ハイデルベルク信仰問答、問3〜5をお読みします。
「ハイデルベルク信仰問答」 吉田隆訳 (新教新書252 新教出版社)
第二主日
問3 何によって、あなたは自分の悲惨に気づきますか。
答 神の律法によってです。
問4 神の律法は、わたしたちに何を求めていますか。
答 それについてキリストは、マタイによる福音書二二章で次のように要約して教えておられます。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし(、力を尽くし)て、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。
答 できません。なぜなら、わたしは神と隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。
今日の礼拝は、北陸連合長老会の交換講壇として守られております。説教は、聖書箇所はそれぞれ違いますがハイデルベルク信仰問答の第二主日の所、問3〜5を用いて行うことになっております。ハイデルベルク信仰問答は、第一部において「人間の惨めさ」、それは罪の惨めさ、罪の悲惨さでありますが、そのことを告げて、第二部においてその罪からの救い、「人間の救いについて」を語るという構造になっております。人間、自分の罪を知ればそれからの救いを求めざるを得ない。その救いは、主イエス・キリストによる。そして、私共はそのイエス・キリストとは信仰によって結ばれるのであり、その信仰とは使徒信条に言い表されている信仰であると言って、使徒信条の各項目について語っていくのです。
さて、この「自分の罪を知る」ということでありますが、私は伝道者として歩みながら思わされますことは、これがなかなか容易なことではないということです。自分は罪人である。このことを認めるということは、そう簡単に起きないのです。私は、これは聖霊の業だと思っています。神様が働いて下さらなければ起き得ない。まさに奇跡とでも言うべきことだと思っております。
確かに、「あなたは責められる所が一つもない善人か。」と問われるならば、誰でも「そんなことはありません。」そう答えます。しかし、だからといって、自らの罪を認めているというわけではないのです。「完璧な善人とは言わないけれど、それほどの悪人でもない。どちらかと言えば良い方ではないか。」そう思っているのです。これは他人と比べてどうだという見方ですね。私共は、この他人と比べて自分を見るという所から、なかなか抜け出せないのです。そして、この他人と比べてという所に立つ限り、実は自分の罪というものを知り、それからの救いを求めるということは起き得ないのです。私共はこのことを良く知っておかなければなりません。
こう言っても良いでしょう。人は様々な経験をします。良いことも悪いことも経験する。その経験から、自分が罪人であるということを知るようになるかと言えば、なかなかそうはならない。明らかに自分が悪くて、悲惨な現実が生じたとしても、「あれは仕方がなかったのだ。」あるいは、「自分も悪かったが、相手も悪かった。」はなはだしい場合は、「たまたま、こういう結果になってしまっただけで、運が悪かった。」そんな風に考えるわけです。
自分の罪を決して認めようとしない頑なさが私共の中にはあるのです。この頑なさから、私共も完全に自由にされているわけではないと思います。この頑なさが、ひょいひょいと頭をもたげてくる。そういう所が私共の中にはあるのです。そういう私共に向かって、ハイデルベルク信仰問答は、問3「何によって、あなたは自分の悲惨に気づきますか。」答「神の律法によってです。」と告げるのです。ここで私共は、神の言葉の前に、神様の御前に引き出されるのです。この神様の御前に引き出されることによって、一切の言い訳を封じられるのです。あの時は仕方がなかった。相手も悪かった。運が悪かった。そんな言い訳は通用しない。あなたは罪を犯したのか、犯していないのか、どっちだ。中間はないのです。そういう厳しい所に立たされるのです。それはちょうど、裁判の場に立たされるようなものです。有罪か無罪かしかないのです。その基準は神の言葉としての律法であり、その審判を下すのは神様なのです。私共の罪というものは、自分がどう感じるかというような問題ではないのです。有罪か無罪かということなのです。そして、有罪ということならば、それは罪の大小に関わらず死があるだけなのです。ローマの信徒への手紙6章23節「罪が支払う報酬は死です。」とある通りです。
では神の律法は私共に何を求めるのでしょうか。律法で思い出すのは十戒でしょう。この十戒に律法の原点があると言って良いと思いますが、この十戒は更にまとめると、二つの戒に要約されます。それが、神を愛することと、隣り人を愛することです。十戒の前半が告げているのが神を愛することであり、後半において告げられているのが隣り人を愛することです。後半の、父と母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな等は、改めて十戒で示されなくても分かっていることかもしれません。そして、これを字面だけで受け取るならば、「自分は殺したことはないし、盗んだこともない。」と言えるかもしれません。しかし、これが示していることは、主イエスが山上の説教において、「殺すな」ということは兄弟に腹を立てること、兄弟に「バカ」と言うことまで含んでいるとするならば、又、「姦淫するな」という戒が、淫らな思いで女性を見ることまで含んでいるとするならば、誰も自分はこの戒めを完全に守っているとは言えなくなるだろうと思います。まして、前半の神様を愛するということは、神様の御前に生きることを知らなかった私共には、思いもよらないことでありました。生まれた時から偶像に囲まれて生きてきた私共にとりまして、ただ一人の神様だけを神様として拝むなどということは、考えたこともなかったはずです。
ですから、この律法に示されている基準に照らすならば、私共は間違いなく罪人ということになるのです。言い訳の余地はありません。更に問題なのは、私共には正しいこと、善いことを行いたいと思っても、それを実行する力がないということなのです。正しい人として生きたい。善い人として生きていきたい。たとえそう思っても、それをする力が自分の中にはないということです。パウロは、7章15節「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」と言い、7章18〜19節で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」と言っています。このパウロの言葉に、私共は共感するだろうと思います。意志はあるのです。善いことをしよう、正しく生きようという思いはあるのです。しかし、それを実際に行う力が私共の中にないのです。ですから、言ってはならないことを口走り、してはならないことをしてしまうのです。そして、しなければならないと思っていることも出来ないでいるのです。
パウロは、この7章7〜25節において、実に特徴的な語り方をしています。それは「わたし」という言い方で語っているということです。13節以下を見るだけでも、17箇所に及びます。パウロは客観的に罪を語っているのではないのです。いや、罪というものは、自分のこととして語る以外に語りようがないのであります。他人事に罪を語るということは、自分にはその罪は関係ないということであり、そこには悔い改めなど起きようがないのです。このパウロがうめいている、どうしようもない罪の現実。それは同時に私共の現実でもあるのでしょう。
そのことをハイデルベルク信仰問答は、問5の答で「できません。なぜなら、わたしは神と隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」と言っています。大変厳しい言い方です。例外なく、人間には神を愛し、人を愛する力がない。それが私共なのだと告げるのです。「生まれつき、神と隣り人を憎む傾向にある。」これをキリスト教では「原罪」と言います。
さて、ここまで申してきまして思いますことは、ここまで言われて、人は本当に納得して自分の罪を認めるかということです。何か振り出しに戻ってしまったようですが、私はここまで言われても、人は納得して自分の罪を認めるということはないのではないかと思うのです。「みんな同じじゃないか。」あるいは、「そんなことを言うお前はどうなのだ。」「うるさい。大きなお世話だ。」そんな風に、開き直ってしまうのではないかと思うのです。私共の頑なさというものは、そんなに簡単ではないです。だから伝道は難しい。
私は、この罪を認めない人間の頑なさというものを思うと、いつもある牧師が話してくれたことを思い出すのです。私は富山に来る前に、17年程京都の舞鶴にある教会にいたのですが、その間10年以上、毎月一回京都まで行きまして、数人の牧師たちと牧師の勉強会をしておりました。その中の一人の方は、お父さんも牧師なのですが、そのお父さんの牧師が、「最近の牧師はちっとも裁きを語らない。もっとはっきりと罪を語り、罪は裁かれなければならないということを説教しなければいかん。」そう言われるのだそうです。これも一理あると思います。老齢の牧師から見ると、私共の説教は甘すぎるということなのでしょうか。確かに、裁きは明確に告げなければなりません。裁きがなければ救いもなくなってしまうからです。私共が救われるというのは、裁きによる滅びから救われるということでしょう。裁きがなければ救いもないのです。しかし、この息子の牧師はこう言うのです。「オヤジは裁きを語れと言うけれど、裁きを語れば人は自分の罪を認めて悔い改めるのか。そんなことはないだろう。人が自らの罪を認めるというのは、自分が本当に赦されている、救われている、そのことが分かって初めて起きることではないのか。だから、自分は罪の赦しの福音を語るのだ。それ以外に悔い改めは起きないからだ。」なるほどと思いました。
パウロは、このローマの信徒への手紙7章において、本当に深刻に自分の罪を見つめ、悩んでいます。私共もその苦しみに共感します。善を為したい。神様の御心に従って生きたい。しかし、それが出来ない。この現実の中で、パウロはついに24節において、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と告白するのです。パウロは深い罪の自覚の闇に落ちこんでいるように見えます。ところがです。パウロはこの告白をしてすぐに、25節において「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と言うのです。何ということでしょう。24節の暗さと、一転した25節の明るさは、どうつながるのでしょうか。
私はこう思うのです。パウロは25節の明るさ、主イエス・キリストの救いにすでに与っている。だから、ここまで徹底して自分の罪を見据えることが出来たということなのではないか。パウロが主イエスに出会う前、彼はファリサイ派の人間でした。自分は律法を守っている。だから自分は正しい人間である。そう思っていたに違いないのです。ファリサイ派の人々は、律法を守れない人を見下していましたし、異邦人などというもの(私共も異邦人ですが)は、救いから遠く離れた汚れた者だと思っていた。ちっとも自分を愛するように隣り人を愛していたわけではない。挙げ句の果てには、キリスト者を迫害までしていたのです。しかし、当時の彼は、自分は罪人であるとは思っていなかったのです。彼はファリサイ派の人間ですから、律法は知っていたのです。しかし、それにもかかわらず、彼は自分は正しいと思っていたのです。自らの罪を認めようとしない頑なさが、その頃のパウロをも覆っていたのです。しかし、彼は復活の主イエスに出会いました。そして、自分が迫害していたイエス・キリストの弟子たちこそ、まことの信仰を与えられた者であり、主イエス・キリストこそメシア、救い主であり、まことの神であることを知らされたのです。そして同時に、彼はその主イエス・キリストの十字架と復活の御業により、自分が神様から愛されており、すでに赦され、神の子たる身分を受けた者であることを知らされたのです。そのことを知った時、神様の赦しの中に身を置いた時、彼はもう「自分は正しい」という鎧を着けて自分を守る必要がなくなったのです。自分の罪も弱さも愚かさも、ありのまま正直に認めることが出来たのです。ハイデルベルク信仰問答が、「生まれつき心が傾いているからです」という言い方で、徹底して自分の罪を認めているのも、同じことなのです。愛されているのです。赦されているのです。だから、自らの罪を認めることが出来るのです。
それはちょうど、愛され、赦されることを知っている子が、自分の失敗を正直に親に言えるのと同じです。もし、こんなことをした自分を親は赦してくれないと思ったら、子どもは親に正直に話すことは出来ないし、何とかして隠し、ごまかそうとするのではないでしょうか。仕方がなかった、相手が悪い、運が悪かったという言い訳は、そういうことなのだと思うのです。
私が洗礼を受けたのは20歳の時ですが、あの時私は、15節でパウロが語るような状態でした。何という人間かと自分で思いました。友人にも相談しましたが、友人の答えは「気にすることはない。皆、同じだよ。」というものでした。しかし、私は教会に通い始めて一年半程経った頃で、主の日の礼拝において、「あなたの罪は、主イエスが十字架の上であなたに代わって裁きを受けたが故に、すでに赦されている。」との福音に出会ったのです。私は、この福音によって、自分は大して悪くない、皆と同じだ、気にすることはない、そんなごまかしによる鎧を身に着けなくてよい者とされたのです。神様に赦しを求め、悔いて涙しました。しかし、その涙は苦しい涙でありましたが、私を変える涙でありました。神様の御前に生きるという新しい歩みが、あの時から始まったのです。
ハイデルベルク信仰問答は、問4において、律法を十戒や旧約の言葉ではなく、主イエス・キリストの言葉として記しました。それは、律法という罪に定める基準を与えることが出来た方が、その罪を赦すことも出来る権威を持っているのであり、その方こそ主イエス・キリストであることを示そうとしているのでありましょう。
私共は、主イエス・キリストの赦し、愛、救いの中に招かれています。だから安心して自らの罪を認め、心から悔い改め、新しくそして自由に神様の御前を歩んでまいりたいと思うのであります。
[2008年9月14日夕礼拝]
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