富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様の御前における喜びと畏れ」
ヨシュア記 7章10〜13節
使徒言行録 4章32節〜5章11節

小堀 康彦牧師

1.教会の原点としての最初の教会
 キリストの教会は、神様によって選ばれ、召された人々による共同体です。主イエスは十字架におかかりになる前にすでに十二使徒を選んでおられましたが、主イエスが復活され、使徒たちと出会い、使徒たちに聖霊を注がれ、主イエスを信じる人々の群れとしての教会が誕生いたしました。この生まれたばかりの教会は、信仰を同じくする者たちが生活を共にするという性格を持っていました。それが共同体ということです。キリスト教の信仰というものは、ただ心の中で信じていれば良いというものではなくて、主イエスを信じる者が共に集い、生活を共にする群れ、共同体としての教会を形作っていくものなのです。各々が心の中で信じていれば良いということならば、共同体はいりません。教会もいらないのです。しかし、私共が読み進めている使徒言行録によるならば、生まれたばかりのキリストの教会は、使徒たちを中心とした共同体を形作っていたということが分かります。もちろん、教会の姿形というものは、その国、その時代によって変わっていきます。使徒言行録に記されている教会の姿が今に至るまでそのままの形で続いているわけでもありません。使徒言行録に記されている教会の姿だけが、ただ一つの正しい教会の姿というわけでもありません。しかし、この使徒言行録に記されている教会の姿は、教会とは何なのか、どういうものなのか、その原点とも言うべきものを私共に教えている、そのように考えて良いだろうと思います。
 最近の医学の世界では、ES細胞と呼ばれるものの研究が進んでいるようです。私も詳しいことは判りませんが、人の体はいろいろな細胞から出来ています。筋肉とか血管とか血液とか脳の神経細胞とか、いろいろある。しかし、それらのいろいろな形や役割の違った細胞も、元をたどれば精子と卵子の結合による一つの細胞ということになります。それが細胞分裂を繰り返して、私共の現在の体になっていくわけですけれど、ES細胞というのは、体の中のどの細胞にも変わっていくことが出来る段階の細胞のことです。この研究が進みますと、自分の体のどこかが悪いとすると、その臓器をES細胞から造ってパーツごと替えてしまう、そういうことになっていくのではないかと言われています。何が言いたいのかと申しますと、この使徒言行録にある教会の姿というのは、教会のES細胞と考えて良いのではないかということなのです。ここには、当たり前のことですがカトリックもプロテスタントもギリシャ正教もありません。ただ主イエスを信じる者達の群れとしてのキリストの教会があるだけです。この教会のES細胞のような最初の教会には、キリストの教会であるならばこういう面が必ず伴っている、そういう姿が示されているのではないかと思うのです。

2.心も思いも一つに
 32節を見てみましょう。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」とあります。教会は「心も思いも一つにし」ていたのです。これは、キリストを信じ、キリストを愛し、信じる者同士が互いに愛し合い、支え合いつつ歩んでいる姿を語っているのでしょう。「心も思いも一つに」なるということは、人間の社会ではなかなかありません。4、5人の小さな交わりならいざ知らず、百人を超えるような交わりとなれば、「心も思いも一つに」なるということはほとんど不可能でしょう。しかし、生まれたばかりのキリストの教会は、そうだったのです。だから、33節後半にあるように、「皆、人々から非常に好意を持たれていた」ということになったのでしょう。この「心も思いも一つ」になっていた表れとして、二つのことがここに挙げられています。
 一つは、「大いなる力をもって主イエスの復活を証しし」たということです。何よりこの主イエスの復活を証ししていくということにおいて、心も思いも一つとされていた群れであったということであります。何を信じ、何を宣べ伝えていくのか、そのことにおいて一致していたということです。当然といえば当然のことです。信じていること、宣べ伝えること、ここに一致がなければ、教会が心と思いを一つにすることは出来るはずもありません。教会が心も思いも一つになるということは、みんなで仲良くしましょうというようなことで与えられるものではないのです。信じ、伝えることにおいて一つになっていなければならないのです。私共が信仰告白を重んじるのは、そういうことなのです。そして、その信じ伝えることは、「主イエスの復活」でありました。これも心に留めておかなければならないことでしょう。私共の信仰の中心にあるのは、主イエスの復活の出来事なのです。もちろん、「主イエスの復活を証し」したということは、ただ主イエスは復活したということだけを伝えたということではないでしょう。主イエスの復活という出来事によって私共に示され、もたらされた救いの恵みを語っていったということです。「主イエスの復活の出来事により、主イエスはまことの救い主、神の子であることが明らかとなった。この方の十字架によって私共が一切の罪を赦され、神の子・神の僕とされた私共に主イエスの復活の命が私共に与えられた。私共も又永遠の命に生きることとされた。天地を造られた神様が、私共を愛し、私共と共にいて下さることが明らかにされた。」この一連のことを告げたということです。そして、この恵みの中に生き切るということが、主イエスの復活を証しするということなのであります。
 第二に、「心も思いも一つ」とされていたことのしるしとして、富・財産のことが記されています。32節には「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」とあり、34〜35節には「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」とあります。ここで、当時の教会の状況を少し考えてみますと、こういうことになるかと思います。主イエスの弟子たち、使徒たちはガリラヤの出身でした。ですから、エルサレムに生活の基盤はありません。又、主イエスを信じて弟子となった者たちの中にも、五旬祭にエルサレムに来て、ペンテコステの出来事によって主イエスの弟子となった人もいたでしょう。このような人は、エルサレムでの生活基盤はやはりなかったと思います。ですから、信者の中から財産のある者がそれを売って、献金して、それを皆で分配して生活していたということであったと思います。しかし、このあり方は長くは続かなかったと思います。生活基盤を持たない人の集団が、各々財産を売るだけでいつまでも維持されていくはずがないからです。ですから、後の教会はどれもこのようなあり方を取らなかったのです。このような教会のあり方を絶対視し理想化する必要はありません。しかし、ここで告げられている、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」とか「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り」ということが示している、富や財産からの自由というものは、主イエスの復活を信じた者の大切な特質であると言わねばならないでしょう。これは、私共も又受け継いでいるものです。互いに愛し、支える為に、自分の富や財産から自由となってささげる。それは美しい姿であり、人がなかなか出来ないことであったが故に、それを平然と行っているキリストの教会の姿に、周囲の人々は驚き、好意を持ったのでしょう。

3.富からの自由
 私がいつも言っていることですが、富からの自由というものは、私共がキリスト者としてスッキリと生きていく為には、どうしても必要なものです。キリスト者は献げることの喜びを知らなければなりません。献げるということは、いきいきとした神様との交わり、愛する兄弟姉妹との交わりの中で、自然と導かれていくものなのだと思うのです。献げるという行為は、実に感謝と喜びの業なのです。神様に愛され、生かされ、新しくされたことへの喜びと感謝です。それが、教会にはいつも溢れているということです。この富からの自由は、キリストによって新しくされた者の一つのしるしであると言っても良い。世の中というものは、良い悪いの問題ではなく、この富・お金というものを中心に動いているところがあるでしょう。現代の日本は、どんな仕事をするのか、老人介護をどうするのか、誰と結婚するのか、このような大切な生き方の問題さえ、すべてがお金に換算されてしまう時代です。しかしそういう中にあって、私の中心は富や金ではなく、神様であり、キリストであり、教会である。そう言い切れる。富やお金から自由になっている、それがキリスト者なのでありましょう。
 この富をめぐって、二人の例が挙げられています。一人はバルナバ、もう一人は、一組と言うべきでしょうか、アナニアとサフィラという夫婦です。
 36〜37節に「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ−「慰めの子」という意味−と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」とあります。このバルナバという人は、後でパウロを十二使徒たちに紹介したり、パウロと一緒に伝道したりと、教会において大変重要な働きを担うことになる人ですけれど、彼は自分の畑を売って、その代金を使徒たちの足もとに置いた、つまり献金したのです。バルナバは、キリストの救いに与った喜びの中、ただ感謝の思いで、これを為したのだと思うのです。また、エルサレムに生活基盤のない兄弟姉妹のことを思い、献げたのでありましょう。聖書には記されておりませんけれど、多分このバルナバの行為は、エルサレムの教会の人々の評判になったと考えて良いと思います。このように聖書に記されている程ですから、きっと当時の人々も皆知っていたのでしょう。
 そこに誘惑が生まれました。アナニアとサフィラの夫婦です。彼らは自分たちの土地を売り、その代金の一部をささげました。ところが、ペトロはその時こう言ったのです。3〜4節「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」多分アナニアとサフィラは、土地の代金の一部をこれが全部だと言って、ペトロの所に持ってきたのだろうと思います。しかし、全部をささげなければならなかったわけでもありませんし、そもそも必ず土地を売って献金しなければならないなどということもなかったのです。献げ物は、あくまで自由な献げ物です。ですから、必ずこうしなければならないなどということはなかったのです。にもかかわらず、彼らは代金の一部を全部と偽って献げたのです。それは、自分たちもバルナバのように人々から称賛されたいという思いがあったからでしょう。その心の動きを、ペトロは「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言ったのです。そしてアナニアは、この言葉を聞くと倒れて死んでしまいました。次に入って来た妻のサフィラも同じように、土地の値段をごまかした為に死んでしまいます。何もそこまでしなくても良いではないかと思う方もいるでしょう。しかし、ここで問題となっているのは、主イエスの復活によって新しくされた者の群れに、ちっとも新しくなっていない者、人の評判を求め神様の御前に生きることが出来ない者は、ふさわしくない。それはサタンに心を奪われた者だということなのです。ただ神様を見上げ、神様に仕え、神様にささげる共同体としての教会において、人と比べ、人の称賛を求めるあり方は、ふさわしくないということなのです。そして、神様はそれを見ているし、見過ごしにはされないということなのです。そして、何よりこの二人は、偽りの献げもをすることにおいて神様を侮ったということなのです。彼らは神様の御前にあるという畏れを失っていたのです。生ける神の御前に生きているというリアリティーに欠けていたということなのです。ここに真実な信仰の歩みは生まれません。聖書は、このアナニアとサフィラの出来事を通して、神様は主イエスを信じる者達の群れの上に確かに臨んでおられるということを告げているのです。  コーラム・デオ、「神の御前で」であります。キリストの教会とは、どこまでも神の御前で生きる者たちの群れなのです。神様は全てを知っておられるし、神様はその上で私共を愛し、召し出し、主イエスの復活の恵みに与る者として下さいました。この神の御前における畏れと、神様の恵みの中に生かされている喜び。この二つは切り離すことは出来ないのです。私共は神様の御前に生きる者として、畏れと喜びをもって、神様の御前に真実に誠実に歩もうとする者の群れなのです。

4.キリストの使者として遣わされる
 私共は、この礼拝の後、2009年度の教会総会を開きます。この教会会議は、神様の御前に開かれる会議です。2008年度の歩みを振り返り、2009年度の歩みを計画します。教会の歩みとは、全てが聖霊なる神様の導きの中で為されます。そのことをしっかり心に刻んだ上で、私共は自分たちが神様の御前にあって真実に誠実に歩んできたか、歩もうとしているか、そのことが問われる時でもあります。神様の全てをご存じであります。私共は自らの欠けたる所を神様の御前に悔いつつ、2009年度の新しい歩みが神様の全ったき支配の中で為されるよう、祈り求めたいと思います。2009年度の教会の目標は、「キリストの使者として遣わされる」です。キリストの救いに与った者として、私共は家庭であれ、職場であれ、神様によって遣わされていくのです。そのことをきちんと受けとめて、主イエスの復活の証人として歩ませていただきたいと願うものです。主イエスの復活の証人として生きるということは、この救いの恵みの中で新しくされた者として生き切るということです。この新しさは、富からの自由に表れるように、この世の生き方とは違っていますから、隠しようがありません。またこの違いが無ければ、キリストの使者としての務めを果たすことは出来ないでしょう。周りと違うことを恐れてはなりません。私共が恐れなければならない方はただ一人です。全てを知り、全てを支配し、私共を救い、新しくしてくださった方です。キリストの使者として生きるとき、生まれたばかりのキリストの教会が「皆、人々から非常に好意を持たれていた」ように、きっと私共も又、好意を持たれることになるでしょう。キリストの使者とは、神様の御前における畏れと喜びの中、キリストの愛、キリストの平和を身に帯びた者として生きる者だからです。それぞれの場で、遣わされたキリストの使者として歩んでまいりましょう。

[2009年4月26日]

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