富山鹿島町教会

礼拝説教

「昇天、祝福の別れ」
レビ記 9章22〜24節
ルカによる福音書 24章50〜53節
使徒言行録 1章3〜11節

小堀 康彦牧師

 今日でルカによる福音書が終わります。2004年の4月にこの教会に赴任して、その年の11月から始まりましたルカによる福音書の連続講解説教でした。途中に創世記が入りましたので足かけ4年、実質3年にわたって続けられたルカによる福音書の連続講解説教が今日で終わります。皆さんとこのようにルカによる福音書を読み進めることはもうないかと思いますと、これで終わるのが惜しいような、もう少し戻って語りたいような思いにも駆られます。主イエスの御言葉、御業、お姿を心に刻みながら歩んできた4年間でありました。その最後に、今朝私共に告げられております御言葉は、主イエスの祝福です。
 50〜51節「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」とあります。天に上げられる主イエスは、弟子達を祝福し、祝福しながら天に上げられていかれた。そうルカによる福音書は記すのです。ルカによる福音書が記す地上の最後の主イエスの姿は、弟子達を祝福される方なのです。
 主イエスは十字架にかかり、三日目によみがえられました。そして、天に昇られた。ルカによる福音書は、この主イエスの昇天の出来事を、主イエスの御復活の出来事とひとつながりに記しています。読み方によっては、24章の最初から記されております復活の出来事に続いて、まるでその日に起きたことのようにも読めます。しかし、ルカによる福音書の続編、第二巻とも言うべき使徒言行録の冒頭に、その時のあり様はもっと丁寧に、詳しく記されております。それによりますならば、主イエスが天に上げられたのは、復活されて後40日経ってのことでありました。ルカは次に使徒言行録を記すということを前提として、ルカによる福音書を記したのだと思います。ですから、主イエスの昇天の記事は、次の使徒言行録への「つなぎ」のようなつもりで記したのではないかと思うのです。地上での主イエスの歩みは、この昇天によって終わる。そして、天に上げられた主イエスによって注がれる聖霊の働きが、次の使徒言行録に記される。そういう構想の中で、ルカは福音書を記し、次の使徒言行録を記したのだろうと思うのです。「つなぎ」ですから、このルカによる福音書においては、それ程詳しい記述がなされてはいません。詳しい記述は、次の使徒言行録をどうぞ、ということになっているわけです。
 しかし、この大変短い主イエスの昇天の記事の中に、ルカは大変重大なメッセージ、まさに主イエスの地上での歩みを締めくくるにふさわしいメッセージを与えてくれました。それが主イエスの祝福です。主イエスは「手を上げて祝福」し、「祝福しながら」天に上げられたのです。この様子は、まさに主イエスというお方は私共に祝福を与える方であり、その祝福はいつまでも私共の上に注がれていることを示しているのでありましょう。祝福。これこそ私共が主イエスを信じ、主イエスと共に生き始めた時、私共を包み、私共の全ての歩みを根本から支える力そのものなのであります。

 ここで少し、祝福ということについて考えてみましょう。私はキリスト者になってからも随分長い間、祝福ということが分かりませんでした。祝福という言葉は、聖書を読みながらどうしてもピンとこない言葉の一つでした。ところが不思議なことに、「呪い」という言葉は分かるのです。祝福と呪い。これは正反対の言葉です。呪いが分かるなら祝福も分かりそうなものですが、なかなかそうはいかない。どうしてそういうことになるのか。少し考えてみますと、「呪い」という言葉は通常の日本語の中で生きている、使われていることが判ります。例えば「呪いの館」とか、「呪いのワラ人形」とか、「呪われた一族」とかいう風にです。ところが、「祝福の館」なんて聞いたことがありません。祝福という言葉は、日常の日本語としてはほとんど使われていないのです。だから分からない。ピンと来ない。しかし、どうしてこういうことになるのか。私は、ここには日本の宗教土壌が深く関係しているのだと思っています。日本の宗教の根本にあるのは祟りだと言われます。この祟りを鎮める為に神社仏閣が造られた。代表的なのは、菅原道真の祟りを鎮める為に造られた天満宮です。祟りや呪いを恐れる。それが強烈にあるわけです。そこに宗教が関わる。それは現代においてもそうでしょう。何か不幸なことが家の中で続く。そうすると、いつもは信仰なんて考えたこともないような人が、お祓いをしてもらった方が良いのではないかと言い出す。実に呪いや祟りについてはリアリティーがあるのです。日本の神様は祟る神様だからです。しかし、祝福にはリアリティーがない。しかし、そういう私共に向かって、主イエスは祝福を与えられる。聖書の神様は、祟る神、呪う神ではなく、祝福される神なのです。この祝福というのは、神様の恵み、賜物、守り、支え、導き等々です。この主イエスの祝福が私共を取り囲み、一切の呪いや祟りなどというものから私共を守って下さるのです。呪いや祟りに対する恐れを打ち破り、喜びと平安で満たして下さるのです。主イエスは、実に私共に祝福を与える方として来られたのです。私は最近は、逆に呪いや祟りというものが判らなくなりました。リアリティーがない。そんなことを言う人に出会いますと、鼻で笑ってしまう。私たちは主イエスの圧倒的祝福の中に置かれているのであって、最早、呪いも祟りも私共には指一本触れることが出来ないのです。

 この祝福という言葉は、元々ギリシャ語では「良い」という言葉と「語る」という言葉がつながったもので、「良い言葉を語る」という意味の言葉なのです。この言葉は、今朝与えられている御言葉においては3回使われています。50節「手を上げて祝福された」、51節「祝福しながら」、そして52節「神をほめたたえていた」です。この「ほめたたえていた」と訳されているのは、祝福するという言葉と同じ言葉なのです。日本語に訳す時に、「神を祝福していた」では少し変なので、「神をほめたたえていた」と訳しているのです。元々は「良い言葉を語る」という意味ですから、イエス様や神様が私共に向かって良い言葉を言われたならば「祝福」となり、私共が神様やイエス様に向かって良い言葉を言うのならば「ほめたたえる」ということになるのです。
 ここで大切なことは、主イエスの祝福に与った弟子たちは、神様をほめたたえる者になったということなのです。主イエスの良い言葉が、弟子たちの中に良い言葉を生んだのです。主イエスの祝福が、弟子たちに神様をほめたたえさせたということであります。ここに主イエスの祝福を受けた者の新しい歩み、新しいあり様が示されています。主イエスの良い言葉、祝福、それは福音の言葉と言い換えても良いでしょう。この福音に与る者の口には、同じように良い言葉が生まれるということです。その言葉が神様に向かえば「ほめたたえる」ということになります。この良い言葉を言うというのは、何も神様に向かってだけなされるものではないでしょう。この良い言葉が人に向かえば、祝福を告げるということになるのであります。キリスト者として生きるということは、主イエスの与える祝福の中に生きるということであり、それは神様をほめたたえ、人を祝福する者として生きるということなのであります。
 人を祝福することなど出来るのだろうか。それは神様やイエス様にしか出来ないのではないか。そんな力や権威は自分にはない。そう思う人もおられるかもしれません。しかし、主イエスが弟子たちを遣わされた時に何と言われたかを思い出しましょう。ルカによる福音書10章5節で、主イエスは72人の弟子を遣わされた時、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」と弟子たちに命じられました。この平和を告げる、平安を祈る、それが私共に命ぜられていたことでした。それこそ、祝福を告げるということでしょう。
 ここで問われるのは、私共が語る言葉です。私共は、人を恐れさせ、不安にさせ、意気消沈させる言葉を語るのではないのです。私共は、人を元気にし、喜びを与え、平安を与える言葉を告げる者として召されているということです。そう言われても、私共にはそんなことはなかなか出来ないのではないか。しかしたとえ出来ないなりに、その為に一生懸命頑張りましょう。そういうことではないのです。確かに言葉というものは、心にあるものが口から出て来るのです。ですから、私共の心が良き言葉に支配されるということになりませんと、心が変わりませんとなかなかそうはいかないのです。逆に言えば、私共の心がこの主の祝福に支配されるならば、私共の口からは自然と良き言葉が出て来ることになるということなのです。
 では、その鍵はどこにあるのか。それは、この主の日の礼拝にあるのです。私共はこの主の日の礼拝のたびごとに、神様の祝福を受けます。それは何も、礼拝の最後になされる祝福だけを指しているのではありません。この礼拝の始めから終わりまで、私共は良い言葉を告げられ、良い言葉を語っています。主の祝福の言葉を受け、主をほめたたえている。この礼拝の中で、私共の心は良い言葉に支配されているのでしょう。この礼拝の中で、私共は悪い言葉に出会うことはありません。人を呪い、おとしめ、不安にさせ、やる気をなくさせる言葉は、この礼拝の中のどこにも出て来ないのです。当たり前と言えば、当たり前のことです。この礼拝の心が、私共の日々の生活の心となる時、私共の口から出る言葉が変えられていくことになるということなのです。私は、この良き言葉に支配された交わりとして、教会があるのだと思っています。教会という所は、ここにしかない、穏やかな空気が流れているのです。長くいると当たり前になって気が付かなくなってしまうのですが、教会の空気は特別です。それは、主の祝福、良き言葉に支配されている所だからです。教会に来ると、不安や恐れが薄らいでいく気がする。そんな言葉を聞くことがあります。それは決して気のせいではないのです。それは、この教会を支配している主イエスの祝福の力によるのです。

 主イエスが天に上げられた時、主イエスは弟子たちを祝福されました。そこで何が起きたでしょうか。52節「彼らはイエスを伏し拝んだ」とあります。この「伏し拝んだ」という元の言葉は、厳密に「神様を拝む」という時にしか用いられない言葉です。主イエスが十字架にかかり、三日目に復活した時、まだ弟子たちは主イエスを神様として拝むに至っていませんでした。しかし、主イエスが天に上げられる時、弟子たちははっきりと主イエスを神様として拝んだのです。主イエスを神様として礼拝したのです。彼らは「大喜びでエルサレムに帰り」ました。そして、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のです。弟子たちは恐れていたのでしょう。自分たちが慕い、従ってきた主イエスが十字架にかけられて殺されてしまい、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れていたのでしょう。しかし、天に上げられる主イエスが弟子たちに与えた祝福は、弟子たちに大きな喜びを与え、その恐れを打ち破ったのです。だから、彼らは堂々と神殿に行き、神様をほめたたえたのです。
ここで私共は、このルカによる福音書の冒頭の所を思い起こします。この福音書の最初に出て来る場所は、この福音書の最後の場面となった同じ神殿です。洗礼者ヨハネの父、祭司ザカリアが、高齢になった妻エリサベトが子を産むとの天使ガブリエルの言葉を神殿で受けるのです。しかし、彼はそれを信じることが出来ず、口が利けなくなってしまいました。そして、エリサベトが子を産むと、ザカリアは口が利けるようになり、神様をほめたたえたのです。信じない故に口が利けなくなったザカリアの口が、神様をほめたたえる者として開かれた。この出来事は、洗礼者ヨハネの父という特別な者に起きたことでした。しかし、この主イエスの昇天によって、洗礼者ヨハネの父に起きたことが、全ての主イエスの弟子に起きたのです。ルカは、最初と最後に同じ出来事を記すことにより、全巻を通じてこのことを語ろうとしていることを示したのです。それは、神様の祝福を受けて神様を誉め讃える者に変えられるということです。
 また次には、主イエスがお生まれになった時のことが記されていました。その時、羊飼いたちに天使が告げた言葉はこうでした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(ルカによる福音書2章10〜11節)この羊飼いたちに告げられた「大きな喜び」が、まさに主イエスの昇天の時に弟子たちに与えられた祝福によって現実となったのです。大きな喜びとは、どんな不安や恐れや悲しみをも打ち破る喜びです。小さな喜びは、目の前の不安や恐れにかき消されてしまうでしょう。しかし、主イエスが与える祝福、それに伴う「大きな喜び」は、どんな恐れをも打ち破るのです。
 私共も今、ここに集い、主イエスを拝み、神様をほめたたえています。それは、既にこの時の弟子たちと同じように、主イエスの祝福に与っているからなのです。主イエスの祝福。それは、主イエスが与えて下さる赦しであり、永遠の命の希望であり、主がどんな時も共にいて下さるという恵みの現実であり、私共を捉えて離さない神様の愛であります。この主イエスが与えて下さっている祝福を破ることは誰にも出来ません。使徒パウロは、この祝福の力に与っている幸いをこう語りました。ローマの信徒への手紙8章38〜39節「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 私共は主イエスの祝福を受けた者です。主イエスの祝福の中に生かされている者です。どんな呪いも祟りも、私共には何の力も持つことは出来ません。安心して良いのです。その安心の中で、良き言葉を互いに交わしながら、この一週の歩みをなしてまいりましょう。

[2008年8月31日]

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