富山鹿島町教会

礼拝説教

「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」
申命記 6章4〜9節
エフェソの信徒への手紙 4章1〜6節

小堀 康彦牧師

 アドベント第三の主の日を迎えております。アドベントは、主イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマスを待ち望むと共に、そのキリストが再び来たり給うを待ち望む信仰を整える時です。では、主が再び来たり給うを待ち望みつつ、歩んでいくとはどういうことなのでしょうか。
 今朝与えられております御言葉において、聖書は「神から招かれたのですから、招きにふさわしく歩む」よう勧めております。この、神様に招かれた、召された、だからその招きに、その召しにふさわしく歩む。このことこそ、主を待ち望む私共の歩み方であるに違いありません。神様は天地を造られる前から私共を選び、主イエス・キリストによる救いに与らせる為に私共を招いて下さいました。そして又、その救いの喜びと恵みとを全世界に宣べ伝え、互いに対立しているこの世界にあって和解をもたらす為に、私共を招き、召して下さいました。私共は、神様の救いの御計画の中で、その救いに与り、その救いの御業にお仕えする為に招かれ、召されたのです。私共は、信仰を与えられたばかりの頃は、「自分で選んで、自分の意志でこの教会に来るようになった。」そう思っていたかもしれません。しかし本当のところは、神様によって招かれ、召され、このように集っているのでありましょう。このことに例外はありません。全ての主イエスの弟子はそうなのです。あの主イエスの十二人の弟子たちが召された時と同じであります。彼らも、自分から主イエスを選んで主イエスに従ったのではありません。主イエスによって「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と招かれ、召され、主イエスにお従いする者となったのでしょう。パウロにしても同じことです。主イエスの弟子たちを捕らえる為にダマスコに行く途中で主イエスと出会い、逆に主イエスの福音を宣べ伝える者とされたのです。私共は皆、自分の思いを超えた神様の招きによって、主イエスの弟子とされた者なのです。

 その神様の招きに応えて、それにふさわしく生きるとは、具体的にはどのように生きることなのでしょうか。聖書は、続いてこう告げます。2〜3節「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」ここに記されていることは、特に驚くような、真新しいことではないように思われるかもしれません。確かに、ここに告げられておりますことは、何か特別なことをするようにというようなことではありません。私共が普通の生活をしていく上で、多くの人が当たり前と思っていることでありましょう。しかし、一つ一つ良く考えてみると、どれ一つとっても、それ程簡単なことではありません。この当たり前のことが当たり前に出来ないところに、私共の悲しみがあると言っても良いかもしれません。
 多くの注解者は、この所で勧められていることは、何よりもまず教会においてこのことが為されなければならないことなのだと指摘します。私共は、このことをきちんと受けとめなければならないと思うのです。神様の招きによって教会に集うようになり、キリストの救いに与った私共は、何よりもまずこの教会の交わりの中で、キリストの和解、平和というものを、具体的に現さなければならないということなのです。そのことにおいて、教会はどんな声明文を発表するよりも強力に、説得力をもって、キリストの福音とは何であるかを、この世界に向かって発信することになるからであります。
 私が尊敬し、関西にいた時にお世話になった牧師に、田先生という方がおられます。今は隠退されておられますが、神戸神愛教会を開拓伝道された方です。この先生からいつも聞かされてきたことは、「伝道は鉦や太鼓で人を集めることではない。鐘や太鼓で集まってきた人は、また別の鐘や太鼓で去っていく。特に人を集めようとしなくても、たき火にあたって、楽しくしていれば、人は自然とたき火の周りに集まってくるものだ。」というものでした。たき火というのは、主イエス・キリスト御自身、あるいは神様の愛というものを指しているのでしょう。そして、この「たき火にあたる」ということが、救われた者として「神様の招きにふさわしく歩む」姿を指しているのでしょう。

 今、2〜3節に告げられております言葉を、一つ一つていねいに見ていく時間はありませんけれど、又それ程説明を必要とすることでもないでしょう。ただ、最初に申し上げておかなければならないことは、ここに告げられております一つ一つの言葉の背後には、主イエス・キリストのお姿があるということです。主イエスに倣ってとは記されておりませんけれど、内容とすればそういうことなのです。ここに記されている事柄を、主イエスを抜きに理解しようとすれば、それは的を外してしまうでしょう。一つずつ順に見てまいりましょう。
 最初の「一切高ぶることなく」というのは、口語訳では「できる限り謙虚で」と訳されておりました。この「謙虚」というものが大切であるということは、誰でも知っていることでしょう。しかし、この聖書が記された時代、この「謙虚」という言葉はあまり良い意味では使われていない言葉でした。卑屈な、人にペコペコする、奴隷根性のような意味で用いられていたのです。しかし、神の独り子が人となる、しかも十字架の上で犯罪人の一人として殺されるという出来事によって示された、神様の謙遜、神様のへりくだりにより、私共は謙虚ということの大切さ、美しさを知らされたのでしょう。又、自分が神様に造られ、主イエスによって罪赦された者であることを知った時、私共は最早高ぶることは出来なくなったのでしょう。本当の自分の姿を知り、謙虚にさせられたのです。確かに、人と比べるというところに生きているならば、私共は、自分はなかなか大した者だと思い上がることも出来ましょう。しかし、神様の御前に出る時、私共は偉そうにしていることは出来ません。私共は謙虚になるしかなくなるのであります。神様の招きにふさわしいということの第一に、この謙虚が挙げられていることはもっともなことだと思います。  次に「柔和」です。この柔和というのは、ただ優しいということだけを意味しているのではありません。手綱や命令で動くように訓練されたものという意味がありのです。つまり、神様によって制御された人という意味であります。自分のその時の感情に流され、相手のことも考えず好き勝手なことばかり言ったりしたりすることなく、神様に制御された、抑制の利いた言動をするということなのです。ここで主イエスが山上の説教で語られた「柔和な人々は幸いである。その人達は地を受け継ぐ。」(マタイによる福音書5:5)や、主イエス自身が「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い私に学びなさい。」(マタイによる福音書11:28−29)と言われたことを思い起こします。
 第三に「寛容」です。これは何でも受け入れるというよりも、忍耐するというニュアンスを持つ言葉なのです。ここで、神の忍耐ということを思い起こすことが出来るでしょう。神様はどれ程の寛容、忍耐をもって、神の民を導かれたでしょうか。旧約の歴史を思い起こします。そして、神様はどれ程の寛容、忍耐をもって、私共を救いへと導いて下さったことでしょう。神様がまことに寛容であられたが故に、私共は救われたのです。
 そして、次の「愛をもって互いに忍耐し」です。謙虚であることも柔和であることも寛容であることも、結局のところ、愛をもって互いに忍耐することになるのです。お互いに謙虚であることも柔和であることも寛容であることも忍耐することも、愛がなければ出来ないことですし、愛によらなければ意味のないものなのです。

 この愛による忍耐は何の為であるかといえば、次に「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」と続くように、平和な一致を実現する為なのです。この平和な一致は、霊によります。聖霊により、信仰によるのです。教会という所は、この聖霊の御支配により、信仰を与えられ、互いに平和を実現する為に建てられているのです。それは、互いに争っているよりも、その方が楽しく気持ちが良いからというのではありません。もちろん、平和である方が気持ちが良いのですけれど、何よりも私共を召して下さった神様の恵みというものが、そのことによって明らかになるからなのであります。そしてそれは、私共を召して下さった神様の御心に添うことになるからなのです。教会がバラバラで、とげとげしていて、みんなが言いたいことを言って、互いに傷つけ合っているような教会ならば、神様の栄光を現さず、伝道が進展しないことは、誰が考えても明らかなことでしょう。
 しかし、現実の教会の歴史においては、しばしばそのようなことが起こるのです。パウロが伝道したコリントの教会においてもそのようなことが起きていたことを、私共はコリントの信徒への手紙を読むと分かるのです。悲しいことですが、それが教会の現実なのです。何故なら、教会は未だ完成されていないからです。パウロは、そのことをよく知っておりました。教会という所が、天国ではないことを、パウロは自分の所に報告される教会の状態を聞いて、あるいは直接見て、よくよく知っていたのです。知っていたからこそ、このように平和で一致を保つようにと勧めたのでしょう。教会の一致というものは、時として破られるものです。しかし、だからといって教会というものに失望したり、教会も所詮人間の集まりではないかと諦めてはならないのです。何故なら、教会というものは、そんな単純なものではないからです。教会が人間の集まりに過ぎないのならば、教会は二千年間建ち続けることは出来なかったでしょうし、世界中に広がっていくこともなかったでしょう。パウロはここで教会に対して、キリスト者の交わりに対して、全く失望していないのです。それは、彼が教会というものが何であるかを本当に分かっていたからであります。人間の罪は、いつも人間を高慢にします。好き勝手なことを言わせ、行わせ、忍耐もせず、相手を生かそうともせず、互いに傷つけ、交わりをバラバラにします。しかし、私共は神様に召され、互いに愛し合い、忍耐し合い、謙虚になって、信仰の一致を保つ者とされたのです。神様の愛を証しする者として召され、立てられたのです。神様がその為に私共を召して下さった以上、神様はその意志を遂行する為に、その全能の力を私共の上に注いで下さるでしょう。私共はそのことを信じて良いのです。パウロが教会やキリスト者に期待し続けることが出来たわけは、教会やキリスト者という存在の根拠が、神様にあるからです。神様が召し、神様が立て、神様が御臨在される交わりだからです。私共は、自分に対して諦めることもないのです。私共はキリスト者なのです。「キリスト者」それはキリストのものです。私共はキリストのものとされているのです。私はキリスト者だと言うとき、私共は驚いて良いのです。私という人間の上に、キリストの御名が冠せられているのです。私共は神様によって、キリストの愛に生きる為に選ばれ、招かれ、召された者なのです。ですから、神様がそれにふさわしい者に変えていって下さるのです。

 パウロはその根拠を、4〜6節で、「一つ」という言葉を七回繰り返して使うことによって宣言いたしました。これは宣言です。こうであれば良いのにとか、このようにありましょうというようなことではないのです。これは、神様の御心の中で既にそうなっている、神様の救いの現実です。パウロはこう宣言するのです。4〜5節「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」キリストの体であるキリストの教会は一つしかありません。聖霊も一つ、神の霊・キリストの霊は一つです。そして、私共の希望も一つなのです。個人的な目先の希望はいろいろあるでしょう。しかし、私共の最も大切な、根源的な、これによって生かされ、これに向かって生きている希望、それは一つです。罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命という、神の国における救いの完成です。私共の主人は、ただ主イエス・キリストだけです。私共の信仰も一つです。信仰はいろいろあるのではありません。信仰の表現としてはいろいろあるでしょう。しかし、神の独り子にして、まことの人である主イエス・キリストを信じる。この方の十字架によって救われ、復活によって永遠の命への道を拓かれた。この方を信頼し、自分のただ一人の主人とする。この信仰は一つしかないのです。その信仰によって授けられる洗礼も一つです。キリストの体である教会につながり、神の民の一人に加えられ、罪の赦しを受ける洗礼は、一つしかありません。父と子と聖霊の御名によって授けられる洗礼は、それ故、世界中どの教会で受けても、もう一度やり直すということはないのです。この一つの洗礼により、一つの体に結ばれ、一つの聖霊によって、一つの信仰を与えられ、ただ一人の主人を信じ、同じ一つの希望に生きているのが私共なのです。そうである以上、多少のゴタゴタがあったとしても、それはこの神様によって与えられた信仰による平和と一致を、根本から崩すことが出来るようなものではないのです。
 そして最後にパウロは、6節において、私共の全ての歩みを御支配し、包み、貫いているのは神様御自身であることを、高らかに宣言するのです。6節「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」この唯一の父なる神様の御支配のもと、生かされているのが私共なのです。この神様によって招かれ、召されたのが私共です。ですから、安心して、失望することなく、自分を召して下さった神様の御心に従い、互いに愛し合い、忍耐し、平和と一致を保つ為に歩んでまいりましょう。このアドベントの時、主イエス・キリストが私共の為に来て下さったことを心から喜び祝い、この喜びに一人でも多くの人を招いてまいりましょう。精一杯、楽しく、たき火にあたりましょう。 

[2008年12月14日]

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