、聞いたことがない、そう言う人が一人もいなくなるほどに、何度も何度も主イエスの福音を伝えていかなければならないのだと思わされるのです。そのために、幼稚園、保育所、学校は大切な伝道の場となるでしょう。伝道集会も良いし、クリスマスも良い機会でしょう。家庭集会も職場集会も出来たら良いと思います。大切なことは、私共が一人でも多くの人に福音を携えて出会っていくということです。出会ったすべての人が主イエスを受け入れ、信じるようになるわけではない。それは仕方のないことなのです。しかし、福音と出会わなければ、主が備えてくださっている主の民、神の民が、目覚め、起き上がり、神の民となっていくという出来事も起きないのです。私共は、この神様の救いの御業にお仕えするために、先に召された者たちなのです。
5.神様によって一つとされている教会
ところで、このパウロたちの伝道の業はどのように支えられていたのでしょうか。3節を見ますと、パウロがアキラとプリスキラの家に住み込んで、テント造りをしたことが記されています。コリントでの最初の頃、パウロは、土曜日はユダヤ人の会堂で伝道し、それ以外の日はテント造りの職人として働いたということです。このことをもって、「平日は自分で働いて生活の糧を稼ぎ、それによって伝道するというあり方が正しい伝道者の姿である。」と言う人たちがいます。無教会の人たちもその一つです。しかし、5節には「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。」とあるのです。アテネ、コリントはアカイア州です。その北にあるのがマケドニア州。シラスとテモテは、後からコリントでパウロに追いついたのです。そして、マケドニアからシラスとテモテが来ると、パウロは「御言葉を語ることに専念し」たのです。つまり、テント造りをやめて、毎日主イエスの福音を語るという日々になったのです。それは、彼らがマケドニアの教会、具体的にはフィリピの教会からパウロの伝道を支援するための金品を届けたからです。フィリピの信徒への手紙4章15節には「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」とある通りです。パウロは自らの手で仕事をしなければならない必要に迫られればそうしたし、しないで済む場合はそうしなかったということなのです。
このように、コリントの教会はフィリピの教会のパウロを支援するという業のお陰をもって伝道されたのです。フィリピの教会の人々がコリントの教会の人々に、恩着せがましく、このことを言うことはなかったでしょう。しかし、このことからも、フィリピの教会とコリントの教会が、神様の恵みによって一つとされている群れであることが分かるでしょう。キリストの教会は、その出発の時から、自分たちの群れのことだけしか考えないというようなことはなかったのです。それは、教会という存在が、「恐れるな。語り続けよ。この町には、わたしの民が大勢いる。」と告げた方によって、選ばれ、建てられた群れだからです。神様が救わんとする神の民のために、その民を救いへと招くために建てられたものだからなのです。教会は、人間が自分のために、自分の手で建てたようなものではないからなのです。教会は、神様が御自身の救いの計画を成就させるために、神様御自身によって建てられたものなのです。
私共はただ今から聖餐に与ります。この聖餐において私共は、私共のために、私共に代わって十字架につけられた主イエス・キリストと一つにされます。そのことにより、私共すべてがただ一つの命に共に与る群れとして、一つにされるのです。私共をこの聖餐の恵みへと招いてくださった主の言葉を、今朝、私共は新しく聞きました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いる。」この御言葉に、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてお応えする者として、ここから新しい一週へと歩み出していきたいと思います。
[2010年2月7日]
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