エフェソの信徒への手紙を共々に読み進めております。4章から「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩む」ようにと語られ、キリスト者としての生活、その歩み方についての勧めが記されておりました。「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けよ」「神に倣う者となりなさい」「光の子として歩みなさい」と勧められてきました。そして、今朝与えられております御言葉において、更に具体的にキリスト者としての夫婦のあり方を勧めております。キリストに結ばれ、神の子、神の僕とされた私共は、それにふさわしく生きる。それは当然のことであります。しかし、だからといって、あまり具体的なことになりますと、私共は皆、耳が痛いことになります。夫婦のあり方、家庭での生活というものは、その最たるものでしょう。しかし、ここでキリスト者としての理想の夫婦などというものは、あまり考えても仕方がないと思いますし、聖書が告げているのも、そういうことではなかろうと思います。私共は罪赦された者でありますけれど、罪人でなくなったわけではありません。ですから、日々様々な罪を犯すのです。そして、最も近しい関係である夫婦において、甘えもあり、その罪ははっきり出てしまう。そういうものでしょう。決して他人には言わない、言えない、そんな口の利き方も夫婦の間では、ついしてしまうのであります。それは程度の差こそあれ、どの夫婦も変わりありません。キリスト者の夫婦であっても、牧師の家庭であっても同じことです。
しかし、そのような現実を認めつつも、キリストを知った者の夫婦は、そのあり方において決定的に違う所があるのです。それは「互いに仕え合う」者として結ばれているということを知っているということです。今朝与えられております聖書の箇所は、結婚式で読まれる所です。ただ読まれるだけではなくて、準備会においても学ばれ、結婚式の説教においても語られる所です。その結婚の準備会を通して語られることは、この「互いに仕え合いなさい」ということです。私も今まで何十という結婚式をしてきましたけれど、その準備会において、夫婦となるということは「互いに仕え合う」者として結ばれるのだということは初めて教えられた、こんなことは今まで考えたこともなかったという場合がほとんどでした。好きだから、愛しているから結婚する。それで良いのですけれど、その愛するということは、互いに仕え合うことだとは考えていないようなのです。結婚には愛がなければならないということは、誰もが思っていることでしょう。しかし、この愛というのは、仕え合うことだとは考えていないのです。お互いが好きだというぐらいにしか考えていないようなのです。結婚はその時の勢いで出来るでしょうけれど、それだけではやっていけないのです。この結婚ということについて、現代の日本において正しい理解がなされていない、教えられていないと私はいくつもの結婚に関わって思わされています。しかし、この問題は私共にとりまして大変重大な問題です。しっかり、聖書から聴きたいと思います。
聖書は、明確に「互いに仕え合いなさい」と告げています。ここに結婚とはどういうものであるかが、はっきりと告げられているのだと思うのです。22〜24節には妻に対して、「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」と告げられております。ここだけを読みますと、何か女性にだけ、妻にだけ大変な要求をしているようで、男尊女卑の考えが現れているかのように読んでしまうかもしれません。実際、そのように読んで、これは現代の結婚式において読まれるべきではないと主張する人もいるのです。しかし、そうではありません。そのような読み方は、全く聖書が告げようとしていることを誤解しています。まず21節に「互いに仕え合いなさい。」と言われているのです。妻だけではありません。そして、25節には「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」とあります。キリストは教会の為に、十字架におかかりになって、その命の代償をもって救い、愛を示されました。ということは、夫に対しては、そのように自分の命を捨てて愛せと告げられているのです。命を捨ててです。大変な要求です。ですから、妻に対してだけ不当な要求をしているのではないのです。ここで妻に対して言われている「仕える」ということと、夫に対して言われている「愛する」ということと同じことなのです。夫にも妻にも、聖書は同じことを求めているのです。
ここで私共は主イエスの言葉を思い起こすことが出来るでしょう。マタイによる福音書20章25〜28節「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」主イエスは弟子たちに、互いに仕える者として生きよと告げられたのです。世間では偉い人や上の者が下の者達を支配し、仕えさせている。それが当然のこととして為されている。しかし、主イエスの弟子達の間ではそうであってはならないというのです。それは、主イエス御自身が仕えられる為ではなく、仕える為に来たからです。それと同じように、主イエスの弟子達は、仕える者として生きよといわれたのです。私共が互いに仕え合うというのは、主イエスがそのような方として来られ、そのように歩まれたからなのです。主イエス御自身が仕えられることを求めず、仕えられた。しかも十字架の死さえも受け入れられるというあり方で仕えられた。この主イエス・キリストによって新しくされた私共が、どうしてこの主イエスの歩みに反する歩みが出来ようか。この方によって救われ、生かされた私共は、互いに仕えるというあり方以外に、神の子、神の僕としての歩みを全うすることなど出来ないではないか。そういうことなのです。
どうして「自分の夫に仕えなさい」と言われると嫌なのか。それは、夫だろうと、他の人だろうと、「仕える」ということが嫌だからなのでしょう。何か自分が低く見られているようで嫌なのでしょう。しかし、「仕える」というあり方は、主イエス・キリストを知った私共にとっては、最も高貴な、最も美しい生き方なのです。仕えること、それは愛することだからです。確かに無理矢理仕えさせられるのは嫌なことです。しかし、私共は喜んで、自ら進んで仕えるのです。
聖書はこう告げます。30節「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。」私共はキリストと結び合わされ、キリストの体の一部となった。キリストの体とは、教会のことです。洗礼を受け、キリストの血によって清められ、キリストと結び合わされ、この教会に連なる者となった私共です。そうである以上、キリストが歩まれたように、私共も互いに仕えることによって、キリストの愛に生きるのです。
キリストの体である教会という場に身を置くことによって、私共はこの「仕える」ということを学んでいくのだろうと思うのです。教会という所は、一から十までこの「仕える」ということに貫かれている所だからです。私共はこのことをきちんと受けとめなければなりません。礼拝に集い、神様の愛、キリストの愛を知り、神様をほめたたえ、祈りをささげる。その礼拝の心とでもいうものに満たされた私共は、仕える者としてここから歩み出していくのです。私共は、神と人とを愛し、神と人とに仕えるのです。この「仕える」ということが身につかなければ、キリストの愛に生きるということは出来ないのです。私共は仕えられる為に教会に集っているのではないのです。キリストがその命をもって仕えて下さった。このことを心に刻むが故に、互いに仕える者となる為にここに集っているのです。自分が仕える為に出来ることを、具体的にそれぞれがきちんと見つけていただきたいと思います。
さて、結婚生活、夫婦の生活というものは、まさに生活であって、日常のことです。ですから、些細なことで言い合いになることだってあるでしょう。しかし、そのような日常においてこそ仕えるということが試されるのです。ある人が、「結婚は愛の道場である」と言いましたが、そうなのだろうと思います。自らの愛が、仕えるということが、試され、訓練され、清められていくのです。
しかしこのように言われて、私は仕えるし、そうしているつもりだけれど、夫であれ妻であれ、相手はそのことを少しも分かってくれない。そんな思いをもつ方もおられるかもしれません。私の夫は、私の妻は、キリストを知らないから、夫婦というものが仕え合うものだということが分かっていない。そういう思いを持つ方もおられるかもしれません。確かに、このエフェソの信徒への手紙で告げられているのは、キリストの御前にあっての夫婦のあり方です。だったら、夫婦の片方しかキリストを知らなければ、このようにはいかないのではないか。どうすればよいのか。これは現実的な問いです。しかし、ここで31節において、「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」という、創世記の言葉が引用されていることに注目しなければなりません。この言葉は、創世記2章の、エバがアダムのあばら骨から造られたという記事の最後の所に記されている言葉です。アダムとエバというのは人類最初の男性と女性ですから、キリスト者だけの祖先というわけではありません。全ての人類の祖先なのです。ここに結婚の始まりがあると聖書は告げています。結婚はキリスト者にだけあるのではありません。キリストを知っている人も知らない人も結婚するのです。ただ、キリストを知らなければ、この結婚というものが、自分の思いから出たものではなくて神様の御心から出たものであることを知らないということなのでしょう。しかし、知っていようと知っていまいと、そのあるべき姿に変わりはないのです。ですから、夫であれ妻であれ、自分はキリストを知っているけれども相手はそれを知らないという場合も、キリストを知っている私共が相手に仕えるという点においては、少しも変わることはないのです。自分は仕えるけれど相手が仕えないのでは、自分が損をするだけではないか。そんな風に考えてはいけないのです。
32節で「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」とあります。パウロは結婚を語りながら、いつの間にかキリストと教会のことを語っています。それは夫婦というものが、キリストと教会との間にある愛の交わりを映すものであり、キリストと教会との間にある愛が具体的な夫婦という関係において最もはっきりと現れる、実現されるということなのでありましょう。とするならば、キリストは教会を、自分を愛し、自分に仕えるから、これを愛されるのでしょうか。そうではないでしょう。教会は、私共は、いつでも欠けに満ちているのです。キリストを愛し、キリストに仕えることにおいて、いつも欠けがある。そんなことを考えもしないというような時だってある。しかし、キリストは私共を愛してやみません。とするならば、このキリストの愛に生きる私共は、相手が自分に仕えようとしているかどうか、そんなことには関係なく、仕えていかねばならないということなのでありましょう。
愛は仕えることによって具体的になり、仕えることによって伝わっていくものなのです。そして、仕える愛は、実に仕えることによって相手を目覚めさせ、変えていくことが出来る唯一の道なのです。それは、キリストが私共を変えて下さった道と同じです。キリストが私共を愛し、私共に仕え、十字架の死を我が身に受けてくださったが故に、私共は神様の愛を知るものとされたのでしょう。ペトロの手紙一3章1〜2節には「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」とあるとおりです。妻は夫に、夫は妻に仕えることによって、神に仕え、キリストに仕える道を全うするということなのです。
「仕える」ということは、どこかで自分を捨てるということと重なるのだと思います。私共は、捨てたくないから仕えたくないということでもあるでしょう。捨てたくないものとは、自分の考えであったり、生き方であつたり、習慣であったり様々です。私が神学校におりました時、同級生の中に年齢は同じでしたが既に結婚をしていた人がいました。その方の奥様は、結婚した時はこの人が牧師になるなんて思ってもいなかった。でも、結婚して数年して、牧師になると言って勤めを辞めて神学校に来る夫と一緒に東京に来たわけです。この同級生が私にこう言ったことがあります。どういう話しの流れであったのかは忘れましたけれど「自分はこれから牧師になって教会に仕えるけれど、もし妻が、どうしても牧師を辞めてくれと言ったら、自分は牧師を辞める。」と言ったのです。私はそれを聞いて、「牧師になるのは神様の召命があってのことではないか。なのに、どうして辞めるのか。それはおかしい。自分は辞めない。」そう言ったことを覚えています。すると彼は、「君はまだ結婚していないからね。まだ何も分かっていないよ。」と言うのです。そんな風に言われて、頭にきたことを覚えています。それから二人とも牧会に出て、私も結婚しまして10年程経った頃でしょうか。彼と会いました時に、「自分も妻が牧師を辞めてくれと言ったら、やっぱり辞めるよ。」と言いましたら、彼は「やっと分かったか。これで君も牧師でいられる。」と言いました。何か禅問答のようですけれど、仕えるということ、愛するということは、自分の一番大切なものをも捨てうるということなのでしょう。妻にこの話をしましたら、妻は「私が牧師を辞めろなんて言わないと思っているから、そんな風に言えるのでしょ。」とバッサリ切られてしまいました。
33節「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」これが今朝私共に与えられた神様の言葉です。この言葉に導かれて、私共はここから遣わされていくのです。
私共は、今から聖餐に与ります。キリストの命がけの愛を受け取るのです。これを受けた私共は、この愛に応える者として遣わされていくのです。この愛に生きる者、仕える者として遣わされていくのです。弱い私共です。愚かな私共です。聖霊なる神様の守り、支え、導きを、心から願うものです。
[2009年2月1日]
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