1.クリスマスに思う
2009年最後の主の日を迎えています。先週はクリスマス記念礼拝から始まりまして、子どものクリスマス会、キャンドル・サービス、キャロリングと、まさにクリスマス・ウィークを過ごしました。クリスマス祝会のための食事の用意、子どものクリスマス会のプレゼントの準備、キャンドル・サービス後の軽食の用意、プログラムの準備等々、たくさんの方々の見えないところでの御奉仕がありまして、一つ一つの行事を行うことが出来ました。クリスマスのこの時期は、毎年のことではありますけれど、大変あわただしく、忙しく過ぎてまいります。そのような中で、実にたくさんの方々の奉仕がささげられます。それがあってすべてのことが為されていくわけです。教会学校のページェントの練習は一ヶ月前から土曜日に集まって為されてきましたし、そのための教会学校の教師たちのご苦労を思います。また、一人一人へのプレゼントの用意も大変なことでしたでしょう。数え上げたらきりがない程です。12月24日のキャロリングが終わって教会に帰って来まして、今年も無事にクリスマスを終えたという思いを深くしました。そして、ありがたいことだと思いました。主イエス・キリストの御降誕を喜び祝うために、一人一人が自分の出来ることを精一杯ささげる。喜んでささげる。人のために労苦することを厭わない。そのような一人一人の奉仕がささげられて、今年もクリスマスを無事に終えることが出来ました。
主イエスの愛、神の愛は、それを知り、それに生かされた者をこのように用い、この様な者へと造り変えていくのでしょう。そして、これが教会というところなのだと改めて思うのです。ここには新しい人間がいる。新しい共同体がある。クリスマスの時、この当たり前のことに改めて気付かされました。そして、そこに身を置くことを許されていることの幸いを思いました。この交わりの中心にはキリストがおられる。キリストが生まれられたが故にクリスマスがある。そして、そのキリストの愛に生かされているが故にそれを喜び祝う。そのために労苦を厭わず、それぞれ奉仕を為す。すべてはキリストから始まり、キリストと共に歩んでいるのです。ただ主イエス・キリストのために。その一点において心が一つとされ、皆が出来るだけのことを精一杯為す。そこにキリストの愛が具体的に現れ出てくるのでしょう。キリストの教会とは、そういうものなのであり、クリスマスとはそういう時なのでしょう。
2.エルサレム会議
今朝私共に与えられております御言葉は、エルサレムで開かれました使徒たちによる最初の会議の結果が、アンティオキアの教会に知らされた時のことが記されております。このエルサレム会議につきましては、三週前の主の日の礼拝にて御言葉を受けました。クリスマスが間にありましたので、少し思い出していただかないといけないのですが、ユダヤ教からキリスト者になった者たちと異邦人からキリスト者になった者たちとの間に、深刻な意見の対立が生じたのです。問題は、異邦人からキリスト者になった者も、割礼を受けてユダヤ人となってモーセ以来の律法を守らなければいけないのかどうか、そうしなければ救われないのかということでした。パウロやバルナバを中心とするアンティオキアの教会は、異邦人伝道の拠点となっていた教会です。彼らは、キリストの救いに与るには割礼も律法を守ることも必要ではない、ただ信仰によって、ただ恵みによって救われる、そう教え伝道しておりました。そのアンティオキアの教会にエルサレムの教会から、多分ファリサイ派から信者になった人たちが来て、割礼を受けなければいけない、律法を守らなければいけない、そう教え始めたのです。当然、混乱が生じました。単なる混乱では済まず、鋭い対立にまでこの問題は発展してしまいました。この事態を打開するために開かれたのがエルサレム会議でした。結論は、救われるためには割礼は必要ではないし、律法を守ることによって救われるのでもない、ただキリストの恵みによって救われる、つまり信仰によってのみ救われるのだというものでした。これが、現在の私共にまで伝えられている、キリスト教の根本的教えとなりました。ただこの時4つの但し書きが付いたのです。それは、偶像に献げられたもの、血、絞め殺した動物の肉は食べないこと、それとみだらな行い、これは性的不品行を指していますが、これを避けるということでした。
3.但し書きの意味
この但し書きと、恵みによって救われる、信仰によって救われるということの間には、何か矛盾があるかのように思われる方がおられるかもしれません。割礼もいらず、律法を守ることが救いの条件でないというのなら、どうしてこんな但し書きが必要なのか。これもいらないではないか。確かに原理的に言えばそうなのです。それなのに、どうしてこのような但し書きが付けられたのか。
それはこういうことです。私共が神の子とされ、神の民の一員となり救われるためには、ただキリストを信じる信仰しか求められることはありません。また、その信仰も神様の恵みとして与えられるもので、私の業としての信仰ということではありません。しかしこの時、教会にはユダヤ人と異邦人が共にいるわけです。異邦人には何を食べるかということに関してのタブーはありませんでしたが、ユダヤ人には旧約以来の食物規定がありました。その中心にあったのが、血抜きをしていない肉を食べないというものでした。血は命を意味し、命は神様のものという理解があったからです。また、偶像に献げられたものというのは、当時のギリシャ・ローマ社会では、神殿において献げられた肉が市場に出回っていたのですが、ユダヤ人は、これは偶像に献げられたものだから汚れている、これを食べれば自分も汚れると言って、決して食べなかったのです。異邦人からキリスト者になった人には、こんな感覚はありません。そこで、両者が一つの食卓に着けないという問題が生じていたのです。共に主イエス・キリストを信じていながら、一つの教会に生きていながら、同じ食卓に着くことが出来ない。これは大問題です。もし、先週のクリスマスの祝会において、「あたしたちはあの人たちと一緒に食事は出来ない」と言って、別室で食事をする人たちがいたとしたらどうでしょうか。大変なことでしょう。そのような教会は、既に壊れていると言っても良い程でしょう。
そこで、異邦人のキリスト者に対して、「あなたがたには何でも食べられるという自由があるけれど、共に一つの食卓に着くために、このことは慎んで欲しい。」そう使徒たちは決めたのです。これは愛の問題です。信仰によってのみ救われる。割礼も律法を守ることも必要ではない。これは真理問題です。使徒たちはこの真理を明確にしながら、同時に愛の問題として、キリストの教会を一致させるためにこの但し書きを付けたのです。この食事についての但し書きは、時代と共に必要ではなくなりました。と言いますのは、時代と共にユダヤ人からの改宗者はほとんどいなくなり、キリスト教会のほとんどすべてが異邦人たちによるものとなっていきましたので、このような配慮を必要としなくなったからです。
ただこの時言われた「みだらな行い」、つまり性的な不品行ですが、これはユダヤ人たちに対しての配慮の問題ではなく、普遍的な戒めです。ですから、これは時代を超え、民族を超えて、保持されなければならない戒めです。ギリシャ・ローマ社会では、この点が大変ルーズだったのです。確かに主イエスの十字架のあがないにより、旧約の律法の多くは必要ではなくなりました。例えば、食物規定。何を食べるかということが救いと関係ないということが明確にされましたので、旧約の食物規定でいけば食べることが出来ないものも食べても良いことになったのです。普通にスーパーで売られている肉を食べても何の問題もないし、ウナギでも豚肉でも問題なく食べられるのです。何を食べるか、何を飲むか。それは救いとは本質的に何の関係もないからです。また、旧約にはいけにえをささげるための規定がたくさんありますけれど、私共は礼拝においていけにえをささげることはありません。何故なら、主イエス・キリストが自ら十字架にお架かりになることによって、完全ないけにえをささげてくださったからです。もう動物のいけにえは必要なくなったのです。しかし、主イエス御自身が語られましたように、神様を愛すること、隣り人を愛すること、この二つは、神様に造られ愛されている者として捨てることは出来ません。性的不品行は、これに照らして、決して為されてはならないことなのです。
4.愛を伝える
エルサレム会議はこの知らせを文章にし、しかもユダとシラスという、当時の教会で指導的立場にいた二人を、パウロとバルナバと一緒にアンティオキアの教会に送りました。この時使徒たちは、決定した文章だけ送れば良いとは考えなかったのです。それは、この知らせは会議の決定を知らせるものではありましたが、ここに盛られていることはキリストにあっての愛だったからです。使徒たちは、「異邦人キリスト者たちを同じ兄弟姉妹として愛している。パウロとバルナバも、主イエスによる私共と同じ献身者だ。彼らによって指導されているあなたがたと、これからもキリストにあって一つとして歩んでいきたい。そして、そのためには異邦人キリスト者の方々も、ユダヤ人キリスト者に対しての愛の配慮をお願いしたい。」そう伝えたかったからです。情報を伝えるだけなら、ユダとシラスを遣わす必要はなかったかもしれません。しかし、この愛を伝えるためには、肉声で語られる必要があった。そう思うのです。顔と顔を合わせて伝えることによって、愛は伝わるのでしょう。
エルサレムからアンティオキアまで450kmはあります。決して近くはない。そこを歩いて、エルサレムの教会でも指導的立場にある人がわざわざ来て、会議の結果を伝える。そのことだけでも、アンティオキアの教会の人々は、使徒たちに対しての、またエルサレムの教会に対しての、愛を覚えたのではないでしょうか。
私が以前、西部連合長老会に属しておりました時に、岡山のB教会から西部連合長老会に牧師の人事の依頼がありました。そして、この方をという方を紹介することになりました時、西部連合長老会から三人の牧師がB教会にうかがったことがありました。平日の夜でした。その時、大阪・京都からわざわざ三人の牧師が岡山まで来てくれたと、大変感謝され、恐縮したことを覚えております。後任牧師を紹介するだけなら、履歴書と手紙でも良いのかもしれません。しかし、私共はそうは考えなかったのです。それは、教会と教会とが結ばれていくためには、顔と顔とを合わせ、愛を伝えるということがどうしても必要だと考えたのです。そのために出かけて行きました。三人の牧師がそれぞれの教会に戻った時には、深夜0時を回っていました。愛は、その人のために労苦することなく伝えることは出来ないものなのです。
5.愛を受け取る
この時、アンティオキアの教会は、ユダとシラスからエルサレム会議の結果を知らせる手紙を受け取り、話を聞きました。そして、愛を受け取ったのだと思う。だから彼らは、この決定を「励ましに満ちた決定」(31節)として受けとめ喜んだのでしょう。「なんで自分たちは、食べ物のことでこんな指示を受けなければならないのか。」そんな不満を語りはしなかったのです。この決定に至るまでの使徒たちの労苦、使徒たちがキリストの教会を分裂させないようにしようとする愛を、ちゃんと受け取ったのです。愛というものは、その人のために労苦を厭わないということがなければなりません。しかし、それだけでは愛の交わりにはならないのです。自分のために為されたその愛の労苦を、ありがたいこととしてきちんと受け取る。そのことによって初めて愛の交わりが成立するのでしょう。
愛することは難しい。しかし、それと同じくらいに、その愛を受け取ることも難しいのです。私共の信仰は、まず神様からの愛があり、そしてその愛を受け取ることによって成り立つのでしょう。そして、神様の愛をきちんと受け取った時、私共の中には、力と勇気と希望が生まれて来る。自分のために我が身を惜しまず労苦してくれる方がおられる。このことを受け取れるなら、余計なお世話だとひねくれずに真正面から受け取れるなら、私共はそこで力づけられ、励まされるのではないでしょうか。そして、そのように励まされ、慰められた者は、自分もまた、そのように人を励まし、慰め、力づけたいと思うのでしょう。それが、キリストによって生かされている私共なのであり、教会の交わりというものなのです。
6.自己放棄の愛
異邦人キリスト者たちは、使徒たちの愛を受け取り、それ故に何を食べても良いという自由を制限するこの但し書きを喜んで受け入れたのです。そのことが、キリストの愛にお応えする愛の道であることを知ったからです。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の対立という、生まれたばかりの教会を二つに分けてしまいそうになった事態は、こうして乗り超えられていきました。ここにあったのは愛です。私のためにすべてを捨てて愛してくださったキリストの愛、キリスト御自身がここにいて、全てを導いてくださったのです。愛するということは、自分の自由を愛する者のために捨て、制限し、献げることです。主イエス・キリストは主イエスは私のために十字架に架かり、一切の罪を私の代わりに負ってくださいました。ここに愛があります。天地を造られた神の御子が、天より降り、おとめマリヤから生まれた。ここに愛があります。その方が、「わたしに従って来なさい。」と告げられる。だから私共は、「こんな小さな私ですが、あなたの御用のために用いてください。」と自分を差し出すしかないのでしょう。異邦人キリスト者は、ユダヤ人キリスト者に合わせるために食事の自由というもの一部を放棄することにより、愛を示したのです。
使徒たちはこの手紙の中で、28節において「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」と記しています。使徒たちは、「わたしたちだけ」で決めた、とは考えていないのです。聖霊なる神様の導きがあったのです。聖霊なる神さまが働いてくださる時、キリストの愛は具体的な形で現れてきます。そのことを使徒たちは知っていたのです。この聖霊なる神様の導きの中で教会は歩んで来たし、今も歩んでいるのです。今年のクリスマスも、この聖霊なる神様の導きの中ですべてを為すことが出来たことを覚え、共に感謝をささげたいと思います。
[2009年12月27日]
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