富山鹿島町教会

礼拝説教

「クリスマスに生まれた方とは誰か」
創世記 1章1〜5節
コロサイの信徒への手紙 1章13〜20節

小堀 康彦牧師

1.祈り・賛美・告白
 アドベント第三の主の日を迎えています。来週の主の日はクリスマス記念礼拝となります。今朝は、クリスマスを迎えるにあたって、クリスマスにお生まれになった方とは一体どのような方なのか、このことを改めて心に刻みたいと思います。
 今朝与えられております御言葉の中の、コロサイの信徒への手紙1章の15〜18節あるいは20節までの部分は、この手紙が書かれた頃に主の日の礼拝の中でささげられていた、キリスト讃歌であると言われております。主イエス・キリストをほめたたえる歌です。聖書に引用されているこの時代のキリスト讃歌として他に有名な箇所としては、フィリピの信徒への手紙2章6節以下があります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」という所です。
 祈りと賛美と信仰告白というものは、厳密には分けることが出来ないものだと私は考えておりますけれど、このような聖書の箇所に出会いますと、そのことがはっきりいたします。このキリスト讃歌と言われる部分は、確かにキリストをほめたたえているのですけれど、そのほめたたえ方は、キリストとはどういう方であるのかということを告白する、キリスト告白という形をとっているのです。賛美と告白が一体となっているのです。更に言えば、このキリスト讃歌はどういう文脈の中で語られているかというと、直前の9〜10節に「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」とありますように、祈る中で用いられているのです。祈りの中でキリストをほめたたえ、キリストとは誰であるかということを告白しているのです。主イエス・キリストというお方に祈り、告白し、ほめたたえる。このこと抜きに、私共はクリスマスを祝うことは出来ないのでしょう。
 私は、今年は三つの保育園でサンタクロースにならなければならないのですが、どうも今の日本の状況は、クリスマスの主役はイエス・キリストではなくて、サンタクロースになってしまっているところがあります。これは何とかしなければいけません。そこで、サンタクロースになって、イエス・キリストの御降誕がどんなに素晴らしいことなのかを幼子たちに伝えてこようと思っているわけです。サンタクロースを否定するのではなくて、サンタクロースになって、イエス様を伝えてこようと思っています。お祈りもしちゃおうと思っています。

2.我らの罪を贖われたイエス・キリスト
 さて、今朝与えられております御言葉において第一に告げられておりますことは、主イエス・キリストは私共の罪の贖いとなってくださったということです。13〜14節に「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」とあります。贖うという言葉は日本語としても難しいかと思いますが、こういう意味です。100万円の値段の付いている奴隷がいたとします。その奴隷を自由にするためには、100万円を誰かが代わって奴隷の持ち主に支払わなければなりません。この誰かが自腹を切ってその奴隷の持ち主に100万円を支払って買い取ること、それが贖うということです。まさに神様は自腹を切られた。神様は、御自身の愛する独り子イエス様を十字架にお架けになることによって、私共の罪の代価を、私共に代わって支払ってくださいました。それが罪を贖われたということです。それ故、私共はもはや罪の奴隷ではなく、私共を買い取ってくださった神様のものとされたのです。闇の力に支配される者ではなく、御子の御支配のもとに生きる者とされたのです。神様に敵対する者から、神様との平和の中に生きる者となったのです。神様に向かって、「アバ、父よ」と祈ることが出来る者となったということです。これは20節においても繰り返されています。「その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」神様と和解させていただいたのです。
 クリスマスの喜びというものは、この私共の救いの喜びに他なりません。私は神様のもの。神様に罪赦され、神様との親しい交わりの中に生きる者とされた。この神様によって与えられた救いの喜び、新しい自由の喜び、それがクリスマスの喜びなのでしょう。私共を支配しているのは、闇の力でも罪でもなく、愛と恵みに満ちた、全能の父なる神様なのです。私共は、もはや自らの罪におびえることもなく、闇の力におびえることもありません。光の子とされたからです。
 確かに、私共を取り巻く状況は、明るく希望に満ちたものとは言えないかもしれません。新聞を開くたびに目にするのは、暗いニュースばかりです。不景気、デノミ・スパイラル、就職難、交通事故、自殺、学級崩壊、離婚、病気、…数え上げればきりがありません。しかし、クリスマスを迎えようとする私共が聞かなければならないニュースは、神様からの良き知らせです。Good Newsです。それは、すでに闇の力の支配、罪の支配の時代は終わったということです。まことの光である主イエス・キリストが来られたからです。私は何度でも言います。闇の力の支配は、もう終わったのです。私共を取り巻く暗い状況は、決して私共を支配してはいないのです。ほんの少しの間、私共を苦しめるだけです。死さえも、もはや決定的なものではなくなったのです。キリストの復活の命が、死を飲み込んでしまったのです。

3.6つのキリスト告白
 さて、この救いを私共にもたらしてくださったイエス・キリストというお方について、聖書は15節以下に讃歌という形で告げています。このように美しく語られておりますことを要約するというのはあまりよろしくないのでしょうが、事柄を分かりやすくするためにあえてしてみますと、ここで告白されておりますことは、
 @主イエス・キリストは、神である。
 Aすべてに先だっておられる方である。
 Bすべてを造られた方である。
 Cすべてを保持しておられる方である。
 D教会の頭(かしら)なる方である。
 E最初に復活した方である。
ということになろうかと思います。

4.神であるイエス・キリスト
 ここで一番大切なのは、第一番目のイエス・キリストは神であるということであります。15節の「御子は、見えない神の姿であり」とは、イエス・キリストは見えない神が見える姿をとられたということであり、キリストは神そのものであると言っているのです。イエス様はマリアから生まれたのですから、人間であるに違いありません。しかしそれは、神であるキリストが、イエスという人間として生まれられたということなのです。クリスマスは、この神が人となり給うたという奇跡なのです。日本では、人が神になってしまいます。明治神宮、乃木神社、天満宮、八幡神社、どれも有名な人が神様として祀られています。しかし、人間が死んだら神になる、そんなことはないでしょう。少なくとも、私共を一切の罪から救い出してくれる神にはなりません。イエス・キリストが神であるということは、偉い人間が神となってあがめられるということではないのです。天地を造られた、ただ一人の神の独り子、神であられる独り子が、人となられたということなのです。
 ただ注意しなければいけないのは、15節の「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」とありますが、この「生まれた」というのは、クリスマスのことを言っているのではありません。天と地とその中にあるすべてのものは神様によって造られたのですが、キリストは神の御子、神様そのものでありますから、造られたのではなくて、「生まれた」のです。

5.先在のキリスト
 このイエス・キリストが神であられるということは、第二番目のキリストの先在、つまりキリストがすべてのものに先立っておられた方であるということを示しております。これは、17節において「御子はすべてのものよりも先におられ」と繰り返されております。このことは次の、キリストはすべての創造者であるということに繋がっていきます。すべてのものに先だっておられなければ、天地創造の御業に参与することは出来ないでしょう。

6.創造者キリスト
 そして、第三番目のすべての創造者であるということが、16節に「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」と告げられているのです。御子キリストは子なる神として、父なる神様と共に天地創造の業を行ったのです。三位一体の父・子・聖霊を語る時、父なる神様を創造主、子なるキリストを救い主、聖霊なる神様を助け主という言い方をすることがあります。これは、三位一体の神様についての分かりやすい表現ではあるのですけれど、神様は三位一体ですから、父なる神様が天地を創造した時、子なる神と聖霊なる神は何もしていなかったというようなことはあり得ないのです。子なる神も聖霊なる神も、共に天地を造られたのです。それは、子なる神を救い主と言う場合も同じです。私共が救われるために御子は十字架にお架かりになってくださいましたけれど、父なる神も聖霊なる神も私共の救いのために何もしない、そんなことはあり得ないでしょう。
 子なる神キリストは、天地万物を造られたのです。見えるものも見えないものもすべてです。私共は神様の創造というと、目に見える動物や魚、太陽や月や星、花や草木、そういうものを考えがちでありますが、それだけではないのです。目に見えないものも造られた。その代表的なものは天使や諸々の霊です。また、この世のあらゆる権威も権力も、キリストによって造られたのです。ですから、キリストより力があり権威があるものなどは何も存在しないのです。そして、このキリストが造られた万物の中には、私共自身が含まれているのです。このことを忘れてはなりません。
 ここで「御子によって、御子のために造られた」と言われています。世界も私共も御子によって造られたのですけれど、そこには目的がある。それは「御子のために」ということです。「この御子のために」という創造の目的は、御子の御心を為すために、あるいは御子をあがめ、ほめたたえるためにと言い換えても良い。クリスマスとは、キリストのためにという目的の下でこの私を造られたキリストが、イエス様としてお生まれになったということなのです。とすれば、この方の前にひざをかがめ崇めることこそ、私共に最もふさわしいことなのでしょう。

7.すべてを保持するキリスト
 次に四番目ですが、17節bに「すべてのものは御子によって支えられています。」とあります。ここに、キリストがすべてを支配し、保持しておられるのだということが告げられています。御子は、天地創造の時にすべてを造っただけで、後は放っておいたということではないのです。キリストは、今もすべてを支配し、保持しておられるのです。使徒信条にある「全能の父なる神の右に座し給えり」と告白されていることと同じことです。キリストは父なる神さまと共に、全世界・全宇宙の全てをその御手の中で治めておられるのです。ですから、キリストの御心に依らなければ、私共の髪の毛一本すら地に落ちることはないのです。安心して良いのです。

8.教会の頭であるキリスト
 そして第五番目、キリストは教会の頭であると続きます。18節「また、御子はその体である教会の頭です。」神であり、すべてに先立っておられ、すべてを造られ、すべてを保持しておられるキリストが、この教会の頭なのです。教会はキリストの体と言われます。それは、教会にキリストの霊である聖霊を注がれて、見えないキリストの御心を示し、それに従い、キリストを現す存在だからです。今、キリストは天の父なる神様の右におられるわけで、私共は目で見ることは出来ません。この天上のキリストが、地上において御心を行うために用いようと建てられたのが、キリストの教会なのです。教会にはキリストの霊が注がれており、その御心を示す御言葉が与えられております。教会は、この頭である主イエスの御言葉に従って歩むのです。教会は、牧師のものでも、信徒のものでもありません。キリストのものです。ですから、教会において誉め讃えられるのは、ただキリストだけなのです。キリストだけがほめたたえられ、栄光を受けるのです。それが教会です。

9.第一の方キリスト
 そして最後に、キリストは最初に復活された方であることが18節bに告げられています。キリストは、すべてに先立って存在した最初の者であると同時に、最初に死人の中からよみがえられました。この「最初に」という言い方は、後の者が続くことを意味しています。後に続いて死人の中から生まれる、復活する者。それが私共であります。キリストは、すべての者の中の最初の者であり、すべてのことにおいて第一の者なのです。私共は、このキリストに似た者に造り変えられていく歩みを為しているのです。やがて私共は、キリストのように愛し、キリストのように仕え、キリストのように考え、キリストのように神様の御心に従う者となっていくのです。その終末における完成の日に向かって私共は変えられつつ、歩んでいるのです。なんと幸いなことでしょう。
 このキリストの御前にあって、私共が為すべきこと、私共が為すに最もふさわしいこと。それは、このキリストをあがめ、ほめたたえ、拝みまつることなのでありましょう。クリスマスを迎えるにあたって、私共の心をそのように整えていただきたいと、心から願うのであります。祈って、キリストをほめたたえて、キリストを告白しつつ歩む一週でありたいと思うのです。

[2009年12月13日]

メッセージ へもどる。