富山鹿島町教会

礼拝説教

「主にあって仕える」
申命記 10章12〜22節
エフェソの信徒への手紙 6章1〜9節

小堀 康彦牧師

 キリストによって救われ、神の子、神の僕とされた私共は、仕える・従うという新しい生き方が与えられました。そしてそれは、何よりも家庭生活という最も日常的な所において具体化され、実現されていかなければならないと聖書は告げます。そこでまず告げられましたことは、夫婦のあり方でした。夫も妻も互いに仕え合いなさいというのです。そして次に告げられておりますことは、今朝与えられております御言葉において示されております、子どもと親、奴隷と主人のあり様です。ここで、奴隷と主人との関係というと、私共はすぐに奴隷制度の是非ということについて考えてしまいますけれど、ここで告げられているのはそういうことではありません。この手紙が書かれました当時、奴隷制度というものは、社会の仕組みとして当然のこととして存在したのです。特別裕福な家でなくても奴隷はいたのです。そういう状況の中で、夫と妻、親と子どもの関係、あり様について語るのと同じように、主人と奴隷の関係が告げられているのです。つまり、家庭の中での生活について語るという文脈において告げられているのです。このことは、最初にきちんと押さえておかなければならないでしょう。

 順に見ていきます。まず親子の関係です。
 キリスト者の親子は、何を心得ておかなければならないのでしょうか。それは、この親子という関係が神様によって与えられた関係であるということであります。たとえ親子であっても、神様抜きにその関係を考えることは、キリスト者にはもはや出来ないということなのです。神様の御前にあって、この親子の関係も受け取るということなのです。
 当時の家庭において、家長である父の権威は絶対でした。現代の日本の家庭からは想像することも出来ない程です。父は子を捨てることも、奴隷のように扱うことも自由でした。「子どもは親のもの」というのが一般的な受け取り方だったのです。そこでは、親、特に父親の都合の良いように育てるということが当たり前のことだったのです。子どもは何よりもその家庭の労働力であり、跡取りでした。しかし聖書は、子どもは親の所有物でもなければ、親の都合によって育てられるものでもないということを教えたのです。私はキリスト教教育こそ正しい教育のあり方を示すものだと考えていますけれど、キリスト教教育の根本にあるのは家庭教育であり教会なのです。この家庭とは何なのか。聖書は、神様の戒に生きる人間を育む場、信仰を育み信仰を継承していく場であると告げているのです。私共は、このことをきちんと受けとめなければなりません。現代では、信仰は個人の問題であるということが常識となりました。確かに信教の自由というものは、私共の基本的人権の一つです。しかし、信教の自由が各自に与えられているということと、家庭において子どもを育てる責任が親には与えられているということは、別でしょう。信教の自由を理由に、親は子どもを神様の御前に育てる責任を放棄してはならないのです。
 ここで、子に対して「両親に従いなさい。」と告げられます。言うまでもなく、これは十戒の第五の戒です。この十戒の「あなたの父と母を敬え。」という第五の戒は、自分が子どもとして聞くか、それとも親の立場として聞くかで、ずいぶんと印象が違う戒です。子どもとして聞けば、何とも上から押しつけられているような印象を持つでしょう。逆に親として聞けば、「そうだ。子は私に従わなければならん。」と神様のお墨付きをもらったような気分になるかもしれません。しかし、この第五の戒は親に味方しているのでも、子どもに不当な要求をしているのでもないのです。神様の子、神様の僕として生きる者の正しい姿を示しているのです。ですから、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる。」という、神様の祝福の約束が伴っているのです。親と子というのは、神様が与えて下さった関係であり、秩序なのです。神様は、この親と子という秩序を用いて、人間をそのあるべき姿に育んで下さるのです。ですから、父親は当時の当然と考えられていた絶対的な権威を笠に着て子を育てるのではなくて、「子供を怒らせてはなりません。」「主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と告げられているのです。
 主なる神様は、愛をもって私共を目覚めさせ、神様に従う者として下さいました。それと同じように、子を慈しみ、愛し、そのことによって従う者へと育んでいくようにと告げられているのです。この親と子の関係において告げられているのは、まさに愛の関係なのです。しかもその愛は、親と子に自然に備わっているというよりも、神様によって教えられた愛です。それは仕える愛であり、従う愛なのです。親も子も、神様に従う、神の言葉に従う、そこにおいて愛を全うしていくということなのです。何よりも、親は子を、子は親を、神様が与えて下さったものとして受け取り、神様の御心を思い、神様の御前における親、神様の御前における子として歩めと言われているのであります。
 しかし、何も分からない赤ちゃんの時から親は子どもを育てるのですから、親と子の関係において、「神様の御前で」ということを自覚し、意識しなければならない責任は、第一には親にあるということは確かなことでありましょう。子どもを育てる時、親が何よりも大切にしなければいけないことは、我が子を神様の御前に生きる者として育てるということです。現代の日本の親の多くは、教育熱心です。しかし、その熱心がどこに向いているのか。勉強か、スポーツか、お稽古ごとか。それらが無駄だとは言いません。それも大切でしょう。しかし、神様の御前に正しく生きるということこそ、親が子どもにどうしても教育していかなければならないことなのです。しかし、このことは口で教えるだけで伝わるということではないでしょう。親自身が、神様を畏れ敬い、神様の御前に、神様の言葉に従う者として生きていなければならないことであります。子どもは親が力で押さえつけて、それで思い通りに育つということはありません。この「父親たち、子供を怒らせてはなりません。」というのは、当時の父と子の関係を考えますと、実に驚くべき言葉と言わなければなりません。当時は、父の権威と力で教育することが当たり前だったからです。聖書は、時代を超えて、国を超えて、私共の歩むべき道を指し示す神の言葉であることを改めて思わされます。

 次に、奴隷と主人の関係です。最初に申しましたように、ここでは奴隷制度は悪だからこれを廃止するように、とは言われていません。ですから、今の私共から見れば、何とも不徹底に思えるかもしれません。奴隷制度が良いなどと考える人は、今ではほとんどいないでしょう。聖書のこの個所を根拠に、聖書は奴隷制度を認めていると主張するような愚かなことをしていた時代もありました。しかし、それはこの聖書が語ろうとすることを完全に読み間違えてのことであったと言わねばなりません。ここでは、社会の制度としての奴隷制度が良いか悪いかを語っているのではないのです。そうではなくて、どの家庭にもいた奴隷に対して、キリスト者として主人はどのように接すれば良いのか、又キリスト者としての奴隷はどのように主人に接すれば良いのかという、キリストの御前にある家庭の中のあり方の一つとして、奴隷を取り上げているのです。
 ここで、奴隷に対して、「真心を込めて、主人に従いなさい。」「うわべだけでなく、心から、喜んで仕えなさい。」と告げられています。これは形だけで仕えるのではなくて、全てを見ておられる神様の御前で、自分の為すべき務めに励みなさいということでありましょう。そして、9節では主人に対して、「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。」と言われています。「同じように」というのは、奴隷が真心を込めて主人に仕えるなら、神様はそれを見ていて下さり、やがて主の御前に立つ日、主なる神様はきちんと報いを与えて下さるだろう。それと同じようにということです。つまり、主人に対しても、神様の御前でやがて報いを受ける、そのことを思って奴隷に対して正しく接しなさいというのです。ここで大切なことは、奴隷にしても主人にしても、神様は全てを知り、見ておられるのだから、同じ神様を主人として持つ者として相手を見て、これに接し、これを扱いなさい、と言われているのです。奴隷も主人も、神様という同じ主人を持っている。そのことを心に刻んで接しなさいと言うのです。
 これは、当時の状況を考えると、考えられない程に重大な勧めでした。当時、道具には三つあると考えられていました。言葉を話す道具と、言葉を話さない道具と、命のない道具です。言葉を話す道具とは奴隷のことであり、言葉を話さない道具とは家畜のことであり、命のない道具とは文字通りのスキとかクワかハサミといった道具でした。奴隷とは言葉を話す道具であって、主人からどんな不当な扱いを受けようと、命を絶たれようと、その持ち主である主人がすることである以上、正当なことだったのです。もちろん、中には主人と奴隷の間に深い心の交流がある場合もありました。しかし、奴隷は主人の道具の一つであることに変わりはありませんでした。
 そのような時代にあって、この聖書の言葉は実に驚くべきものでした。主人も奴隷も、神様という同じ主人を持っている者であり、共にやがて神様の御前に立って報いを受けなければならないのだから、そこに向かって、今、神様の御前に正しくあれと、聖書は告げたのです。これは、奴隷を道具としか見ていなかった主人にしてみれば、神様の御前にあっては奴隷と同じということですから、おもしろくなかっただろうと思います。又、奴隷にしてみれば、心から主人に仕えよなどと言われれば、これも又おもしろくなかっただろうと思うのです。聖書は、ここで奴隷の味方でも主人の味方でもなく、それぞれが神様の御前にあって生きなければならないということを教えているのであります。奴隷と主人は、立場が違いますから、することも違うでしょう。しかし、共に神様の御前にあって、為すべきことをするのです。この神様の御前に立ってということになれば、どうして主人は奴隷を脅かしたり、不当な扱いをすることが出来るのかということになるのです。
 私は、この勧めと神の民イスラエルが、エジプトにおいて奴隷であったということと無関係ではないと思っています。旧約において、先程お読みしました申命記にあるように、イスラエルがエジプトにおいて奴隷であったことは忘れられることはありませんでした。神様は、その奴隷であったイスラエルの歎きを聞き、これを憐れみ、エジプトから導き出し、神の民として下さった。神の民は、具体的なエジプトいう国で奴隷であったのです。キリスト者は、この神の民の記憶を忘れることは出来ないのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデといった旧約の先達達を、自分達の信仰の先達として受け取る以上、エジプトで奴隷であった事実も忘れることは出来ないのです。そしてそのことを忘れない以上、目の前の奴隷に対して、エジプトの王のようにふるまってはならない。このことはエジプトの奴隷のの状態から救い出された神の民としては、当然のことだったのではないかと思うのです。
 そして私共は神様の永遠の裁きの場に立たねばならないことを教えられています。目の前にいる奴隷と共に、やがて神様の御前に立って、神様の裁きを受けなければならないのです。ここで「神様の御前で」ということにおいて、主人と奴隷の間の、この世における圧倒的な差、違いが乗り超えられているのです。聖書は社会変革を直接的に指示することはしていません。しかし、神の御前における裁きというもの、神の御国というものを心に思い抱かせることによって、主人と奴隷という関係を乗り超えさせたのだと思うのです。
 現在の日本には、奴隷というものは居ません。ですから、直接この聖書の言葉が告げている状況とは対応しないわけです。しかし、いつの時代でも、社会的な上下の関係というものはあるでしょう。その様な中で、私共は神様の御前に立って、一人一人と接していかなければならないということなのでありましょう。

 最後に一つのことを確認して終わります。それは「キリスト者の自由」ということです。キリスト者は、キリストによって救われ、神の子、神の僕とされました。神様以外に従うべきものを全く持たない、完全に自由な者となりました。キリスト者の自由とは、完全な自由です。金も欲も力も権力も国家さえも、キリスト者を支配することは出来ません。キリスト者は神様以外の主人を持たないのです。しかし、この完全な自由を、キリスト者は全ての者の奴隷となる、全ての人に仕えるというあり方において用いるのです。キリスト者の自由は、完全に自由にされたというだけでは終わらないのです。この完全な自由を、全ての人に仕えるというあり方で用いる。このことが必ず伴っているのです。私共には神様以外の主人はいない。だから神様以外の誰にも従わない。だから何をしても勝手だとはならないのです。何をしても勝手だという自由は、結局、自らの罪の奴隷にしかならないでしょう。私共は自らの罪の奴隷とならない為に、ただ神にのみ仕え、ただ御言葉に従うのです。そして、それ故に、全ての者に仕える者として生きるのです。妻と夫、親と子、奴隷と主人の関係は、神様にのみ仕える、それ故に全ての者に仕える者として生きるという、キリスト者の自由な生き方が具体的に現れる関係として、聖書は私共に告げているのです。私共は神様によって完全に自由にされた者として、それぞれ遣わされた所において、この自由を用いてまいりたいと心より願うのであります。 

[2009年2月8日]

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