1.犯人はあなただ
ペンテコステに聖霊を注がれて歩み始めたキリストの教会。その歩みは決して平坦なものではありませんでした。主イエスを十字架に架けた大祭司をはじめとする最高法院の者達が主イエスの名によって語ることを禁じ、迫害したのです。しかし、主イエスの弟子達は語ることを止めませんでした。ペトロやヨハネも捕らえられましたが、聖霊の守りの中で解放されました。そして、今度はステファノです。
今朝私共に与えられております御言葉は、ステファノによる長い説教の後半の部分です。今朝の聖書の箇所は、少し長いのでは、と感じられた方もおられるのではないかと思います。もちろん、ここを何回かに分けて御言葉を受けていくことも出来るでしょう。しかし、それではこのステファノの説教の醍醐味を味わえないと思ったのです。私は、このステファノの説教というのは、少し不謹慎なたとえかもしれませんが、推理小説の最後で名探偵が犯人を追い詰める場面、様々な謎解きをして見せて「犯人はあなただ」と言う所に似ていると思うのです。こんな場面を途中で切って、続きは来週というのでは興味が半減してしまうでしょう。少し長いですが、一気に読みたいと思います。
2.旧約の歴史の終着点
ステファノがここで語っている材料は、アブラハムであり、ヨセフであり、モーセであり、ダビデ、ソロモンです。当時のユダヤ人ならば、誰もが知っている人であり、誰もが知っている出来事です。その誰もが知っていることを語りながら、ステファノの出す結論は、「先祖たちが神様に逆らったようにあなたがたも神様に逆らっている。預言者たちが語ったやがて来られる正しい方、その方が来られたのにあなた方はその方を殺してしまったのだ。あなたたちこそ神に逆らう者だ。」というものでした。
ステファノが語るように、旧約の歴史は、神様に従い切ることが出来なかった神の民の罪の歴史であり、その神の民をなおも赦し、自分の元に呼び戻そうとする神様の恵みの歴史であります。しかし、主イエスを十字架に架けた人々、又、この時ステファノを裁こうとしていた人々は、旧約の歴史をそのようには見ていなかったのです。自分たちはアブラハムの子孫である。神様に選ばれた民である。自分たちこそ聖なる民であり、汚れた異邦人たちとは違う。その証拠に、自分たちにはこのように立派な神殿があり、律法がある。確かに、旧約の歴史には、神の民の罪の現実が記されている。しかしそれは過去の民の姿であって、自分たちのことではない。彼らはそう考えていました。ですから、ステファノと同じ旧約の歴史を知っていながら、ステファノと同じように自分たちの罪を認めることは出来なかったのです。
同じ歴史、同じ出来事を知っておりながら、導かれる結論が違う。どうして違うのか。それは、ステファノは旧約の歴史の目的、終着点、それを知っていたからです。それは主イエス・キリストです。主イエス・キリストが誰であり、何の為に来られたのかを知っていたからです。主イエスを十字架に架け、ステファノを裁こうとしていた人々は、これが分からなかった。だから、旧約の歴史に示されている神の民の罪を、自分の罪と重ねることが出来なかったのです。推理小説の中の名探偵は、犯人を知っているのです。だから、誰もが知っている事実を組み合わせて、論理を組み立て、「犯人はあなただ」と言うことが出来る。ステファノがここでしていることは、そういうことではないかと思うのです。
歴史というものは、厄介なものです。その歴史をどの視点から見るかによって、その歴史から受け取ることが全く違ったものになってしまいます。これは私共も同じで、先の大戦における敗戦をどう見るのか。色んな人が、様々に語ります。色んな考え方がある。しかし私共キリスト者にとって、天皇が神と崇められる、この偶像礼拝の罪が神様の裁きを招いたという理解は外せないと思います。しかし、この様に先の大戦を受け取る者はこの日本においては全くの少数者です。何故なら、偶像礼拝の罪というものを日本人は知らないし、この歴史を導かれる神様を知らないからです。
3.モーセも受け入れなかったイスラエル
さて、今朝与えられております7章17節以下において取り上げられているのは、モーセです。モーセは、エジプト王ファラオの王女に拾い上げられ、育てられました。不思議な神様の守りです。誰もが知っていることです。そしてモーセは、イスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見て、このエジプト人を殺し、ひどい目に遭った人のあだを討った。これも、誰もが知っていることです。ところが25節です。「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。」神様が遣わされたモーセでした。しかし、イスラエル民はそれを理解せず、受け入れなかったのです。26〜28節「次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』」このように、モーセを受け入れなかった。だからモーセはミディアンの地に逃れなければならなかったのです。しかも、このモーセが、神様から召命を受け、指導者として遣わされ、紅海の奇跡、四十年もの荒れ野の旅を導いたのです。
これは、神様が遣わされた主イエスを受け入れずに、十字架に架けて殺したあなたがたと同じではないか。あのモーセを受け入れなかったイスラエルの民が、モーセによって導かれ救われたように、神の民は、あなたがたが十字架に架けた主イエスによって導かれ、救われていくのだ。そうステファノは語っているのです。37節に「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』」とありますが、これは申命記18章15節にある言葉です。後にモーセのような預言者が与えられると、モーセは語った。その預言者こそ主イエス・キリストであった。それなのに、あなたがたはその主イエスを十字架で殺してしまった。ステファノはそう言っているのです。
4.偶像を頼るイスラエル
更に、ステファノは、モーセが十戒を受けた時に、人々がモーセを待つことが出来ずに、アロンによって金の子牛を造ったことに言及します。39〜41節「けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。」これは、イスラエルの歴史の中で、最も不信仰が露わに現れた出来事でした。モーセがシナイ山で神様から十戒をいただいているときに、まさにその時に、山の下では金の牛の像の偶像を作り、イスラエルの民はこれを拝んでいたのです。ステフアノは、「この目に見える金の牛の像を造って拝んだイスラエルは、今も目に見える神殿を頼りにしている。あの律法が与えられた時に、アロンによって金の牛の像を造ったイスラエルと同じではないか。」そう語っているのです。
5.神殿を頼る罪
そして、44節以下。モーセの時以来、神様は幕屋(これはテントのようなものを考えて下さって良いと思いますが)において、御心を示して来ました。ダビデの時代もそうでした。ダビデは、神の住まいを欲しいと願いましたが叶えられず、それを建てたのはダビデの子ソロモンでした。これも又、誰もが知っていることです。そして48節「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」これは、ソロモンが神殿を奉献する時にささげた祈りの中でも語られたことでした。列王記上8章に、神殿を奉献した時のソロモンの祈りが記されておりますが、27節にはこうあります。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」ソロモンはこう祈って、神殿を奉献したのです。人間の手が造った神殿、それがどんなに立派で壮麗であったとしても、神様がその中に住むなどということはあり得ないことなのです。何故なら、神様はこの天地の全てを造られた方ですから、この天と地の全てをもっても神様をそこに入れるなど出来ることではないからです。「天はわたしの王座、地はわたしの足台」なのです。これは、旧約以来の常識と言っても良い程のものです。もちろん、礼拝する場としての神殿は大切です。しかし、神殿に神様が住むとか、神殿があるから大丈夫だなどというのは、全く話にならないことだったはずなのです。
イスラエルの民が、バビロン捕囚という、神様の裁きを受けた時。この時、イスラエルの民に悔い改めを求めた預言者がエレミヤでした。先程、歴代誌下36章11節以下を読みましたが、エレミヤがどんな目に遭わされたか、そのことが記されております。16節「彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」この時、エレミヤに対抗していた偽預言者たちが語っていたのが、「神殿がある。自分たちには神殿がある。だから大丈夫だ。バビロンによって滅ぼされることなどない。」ということだったのです。しかし神様は、心を尽くし思いを尽くして主なる神様に仕えようとしないイスラエルの民を、バビロンを用いて滅ぼし、神殿も又、瓦礫の山にしてしまわれた。あなたたちは、この神様の歴史から何も学んでいない。「神殿があるから大丈夫だ。神殿こそ神が住まわれる所。この神殿がやがて崩れる時が来るなどと言う者は、神を汚す者であって赦されない。」と語っている。それでは、あなたがたは少しも神様の言葉を聞こうとしない民ではないか。あのエレミヤを迫害した人々、エレミヤに対抗した偽預言者が語ったこととどこが違うのか。ステファノは、そう言っているのであります。
6.神様に逆らう罪
そして、ステファノの説教の結論は51節以下です。51〜52節「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」あなたがたは、体には割礼を受け、神の民のしるしを身に帯びている。しかし、心も耳も割礼を受けていない。神様の言葉を聞き、神様の御心を思い、悔い改めようとしない。そして何よりも、主イエス・キリストを受け入れようとしない。これこそ、神様に逆らい、聖霊に逆らう罪なのだ。あなたたちは、先祖たちが預言者たちを迫害したように、神様が遣わされた主イエス・キリストを十字架の上で殺したのだ。主イエスを受け入れないということこそ、聖霊に逆らっていることなのだ、そうステファノは語るのです。
7.救いに与った者として
ステファノが語る言葉は大変厳しいものです。神様に逆らう強情を、ステファノは言い逃れが出来ないあり方で指摘します。このステファノの言葉を、私共はこの時の主イエスを十字架に架けて殺した人、ステファノの目の前にいる大祭司達だけに向けられたものとして聞くことは出来ません。同じような強情が私共の中にもあるからです。自分は正しい。自分は洗礼を受けた者だ。私たちには目に見える教会がある。自分は良い人間だ。そんな思いが、私共の中に少しもないとは言えないでしょう。
しかし、私共が頼ることが出来るのは、ただ主イエス・キリストの救いの御業と神様の憐れみだけです。私共の中には何もない。神様の御前に誇ることが出来るものなど何もないのです。何もない私共を、神様は主イエス・キリストの故に憐れんで下さって、一切の罪を赦し、神の子とし、永遠の命の希望に生きる者にして下さったのです。
自分を誇り、目に見えるものを誇り、ただ神様だけにより頼もうとしない強情。それを罪と言うのです。私共の中に、この罪がないとは誰も言えません。旧約の歴史は、私の罪の歴史でもあるのです。私共は主の日の礼拝のたびごとに、この罪を神様の御前に告白し、主イエス・キリストによる罪の赦しを受けるのです。御子を十字架に架けて殺したのは、この私です。私の中に正しいものは何もありません。私はあなたに逆らい、おのが腹を神とし、自分の欲の欲するままに生きてきた者です。主よ、憐れんで下さい。あなたは、そのような私共を憐れみ、御子の十字架の贖いの故に、私共を赦して、招いて下さいました。感謝します。このあなたの憐れみの中で、私共を生かして下さい。そう祈るしかないのです。
ステファノは決して、自分は正しく、あなたたちは罪人だ、そう語っているのではないのです。ステファノも又、罪人なのです。彼はそのことをよく知っているのです。主イエスに出会った者がそれを知らないはずがないのです。ステファノは、自らの罪を知らされ、神様の御前に悔い改め、主イエス・キリストを神の子として、我が主、我が神として受け入れたのです。この救いの恵みに与ったとき、旧約以来の神の民の歴史が何であったかを知らされたのです。そして、それを知った者として、大祭司を始めとする人々にそれを教え、悔い改めてこの同じ恵みに与るようにと招かないではいられなかったのです。旧約の歴史についてならば、ステファノの話を聞いていた大祭司たちの方が、ずっと細かく知っていたでしょう。しかし、彼らはその神の民の歴史の到達点、この歴史が向かっていった目的を知らなかった。だから、その歴史から学び、悔い改めることが出来なかったのです。人は自分が赦されたことを知らなければ、つまり主イエスを知らなければ、本当のところで自分の罪を認めることは出来ないのです。
私共は、今から聖餐に与ります。主イエス・キリストが私共に代わって、私共の為に十字架に架かり、一切の罪を赦して下さった、この恵みに与るのです。この恵みに与る者は、大胆に、そして正直に、神様の御前に自らの罪を認め、告白することが出来るし、そうするように招かれています。心と耳に割礼を受けた者として、自らの罪を告白し、悔い改め、共に主の食卓に与りましょう。
[2009年6月7日]
へもどる。