富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの証人として」
イザヤ書 64章1〜4節
ルカによる福音書 24章36〜49節

小堀 康彦牧師

 週報にありますように、H・S姉が一昨日川崎市の娘さんのお宅で天に召されました。葬式はそのお宅で明日の朝9時から藤掛順一牧師の司式により行われます。残念ながら私共は出席出来ません。後日、富山においてお別れの会のようなものを行いたいと、ご遺族の方から言われております。教会からは弔電を打ちました。その中で、「H姉は、やがて時が来ればよみがえり、主をほめたたえ、共々に相見えることを信じます。」と打ちました。主イエスが再び来たり給う時、私共は主イエスの復活の命に与る者として、共々によみがえるのです。罪赦された者として、主イエスに似た者として、新しく創造されるのです。そのあり様を、私共は絵に描くように思い描くことは出来ません。どんな体で、どんな風によみがえるのか、それはよく分かりません。しかし、主イエスが復活されたように復活する。そのことを私共は信じております。主イエスの御復活は、ただ主イエスお一人のことではないのです。この主イエスの御復活に、私共の命が、私共の死を超えた命がかかっているのです。主イエスが復活されなかったならば、私共の命も又、この肉体の死と共に終わってしまうのです。しかし、主イエスは御復活されました。それ故、その主イエスと結ばれ、一つとされた私共は、よみがえりの命に与るのです。これは信ずべきことです。頭の中で理解することではありません。理解を超えていることだからです。
 主イエスの御復活は、体のよみがえりでありました。しかしそれは、肉体の蘇生ということではありません。もちろん幽霊でもありません。この体のよみがえりというのは、主イエスという人格、弟子たちと共に歩み、教えを与えられた、あの主イエスがよみがえられたということなのです。私共のよみがえりというものも、それが主イエスの御復活にならって与えられるものであるのならば、やはり人格をもって、この私がよみがえるということになるのです。もちろん、一切の罪をぬぐわれた新しい私であるには違いありません。しかし、それはあくまでも私なのです。全くの別人として、今の私と何の関係もない者がよみがえるのではないのです。この私がよみがえるのです。その私は、この地上の生涯を歩んできた私です。ただ、キリストのように愛し、キリストのように神に従い、キリストのように仕えることが出来る者として、よみがえるのです。

 今朝与えられている主イエスの御復活の御言葉は、このことを私共にはっきりと示しております。36節「こういうことを話していると」とあります。エマオに向かって歩んでいた二人の弟子に復活の主イエスが現れ、彼らはその出来事を知らせる為にエルサレムに戻りました。そして他の主イエスの弟子たちの所に行ったのです。すると、主イエスが復活してシモン・ペトロに現れたということを話していました。互いに復活の主イエスに出会ったことを話し合ったのです。これは、主イエスが復活された日の夜のことでありました。ルカによる福音書は、主イエスが復活された朝の出来事として、主イエスの女性の弟子たちが主イエスの墓に行き、空の墓を見、天使によって主イエスが復活されたことを告げられたことを記します。そして昼、エマオへの途上で二人の弟子に復活の主が現れたことを記し、夜、弟子たちが集まっていると復活の主イエスがその御姿を現されたことを記しているのです。復活の主イエスは、誰か一人に一度だけ現れたということではないのです。弟子たちが集まっている所に現れた。しかも何度も現れたのです。それは、主イエスのご復活が、本当に確かなこととして起こったことを聖書は告げているのであります。
 この時の主イエスの現れ方は不思議でした。弟子たちが、復活の主イエスに出会った弟子たちの話を聞き、それについて話をしている。するといきなり復活の主イエスが現れ、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。」と告げられたというのです。いったいどこから、いつこの部屋に入って来たのか分からない。弟子たちはびっくりして、恐ろしくなり、これは主イエスの亡霊だと思った。私は、この復活の主の現れ方は、まさに主イエスが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)と言われたことの成就なのだと思うのですが、弟子たちはそんな主イエスの言葉を思い出しもしません。そして亡霊だと思って恐れおののいたのです。これは、とてもおもしろいことです。何故なら、この時弟子たちは、復活の主イエスと出会ったという報告を聞いていたのです。それについて話し合っていたのです。ところが、実際に復活の主が現れると、亡霊だと思って恐れおののいてしまう。復活された主イエスだとは思わなかったのです。主イエスの復活の報告を聞きながら、それについて話しておりながら、実際に復活の主イエスに出会うと幽霊だと思ってしまう。これは、私共がいかに復活というものを信じられないか、そのことをはっきり示しているのではないでしょうか。復活を信じられない人でも、お化けや幽霊の話なら簡単に信じます。いつの時代、どの国でも同じです。毎年夏になると、幽霊話がテレビで流され、映画も出来、多くの人が見る。しかし、復活は信じない。幽霊の話は気楽なのです。キャー怖いと言って終わり。その時だけの話です。しかし、主イエスの御復活は私共の命の根本が変えられることになる出来事です。これを信じたら、私共の生き方が根本から変えられる、そういうことになるのです。
 復活の主イエスは弟子たちに告げます。38〜39節「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』」復活の主イエスを目の前にしてもまだ信じられない弟子たちに向かって、何とかして信じさせようとする主イエスの言葉です。亡霊には肉も骨もない。しかし、わたしにはある。触ってみなさいとまで言われるのです。何としても信じる者にしようとされる主イエスのお心がここにはあります。更に主イエスは、なおも信じられない弟子たちに向かって、「何か食べ物はあるか。」と言われ、焼いた魚を弟子たちの前で食べられたのです。幽霊は食事はしません。自分は幽霊なんかではないということを、これでもかと示されたのです。どうして主イエスは、これほどまでに、何としてもご自身の復活を信じる者にさせようとされたのでしょうか。どうして幽霊ではダメなのか。それは、幽霊は死に勝利していないからです。幽霊は死の支配の中にあるからです。復活は死を打ち破った命なのです。ですから、幽霊はウラメシヤであり、復活はハレルヤなのです。
 復活ということはまことに信じ難いのです。しかし、主イエスはその信じない者も信じる者にしてくださるのです。信仰とは与えられるものであるというのはそういうことです。私共の内面から自然に信仰というものは湧き上がってくるということではないのです。私共の内にあるのは、信じられないという頑なさなのです。しかし、その信じられない私共を何とか信じる者にしようと、主イエスは心を砕き、働きかけて下さるのです。この主イエスの働きかけによって信じる者とされたのが私共なのでしょう。45節には「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、」とあります。聖書が分からない弟子達の心の目を開いて、聖書が分かるように、主イエスがして下さるのです。ですから私共には、自分は信心深いなどといって誇るべきものは何もないのです。

 ここで主イエスは「わたしの手や足を見なさい。」と言われました。そして40節「こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」ここで主イエスが弟子たちに見せた手と足には何があったでしょうか。十字架にかけられた傷があったに違いありません。主イエスはここで単に、自分には手も足もあるから幽霊ではないと言われただけではなくて、「わたしは、あの十字架にかかって死んだ、あのイエスなのだ。」そう言われているのでありましょう。39節で「まさしくわたしだ。」と言われているのは、そういうことであります。わたしは、あなたがたが知っている、あのイエスだ。そう言われたのです。多分、魚を食べられたのもそういうことでしょう。主イエスと共に旅をしていた弟子たちは、この魚を食べる主イエスの姿によって、あの一緒に旅をした主イエスと、目の前にいる復活の主イエスが結びついたのだと思うのです。
 復活の主イエスは、十字架の上で死ぬ前の主イエスとつながっているのです。別人になったのではないのです。あの主イエスが復活されたのです。だから、私共も「この私」が復活するのです。
 41節を見ますと、「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」とあります。おもしろい表現です。愛する主イエスが復活されて目の前にいる。何という喜び、何という幸い、でも不思議だ、信じられないというのです。私は説教の備えをしながら、この表現が何を意味しているのか良く判りませんでした。喜んでいるのならば、既に信じていたはずではないのか、そう思ったのです。どうして喜んでいるのに信じられないということになるのか。しかし思いを巡らす中で、この戸惑いはきっと、主イエスが再び来られ、私共がよみがえった時の私共の思いを先取りしているのではないか、そう思ったのです。私は、自分が復活した時、溢れる喜びと幸いに包まれながら、よみがえった自分の体を見て、きっと「不思議だ、信じられない」、そう口走るのではないかと思うのです。共々によみがえった愛する者たちと顔を合わせ、喜びに溢れながら、「不思議だ、信じられない。」そう思うのではないでしょうか。その意味でも、主イエスの御復活の出来事は、まさに私共の復活の先取り、初穂なのでありましょう。

 主イエスは弟子たちに御自分の手と足をお見せになり、魚を食べ、そして聖書の説き明かしをされました。これはエマオ途上で復活の主イエスが為されたことと同じです。食事と説き明かしです。
 ここで主イエスは、44節「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」と言われます。そして、46節「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」と言われました。旧約聖書、主イエスが御復活された時には、まだ新約聖書はありませんから、聖書と言えば旧約しかないのですが、この聖書に書いてあるとおり、わたしは聖書が告げたメシアであり、わたしは十字架にかかり三日目に復活したのだ、そう言われたわけです。ここで主イエスは、御自身が誰であるか、聖書が記すメシアであるということを明確に告げられたのです。そして、十字架も復活も、聖書に書かれていたことであり、神様の永遠の御計画の中にあったことなのだ、そう告げられたのです。この天地創造以来の神様の永遠の御計画は、この主イエスの十字架と復活によって完成し、全てが終わったのでしょうか。そうではありません。47節に「『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」とあります。罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられていかなければならないのです。全世界の人々の救いこそ、神様の御心なのであります。使徒たちは聖霊なる神様の導きの中、この主イエスの言葉を思い起こし、全世界に主イエスの福音を宣べ伝える者とされていったのです。
 主イエスの弟子たちは、復活の主イエスに出会い、信じられない程の大きな喜びを知りました。この肉体の死によって終わらない命へと招かれていることを知りました。しかし、それは自分一人の中にとめておくような喜びではありませんでした。全ての人々をそこに招き、共に与る喜びでした。彼らは主イエスの証人として遣わされる為に、復活の主イエスとの出会いを与えられたのです。
 「救わんが為に救われた。」という、キリストの教会で長く語られてきた言葉があります。自分が救われたのは、自分を通して一人でも多くの者が救われる為だ。自分の救いは、自分だけのものではないのです。
 主イエスの弟子たちは、この復活の主イエスとの出会いによって変えられました。神様の大きな救いの御業の中で生かされ、それに仕える者として召されたからです。自分の幸い、自分の願いというもの以上のもの、自分の人生に意味を与える大きな使命と言うべきものを与えられたからです。これを召命と言います。この主イエスの召命に応えて生きるという新しい人間がここに誕生したのです。良いですか皆さん。私共には召命が与えられているのです。復活の主イエスを信じる者には、この復活の主からの使命も共に与えられているのです。この主イエスからの使命、主イエスの召命というものに生きることを志そうとしない信仰は、使徒以来私共が受け継いできた信仰ではありません。
 主イエスが十字架にかけられ、死に、弟子たちは恐れていました。自分たちも主イエスの弟子として捕らえられてしまうのではないかとも思っていました。しかし、そのような恐れに満ちた弟子たちに、復活の主はその御姿を現し告げたのです。「あなたがたに平和があるように。」この主イエスの言葉は、弟子たちの中で出来事ととなりました。彼らは恐れから解き放たれ、平安を与えられ、主イエスの証人として立てられ、立ち上がったのです。人は何を恐れるのでしょうか。病気・世間体・子どもの将来等々いろいろあるでしょう。しかし、その最後の恐れの正体は「死」なのではないでしょうか。復活の主イエスはその死を打ち破り、これに勝利された方として、私共に今朝も告げます。「あなたがたに平和があるように。」今朝私共は主イエスの名によって、共にここに集っています。主イエスはこの中におられ、私共と共におられるのです。この私共のただ中におられる復活の主が告げるのです。「あなたがたに平和があるように。」私共はこの主イエスの祝福に包まれているのです。この主イエスの祝福を壊すことは誰にも出来ません。死さえもこの祝福を破ることは出来ないのです。この幸いを感謝しつつ、新しい一週へと、主イエスの召命を受けた者として遣わされてまいりたいと思います。 

[2008年8月24日]

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